櫛を失くした男 五

 松の旦那の話していた呉服屋は、松の旦那の店とは通り一本違いの、広い表通りに店を構えていた。時間帯のためもあるのか、人通りに反して店前に客の影はない。紺色の布地に白で屋号を染め抜いた日よけ暖簾と壁の隙間から、身なりの良い男が店先の座敷に片あぐらをかき、片方の足はぷらつかせながら書物を読んでいるのが見えた。

「ごめんください。休憩中に失礼するよ、錦兵衛」

 松の旦那が暖簾をくぐると錦兵衛と呼ばれた中年の—―ここの店主と思しき男が顔を上げた。

「連日顔を見せに来るなんてどうかしたのか、源郎。……そちらさんは?」

 店主は松の旦那を流し見し、すぐに惟臣に視線を留めた。値踏みをしているのか目がすっと細くなる。

 しかれども惟臣とてそれは同じである。総髪であるのに不潔さがなく、まったく身ぎれい。愛嬌や愛想があるとは言いがたく、切れ長の黒い眼は鷹を彷彿とさせ、その眼光が、心の中に一本の筋がちゃんと通っているように感じさせる。手堅い偉丈夫。

 侮りがたい雰囲気ではあるが、惟臣にとって店主は好感の持てる相手であった。

「ちょっと聞きたいことがあってね。あ、こちらは桃苑とうえん町で何でも屋をやってる惟臣さん」

 惟臣は軽く頭を下げる。

 店主は手にしていた本を閉じ脇に置くと立ち上がり、頭を下げた。

「こりゃどうも。ここ藤乃井屋の錦兵衛と申します。以後お見知りおきを。――お前さん、珍しい毛色だな」

 店主は先ほどの値踏みするような目ではなく、純粋に感心した面持ちで顎を手で撫でる。

「だろう? 赤おにさんって呼んであげてよ」

「あー、確かに」

「いや、惟臣でお願いします」

 幼馴染みだと感性も似てくるのだろうか、――似ていたような気がする。遠い昔、つねに隣にいた幼馴染みのような兄弟のような何某が脳裏によみがえり、少し不快になった。やはり髪を染めてしまおうか。

 ぶすくれる惟臣などに構わず、店主は座敷に座り直し、松の旦那はその横に腰を落ち着けた。

「んで、どうした。やっぱりかみさんに許してもらえなかったのか?」

 店主がそこいらの丁稚に茶を持ってくるように指示をし、いたずらっ子のように笑う。

「許してもらう以前の話になってしまったんだ……」

「はあ?」

 松の旦那がしゅんと項垂れる。そして空いている自分の横をたしたしとふっくらした手で叩く。惟臣にも座れと促しているようだ。

 惟臣が座ったところで松の旦那は話さない。またも、もじもじし始める。彼のその癖に慣れているのか店主は待ちの姿勢。茶が運ばれてきた。

 松の旦那は温かい茶で唇を湿らせ、惟臣をちらりと見た。

 惟臣は思った。自分で言え、と。既知なのだから言って怒られるなり、呆れられるなり、馬鹿にされるなりすればよかろう、と。

 松の旦那は惟臣を見つめ続ける。助けてと訴える。

 これは前金に含まれるのか。惟臣は熟考し、

「藤の旦那、昨日、松の旦那がここに来た時、女物の櫛を持っていたか、覚えていますか?」

情報収集も仕事の一環だと口を開いた。

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