学部 新人責任者 (4)私が独占している二百万円の情報
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は、同窓の浪人女子「ソウシ」の御蔭もあって一浪の後、漸く大学に合格した身。
しかし、学生時代三度目となる「応援」部に入部した駿河は、彼女との様々なすれ違いから静かに別れを迎え、卒部した「綾瀬」先輩に「普通の学生の過ごし方」を教わることに。
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其の後の卒部コンパを境に、「綾瀬先輩」は「綾さん」に変わった。
二週に一度はカットしていたという髪もあっという間に伸び、それまでのボーイッシュな精悍さとはすっかり違った謂わば《女性らしい》雰囲気になりつつあった。
「良い? もう《先輩》なんて呼ばないのよ! こうして私服なんだから。」
「ハイィッ。」
「だから、それも止めなさいってば!」
「しかし…。」
「しかしもへったくれもないの。通常のOGだと思って、先ずは社会常識的な言葉遣いでOKよ。」
「そう急に言われましても…。」
「まあ、良いわ。兎に角『先輩』と『ハイィッ』と『失礼します』は止めなさい。」
「ハイィっ…アタタ。」
使う度にグーで殴られる。『先輩ではなくなった』ことを押しつけられながら、不条理にも、こういうところだけは上下関係が残存している。
* * *
年が明けて、本格的に新しい体制での練習が始まった。
「駿河!」
「ハイィッ。」
「うん、よく練習してると思う。」
「どうも、有り難う御座居ます。」
新準幹部・リーダー副責任者の国分さんが解散後に近寄ってきた。
「…でな?」
「ハイィッ。」
「お前、綾瀬先輩に囲われてるってホントか?」
「…。」
「ごめん、ごめん、囲われてるって表現がエグかったな。」
「ハイィッ。」
「付き合ってるのか?」
「いえぇ、勉強させて戴いております。」
「は?」
「ハイ、『お前はリーダー馬鹿だから、それ以外の世界をきちんと見聞しておけ』と、ご卒業までの期限付き、ということで、色々と教えて戴いております。」
「何だ、そりゃ?」
「ハイィ、正直、私にもよく分かりません。」
「まあ、良いや。綾瀬先輩だから大丈夫だと思うけど、本末転倒にならないようにしておけよ。」
「ハイィ、どうも有り難う御座居ます。」
* * *
綾さんは、土曜、日曜と、応援と練習がなければ大抵僕の部屋に来ていた。寮とは言っても、応援部のOGともなれば男性同様で、特に色眼鏡でも見られず、殆どフリーパスで至極当然のように寮内を歩き回って居られるのは、綾さんが最初に言われた通り、非常に好都合なことだった。
「駿河君。」
「はい。」
「硬いわねぇ…。」
「はい。」
「もっと、普通に返事出来ない?」
「無理です。」
特段に緊張しているから、という訳ではなく、他の先輩方と同様、一朝一夕に「普通に相手をせよ」と言われても、土台無理な話だった。
「ま、良いか。君、アルバイトしてる?」
「いえ。」
「そう、これから六大学野球でも、七帝戦でも、下級生を連れて歩くのにお金がかかるのは分かってるわね。」
「はい。」
「常に学年 カケル 十五万円を持っていられるように貯めるようになさい。」
「常に、カケル 十五万円ですか?」
「そうよ。」
「皆さん、どうやって貯めるのでしょう?」
「アルバイトよ。だから、今日は良いものを持ってきてあげた。」
「何でしょう?」
「歴代の各学部の鬼教官の完璧ノート集。ほら。…よっこいしょっと!」
何を大きな風呂敷包みを抱えていらっしゃるのか、と思えば、端の草臥れたノートや仮綴じのプリント類が山のように現れた。
「これは凄いですね。重たかったでしょう?」
「君の為を思えばこそよ。」
「有り難う御座居ます。」
「そうそう、そうやって素直に感謝するのは良いわね。」
「で、これをどうするんでしょう?」
「試験時期に売りなさい。」
「売る?」
「そう、注文をとり、複写をとって冊子にして売るの。」
「でも、それだったら各部自分でコピーをとるでしょう?」
「馬鹿ね。コピーよりも安くするのよ。」
「それじゃ赤字になるじゃないですか。」
「良い? コピー機は一枚十円から二十円。安いところで大量に頼んでも一枚七円よ。」
「はあ…。」
「でもね、大量印刷するなら公共施設の印刷機を借りると一枚約一円六十銭よ。」
「え? 其様な所があるんですか?」
「一人でコピーしようと思うと七円のお店は使えないから、コピー機での最安値と同じ十円の単価で売りなさい。人件費として差額の八円四十銭が君の収入。」
「えっと、たとえば、此のノートなんか五十ページあるから一冊四百二十円の収入ですか。」
「そう。大体一冊最低四十人は売れるわよ。だから一万五千円はカタイわ。大人数の講義なら二百人は売れるから、十万円近くになるときもある。」
「一冊で一万五千円? これ何冊あるんですか?」
「とりあえず二年生の講義分だけ持ってきてあげたから、四十冊。」
「単純計算で最低でも六十万円ですか?」
「私は此の方法で幹部になるまでに二百万円を作ったわ。」
「でも、それが分かっていながら、どうして此の方法を他の人はなさらないんですか?」
「私が全部持ってるから。」
ストンと答える綾さんの表情に少しの威圧感と近寄り難い勤勉さを覚えた。
