櫛を失くした男 四
「で、松の旦那。櫛はどこで失くしたんだ?」
女房の櫛を失くした場所などたかが知れてはいるがとりあえず尋ねてみる。
松の旦那は途端に地面に目を縫い付けながら、少し言いづらそうにぼそぼそと声を潜めた。
「蕎麦屋か、呉服屋か、貸本屋か……、一番可能性があるのは……、その……、茶屋かなぁ……」
最後などは囁きと同じ、ともすれば独り言ともとれる声量で、絶望すら滲んでいる。
惟臣がなんとも言えない表情で、松の旦那のまだまだ黒い髷を見下ろした。視線に気づいたのか、松の旦那が照れ顔で見上げてくる。
「なんでそんな所に細君の櫛なんざ持ってたんだよ」
松の旦那は両手の人差し指の腹を合わせ擦り付けはじめる。若い女がやればまだ様にもなるが、男にやられれば気色悪いを通り越してイラっとする。
惟臣は頬が引きつるのを感じ、ごまかすように咳払いを一つ。抜けるような蒼天へ視線を逃がした。
「櫛を欠けさせてしまってね、修理が終わったのを回収した後だったんですよぉ」
「はっちゃけたのか」
「かみさんにいつバレるかずっと恐怖の毎日だったもので」
「爆発したんだな」
悪いことが発見され懺悔する子供のようである。
松の旦那はにわかに惟臣の着物の袂を掴むと控えめに引っ張り下ろす。つられて惟臣も顔を松の旦那に戻さざる得ず。
見下ろした先には声の通り、目を潤ませた松の旦那がいた。
「頼みます、赤おにさん! かみさんの気の強さはご存じでしょ!? 後生、後生ですから頼みます! まだ死にたくない!」
袂を何度も引っ張り下ろされ、合わせがずれて着物がどんどん崩れていく。上は良いとして下がずれるのはいただけない。人の往来が多いこの場では本当にいただけない。なんなら騒ぎを横目に見ながら過ぎていく人の多いこと、多いこと。公衆の面前で服をひん剥かれる趣味は、あいにく惟臣にはない。
惟臣はずれる合わせを引き戻し、ついでに松の旦那を引きはがす。手を組み拝む松の旦那は、そのまま足に縋りつかん勢いがあった。
「前金はもらってんだからやり通すって! 頼むから正気に戻ってくれ!」
本気で涙ぐんでいたらしい松の旦那は袖で涙を何度も拭う。鼻をすんすんと鳴らす。
太息を禁じ得なかった。
「それでその内のどこかに訊ねてはみたのか?」
松の旦那は懐紙を取り出し、盛大に鼻をかんでから答えてくれた。
「赤おにさんたちのところに行く前に、蕎麦屋と貸本屋には尋ねてみたんですが、ないと言われまして」
「ちなみにその二店は馴染みの店か?」
「ええ、昔馴染みですよ。呉服屋の主人とは幼馴染です」
旦那は廃れたものには運が吸われると、そういう人にも店にも近寄りたがらないし、ご自慢の目も、なんなら鼻も贔屓目なしによく利く。蕎麦屋、もしくは貸本屋が困窮ゆえに忘れ物をくすねた、と言う可能性は低いだろう。
その線で考えれば呉服屋にも同じことが言える。なので、忘れ物があったのならば連絡くらいは寄越しそうなものだが。
「呉服屋から櫛に関して何か連絡はなかったのか?」
「そういえばないですねえ。ああ、ということは……」
松の旦那も察した様子だ。
「ま、呉服屋を訪れた時点で持っていたかどうかは確認しに行って損はないか」
松の旦那に連れられて件の呉服屋を目指すことになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます