櫛を失くした男 三

 松の旦那から前金をいただいた惟臣は彼と肩を並べ、昨夜彼が立ち寄ったという蕎麦屋に向かった。

「佐吉さんはいなくなってしまいましたが、何でも屋も忙しいんでしょうか?」

「最近は探し人の依頼が多いな。今で四、五件はきてた気がする」

「ああ、神隠し事件ですか。うちの客にもいるんですよ」

「夜逃げじゃあないのか?」

 惟臣がくつくつと笑う。

「没落したお家はないと聞きますし、そんな家にうちは物は売りませんって」

 人を見る目はあるんです、と鼻を鳴らす。そして少し眉を下げて、申し訳なさそうに惟臣を見上げてくる。

「しかし、そんな忙しいときに赤おにさんを借りて、本当によかったんですかね」

 松の旦那は両手を腰の後ろに回わし、胸を張るようにして歩く。店先ではいつもそんな姿勢だから癖になっているのかもしれない。一際目立つようになった丸いお腹の上で、羽織紐のぼんぼんがある気に合わせて愉快に跳ねる。

 惟臣は頭の後ろで手を組んだ。

「大丈夫じゃないかな。奉行所とかも動いてるし。俺たち程度が動いたってたかが知れてる。藁にも縋る気持ちでってところだろ」

 自分たちは困っているのだから助けてくれと焦燥しきった顔でやって来る。何でも屋なんだろと縋りつく。なんとかしろよと無理をしいる。

 どいつもこいつも醜い顔で叫ぶのだ。惟臣はそんな人間の顔が苦手であるし、大嫌いであった。

 ならばなぜ客商売をしているのか。そんなもの、佐吉の商売がそれであったからというほかにない。武陽に出たのはいいが、見た目のせいでどこも雇ってくれなかった惟臣を拾ってくれたのが佐吉であったのだ。惟臣の見た目も、接客態度も気にしない彼のところだからこそ居続けている、ただそれだけだった。

「赤おにさんは手厳しい」

 しかめっ面になっていた惟臣を見て、松の旦那は苦笑した。

 惟臣は松の旦那を見下ろしてにやりと笑う。

「そんなことはねえよ。俺は払われた金の分だけ、真面目ぇに働くだけだ。前金も払わないアイツらがおかしいんだ」

 松の旦那が穏やかな笑い声をあげる。

「確かに、赤おにさんは支払った分に見合った仕事をしてくれる。まあ、それ以上をしてくれないは玉に瑕ですけど」

「商売に過剰労働はなしでしょ。追加料金をどーぞ」

「否定はしませんね」

 松の旦那はおかしそうに笑う。

 惟臣も一緒になって笑いながら、心は冬の夜のように冷えていく。

 恩だとか、情だとか、そんなもので動くべきではない。そんなもので動いてしまえば人はつけあがるもので、つけあがりはやがて傲慢になって、傲慢は無理を押し通すことを是とするものだ。

 その結末は悲惨なものだった。複数の人生を眺め、それらすべてが悲惨なものであったから学んだのだ。恩だの、情だの、不確かなものなどでもう動きはしない。動きたくない。

 だから金はいい。渡された金の分だけ仕事をすればいい。成功報酬よりも定額を示してくれればなおいい。

 人間なんぞそんな繋がりだけでいい。

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