「…恐ろしいほどの情報の一極集中ですね。」
「というより、皆面倒だから自分ではやりたがらないのよ。数百円なら他人から買った方が楽だもの。それに自分でコピーするより安ければ尚更のことよ。」
「まあ、そうですね。確かに二百人分のノートを帳合いして、綴じることを考えると…。」
「徹夜は必至ね。でも空いている時間にボチボチやれば大丈夫。」
其の当時、学生にはワープロやパソコンなどという電子文具は無かった。関数電卓だって理工系のごく一部の学生が漸く買えるくらいのもので、タイプライターも電子タイプが生協に出始めた頃だ。
セルフサービスのコピー機は探せばあったが大抵は一枚二十円。安く使える専門店でも一枚十円が矢渡の時代だった。賃借りで使えるコピー機や、印刷機などというのは、今のようにソーター(自動帳合い=複写物を部単位で分けて呉れる装置)など付いていなかったから、五十頁の二百人分=一万枚の原稿を一枚一枚拾って部単位に仕上げなければ不可ない。それは、考えただけでも単純で時間のかかる仕事な訳で、、それを思うと一枚八円四十銭の人件費というのもあながち無理のない価格なのではないかと思えた。
「君は、そういう苦労を無心になって練習にしちゃう男だから、出来るだろうと思って持ってきた。」
「有り難う御座居ます。」
「それだけ?」
「感謝しております。」
「だから、それだけ?」
綾さんが微笑んで様子を見ている。
「えっと、原価をお支払い…?」
「馬鹿、誰もお代を寄越せなんて言ってないわよ。」
「有り難う御座居ます。」
僕は部屋の中で土下座した。
「君はさ、本当にこれまで女性と付き合ったことがあるの?」
「え?」
「何人と付き合った?」
「えっと…。」
指を折り始めた僕に、
「ああ、一応あるのね。複数回は。」
「はい…。」
「それでよく愛想を尽かされたり、放り出されたりせずに、関係がもったわね。」
「はい?」
「元から承知の上だけど。鈍感というか、慎重というか、肝心なところが抜けている、というか。」
「申し訳ありません。」
「これも前にも言ったけど、そういう人許りだったんでしょ?」
「そういう人?」
「君がそうやってオロオロしている間に、焦れ切って全部お膳立てして呉れる人よ。」
「ああ、僕からすると、考えも行動もどんどん先に進んで行って了って、後から僕が叱られる場合が殆どでした。」
「それは、彼女達が先に進んでいるんじゃなくて、君が遅れてるんだよ。」
「そうなんでしょうか?」
「少しはね、女性の心を先読みするとかした方が良いわよ。」
「先読み?」
「こうきたからには、こうしたら喜ぶだろうな、とか、こうして欲しいんだろうな、とか。」
「成る程。」
「時々、それが勘違いだったり、すれ違ったりしたって良いじゃない。人間なんだし、それも経験なんだから。」
「鳥渡怖いですね。」
「ほら。其処よ、妙なところに臆病なのね。なんで当たり前のミステイクに其様なに怯える訳?」
「大抵恋には頭が回らなくて叱られて許りだったので。」
「まあ、其処が良いのか知らねぇ…。でも偶には先回りしなさいよ。そうでないと、飽きられるか疲れられちゃうわよ。それに実践は兎も角としても、女心を読めないような男は、何をするにつけ先読みが出来ないから駄目よ。」
「駄目、ですか…。」
「そう、駄目。じゃあ、今の状況を先読みして御覧なさい。」
綾さんがベッドに腰掛けた儘、腕組み、足組をして見下ろしている。
「え?」
「え、じゃないの。」
「…。」
じっと考えてから、彼女の手をとった。
「有り難う御座居ます。」
「六十五点。」
「赤点ギリギリですね…。」
「其の言葉が『重いものを君のためを思えばこそよ』のところで出ていれば百点。今頃、出ても六十五点。」
僕は、唇を固く結んで、もう一度考え込んだ。
「私が独占している二百万円の情報を、君なら出来る、君のために無料であげる、というところまで明かしたら、両手を握って有り難う御座居ます、じゃあ不合格でしょう? ほら、駄目で元々で練習だと思って考えてご覧なさい。」
「えっと…失礼します…。」
促されるように綾さんを抱きしめてみた。
「有り難う御座居ます。私のために。」
「よしよし、百点、百点。『失礼します』と『わたくし』は減点だけど、まあ良いわ。」
「綾さんて…。」
「何?」
「意外と筋肉質なんですね。」
「チア出身なんだから当たり前でしょ。」
「なんか、其の儘サバオリにされそうで…、結構…キツイです。」
「アハハ、ごめんごめん、力入れ過ぎた?」
「あぁ、でも何だか久しぶりです。」
「温泉にでも浸かってるような言い方ね。」
「癒し効果としては、同じですよね。」
体温の効果というか、人の温もりというものに存在する癒し効果というものに、ベーデと付き合っている頃から慣れて了っていた。それを此処暫く感じずに冷え切っていたので、こうした体温『浴』には正直、遠赤外線のように芯から癒された。
「ほ~ら、言った通りでしょ。リーダー馬鹿で突っ走ってるから全身が凝ってるのよ。」
「フィジカル的にはきちんと解してたんですけれど。」
「メンタル的に解してないからガチガチなの!」
* * *
「駿河ぁ? 居るかぁ?」
室外の廊下で国分さんの声がした。
僕等はバッと瞬時に離れ、僕は国分さんの所に走った。
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