学部 キキとした天性 (3)技術的な犠牲者や燃え尽き犠牲者
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は漸く大学に合格した身。
充実しきっていた中・高の反動で失敗した大学受験も、同窓の浪人女子「ソウシ」のおかげで何とか乗り越えた。
進学先の大学では、学生時代三度目となる「応援」部に入部。同窓の先輩女子「綾瀬」と出会い、早々に懐き始める。
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たかが違う大学に進学した、というだけで、此処まで距離感が出て了うのか、というのは予想外のことだった。
言わずもがな、
江戸時代でもあるまいし、ちょっとやそっと離れていたとしても何処でも電話がある。浪人時代でもあるまいし、会い度いと思えばいつだって会える・・筈だった。
しかし、現代の生活というものは、
大学に入学すれば、精々忙しいとしても彼女とは毎日、電話ででも話が出来るもので、何様なに最低でも週末くらいには顔を合わせられるものだと考えていた。
ほぼ毎日顔を合わせていた浪人時代の比ではないが、会える時の心理的な余裕と時間の長さを考えれば、それでも十分であろうと多寡を括っていた。
それが、部の練習、レポート、実験等々をこなしているうちに、気がつけば深夜になり、電話すら出来ない時間になっている。これには驚いた。
(なんだぁ、此の状況は?)
中学、高校で遠距離通学の不便さを嫌というほど知っていた僕は、通学にかかる時間を一分一秒でも節約するために、大学の極々近くに小さな部屋を借りた。そして、暫くすると、更に賃料と自炊の手間を省こうと何度目かの銓衡で学生寮に入り込んだ。
学生寮の入寮銓衡出しさえすれば、殆どフリーパスに近かった。しかし、逆に入寮がプライベートの時間を更に削った。何せ二十四時間応援部に居るのと同じ状況だ。滅茶苦茶上下関係が厳しいとか、理不尽極まりないとか、そういうことではなかったが、上級生というガキ大将を中心とした小学生時代に戻ったようなものだった。人生勉強にもなる代わりに、自分の時間や空間はある程度制限されて了う。
大学生なのだから勉強もする。応援部だけで一日が終わる訳ではない。朝一番で部室に行き、軽く片づけをしてから講義に出る。講義が終われば部室に戻って雑務や勉強、其の合間は学生ホールで勉強やら時間つぶしと、特に他の部活動と大きく違うようなことはなかった。
今の学生なら、真っ昼間でも少し時間があれば《携帯》や《メール》で連絡が取れるが、当時は真っ昼間など、自分以外の人間が何処にいるのか、など知る術も無かった。
大学生と言ったって、どこでも最初の一年半~二年の間は教養課程で、殆どは高校の授業の延長のようなものだ。
それまで受験には全く役に立たなかった中学、高校の授業が大学に入学してから役に立った。英語のテキストが中学三年と、高校二年で使った副読本と全く同じだったこと。ドイツ語のテキストは高校三年で使った副読本と全く同じだったこと。これは全て書き込みが済んでいたので重宝した。
特に多くの学生が苦労していた初修のドイツ語も、先に二年間の基礎を終え、入試でもドイツ語を選択した身にしてみれば、有り余るほどのハンデを持っていた。
残るは人文科学・社会科学・自然科学・総合講義・体育系。体育系は身体が鈍らない程度のもので、これも高校の授業の延長。人文・社会・自然の三科学と総合講義では成る可く活動や練習時間に重ならないように、興味のある分野の講義を選択していれば辛いとか大変ということはなかった。
* * *
周囲を見渡していると、最初こそぎっしり新入生が詰まっていたキャンパスだが、其のうちポツリ、ポツリと櫛の歯がこぼれるように大学に来なくなる。
そうして大学でフェードアウトして
一方は、遮二無二なんとか合格するだけの受験技術だけで入学(というか合格)してきて、大学の講義・試験方法に全く従いていけず、懸命に講義にも出席しているのに単位が取れず、取り残されていくパターン。いわゆる《
他方は、大学に入学(というか合格)して目標が達成され、「後はナントカなるさ」という勘違いで講義にも出ず、当然試験でも点数が取れず、(最低限真面目に取り組んでさえいれば卒業は出来たかも知れないのに)ボロボロと単位を落とし、最初こそ講義では見かけなくても大学には来ているが、其のうち大学でも見かけなくなり、放校処分となるパターン。いわゆる《
いずれのパターンでも、高校までの過ごし方に問題があった筈なのだが、当人達に責任も自覚もない分、気の毒としか言いようがない。
大学でのハードルの乗り越え方など簡単だ。自分で飛ぶ、それしかない。脈々と伝わる「講義録」はあるので、取り組む気にさえなればほぼ万人に平等に機会が与えられているものの、(一)取り組み方が分からない、又は間違っている=技術的な犠牲者、(二)取り組む気がない=燃え尽き犠牲者、といった彼らには、それすら何の役にも立たない。
では此の両者には全く大学を卒業する可能性がない、悲観的な状況なのかと言えば、「考え方を改める(あるいは気づく)」ことさえ出来れば済む。これまた簡単に復帰できるのだが、それが出来れば最初から苦労はしない。最初でこそ、周囲が少し気遣っては呉れるが、手取り足取り面倒をみることなど、彼氏や彼女でもなければ出来やしない。其の彼氏や彼女でさえ、一方が放校処分になる事例が後を絶たなかったことを考えると、矢張り、自分で何とかするしかない、というのが大学だった。
* * *
大学の教養学部での講義、演習、試験は、大学だからといって特別なものでもなかった。
講義の内容を理解する、自分で整理しなおす、それを問われる儘に表現する。それさえ出来れば講義への対策は問題ない。演習は、示された通りに粛々と実演、再現する、それに尽きた。
試験は、何れも講義と演習の内容を把握してさえおけば、不可にはならなかった。そう考えると、大学の教養課程ほど気楽な(というか楽しい)勉強はなかった。
最初から気力が失せている燃え尽き犠牲者は別として、技術的な犠牲者は「講義内容の理解、整理、表現」のプロセスが出来ないことで躓いていた。彼らの多くは、こうした三段階ではなく、「知識、反映」という二段階の所謂「反射」的な学習(というか練習)しかしていなかった。
大学の講義や演習は中学や高校までの教科書とは違って知識の「反射」だけでは形にならない。講義・演習内容からしか試験は出ないが、言われたこと、やったことが、其の儘試される訳ではない。必ず一度自分の頭の中で「咀嚼」しない限り、解答不能な問い方をしてくる。
最も簡単な問いかけは「要約」。最も簡単な例は「私の講義で、私が言いたかったことは何であったか?」。これに対して「反射」的に解答することは不可能だ。
もう少し講義に即していれば「□□が唱えた○○論は、従来の学説とはどのような点が異なり、また其の後の学説にどのような影響を与えたのか。」。これも「反射」的な解答は無理。講義録を流し読みしてマーカーで線を引いているような中学・高校生程度の対策では書けない。
「咀嚼」さえしておけば、何かは書ける筈なのに、技術的な犠牲者は、《言われるが儘》に生きてきたので、此の「咀嚼」が出来ない。そういう思考体系になっていないらしい。やっていないどころか、寧ろ無駄な思考をしないようにテクニックを叩き込まれているので、もう新しい考え方は出来ないらしい。となると、後は…推して知るべしである。
* * *
僕が大学で比較的「拘束時間」が長い部類の応援部に所属しながら、《学業》面で比較的安穏な生活を送れたのは、先輩方の講義録の御蔭もあったが、矢張り一高時代に、ベーデにせがまれて見せたような、文字通り「1+1」からの勉強法があったからだろう。
数学は代数学事典、解析幾何学事典、理科は各科の精講シリーズ、国語は旧制高校の過去問を中心とした読解、独語は単語(派生語を含めて3000)、熟語(1500)、慣用句(500)を簡単な用法と共に覚えつつ、只管論説文や一般的な文学作品の対訳本で読解と作文練習(万が一、独語が頭に思い浮かばなかった時の英独翻訳用に英単語8000を覚えておいた)。社会は、通史(外交史、政治史、文化史)の概略を覚えた後に細かい年号や出来事について因果関係を核として樹形図のように整理した。
現役の時でこそ、漠然とした形になりかけくらいの代物だったが、一浪してからも方針を変えずに繰り返すうちに、夏休み頃には余程の「奇問・新問」と言われるもの以外は、大抵の問題は解法の糸口を見いだすことが出来た。
帝国大学系の入試問題は、大学に入学してからの試験の入口のようなもので、「何が問われているのか」さえ理解できれば、後は自分で其の分野に関する正確な知識と周辺事情を準備出来れば解答は作成出来る。重箱の隅を突くような細かいことに悩まされる必要はない。総合力や統合力の方が問われている。
おそらく、僕は私立大学を受験していたら軒並み不合格だったに違いない。
枠が沢山ある解答用紙らしい解答用紙ではなく、精々受験番号・氏名の他は問題番号くらいしか書かれていないフリーハンド形式が殆どを占める旧帝国大学系の解答用紙だったからこそ合格できた。
数学、理科では、問われていることを要約して理解し、其のための解答指針を立て、そして用意されたソースを使って指針に当て嵌める。其のプロセスを只管繰り返していれば、理解も広がり、解答にも慣れる。さらには大学入学後の講義・試験にも対応出来る。
国語、社会でも、基本的には同様。問われていることを本文内で正確に把握し、それに対して正確に「回答」する。其の際、問われ方に応じた日本語の修辞法に留意する。それだけである。
語学は、理解すること、表現すること、それを高度な技ではなくても「言語」として実践することに終始した。
受験対策など、経験者が言って了えば此様な数行で終わって了うものだ。
残りは、個人個人での実践方法が異なるだけだ。ただ、技術的な犠牲者や燃え尽き犠牲者になって了うような対策だけはとらない方が、其の後のためにも良いのではないか、と痛感する。
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