櫛を失くした男 一

「あれだけ高い場所なら町がよく見えそうだな」

 蕎麦をすすり、職場の兄貴たる佐吉が呟いた。

「見えねえだろ」

 その隣で同じく蕎麦をすすり、惟臣は兄貴の視線の先にある者を見上げた。

 雲のない蒼天に溶け込みそうな深い緑のはっぴをまとう若い青年が、はしごの上で軽快な掛け声と共に飛び跳ねている。

「しかしあの男はバカなのか」

「素人にはしごを持たせている時点でバカだな」

「荷物も放り出してるぞ」

「刀もあるぞ。隠しもしないで剥き出しだわ」

「バカだなあ」

「最高にバカだ」

 二人揃って蕎麦をすする。

 はしごの上で身軽に動き回る青年のはしごは、その辺にいた一般人の四対の腕でもって保たれている。はしごを支える一般人の葉の食いしばりようといったら、そろそろ額の血管が破裂しそうに見えた。

 惟臣は哀れ哀れと蕎麦に浮く芝えびの天ぷらを献上してもいいと思いながら、最後の芝えびを口に入れて歯ですりつぶす。

 観客から歓声が上がる。はしごの上に目を戻すと、青年が足ではしごを抱え、体を逆さづりにぶらぶらと左右に揺れているところであった。はしごも危なっかしくガタガタと揺れる。

「おっちゃんがた、もっと腰入れて支えてくれよ!」

「うるせえ! さっさと降りろクソ坊主!」

 着物の裾をからげた男の胴間声にまで観客は声を大きくして笑う。青年は調子に乗ってもっと体をゆする。それにはしごを支える男ががなり、他の三人も怒り出す。

 バカだなあと惟臣は蕎麦をすすった。兄貴から芝えびが一尾贈られる。礼を言ってさっそく口に放り込む。

 男たちがはしごを派手に揺り動かす。調子づいていた青年が今度は慌てふためき、はしごにしがみついておいおいと許しを請い始めた。観客はげらげらと笑うばかり。

「ごちそうさん」

 兄貴が先に蕎麦を食べ終わり、どんぶりを屋台の棚に戻す。店主が「おそまつさん」とそれを引っ込める。

「あれ、落ちるかな」

 兄貴は腕を組み、肩を鳴らす。青年はいまだに頑張ってはしごにしがみついていた。

「まだまだいけるだろ」

 泣き言を言っている割には、はしごにしがみつく腕と足からは力が抜けている様子がない。むしろはしごを揺らしている男たちの方に疲れが現れてきているきらいがある。

 惟臣は最後の一本となった蕎麦をちゅるいと吸い上げる。ついでにどんぶりに口をつけて汁まで飲む。やはりこちらの汁は記憶にあるものよりも醤油臭くてしょっぱいとひそかに顔をしかめる。

 けれどもどんぶりの底が見えるくらいまでは飲んだ。ここで残すのも店主に悪いと、周囲のどんちゃん騒ぎを糧に飲み下していく。

 そんな折だった。

「あー! やっと見つけた! 佐吉さーん! 赤おにさーん!」

「あ、落ちた」

 聞き馴染んだ人懐っこいふくよかな声と、兄貴の声が綺麗に重なった。どさりという音もして、どっと観客が湧く。

 汁を飲み干し、どんぶりを下ろして見た景色には、はしごばかりが蒼天にかかり、青年の姿は見えなかった。

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