真夏のプロキオン

 頭上には真昼の青空が広がっている。

 蝉時雨が降り注いでいる。

 隣の車線のトラックから排気ガスの匂いだけが流れてくる。

 ――暑い。

 気温は三五度を超えているだろう。一五年前に比べ、平均気温は確実に上がっていた。そして私は、三〇代の半ばに差し掛かっていた。


 彼女のことを思い出したのは、ずいぶん久しぶりだった。

 あの日、夜が明けた後、私は片瀬江ノ島駅の自転車置き場に自転車を停め、小田急の始発に乗って帰路に就いた。自転車で戸田市まで戻る体力も気力もなかった。列車が動き出すと猛烈な睡魔に襲われ、その後の記憶はない。

 両親には自転車は盗まれたと嘘をついた。あまり追求はされなかったし、高校を卒業してから自転車に乗る機会もほとんどなかったから、困ることもなかった。私と彼女を乗せて旅したあの自転車は、きっと放置自転車としてどこかでスクラップにされてしまったのだろう。

 私はそれからしばらく灰色の浪人生活を続け、次の春、大学に入学した。


 大学に入っても、私はなかなか彼女を忘れることができなかった。あのときはああ思ったものの、彼女が本当に生きることを選んだのか確証がなかったこともあるし、生きていたとしても、彼女が抱えていたであろう問題を解決できたのか気がかりだった。彼女ほど私に相応しい女性はいないという想いもあったし、私こそが彼女に相応しいとも思った。正直に言えば彼女を抱きたかったし、あの夜の判断を何度も後悔した。


 それでも、時は流れる。


 大学での新しい出会いと慌ただしい日々のなかで、少しずつ記憶は薄れた。あの日の失敗があったからこそ、私はそのあとで出逢った女性に対し、上手く立ち回ることができた。最初の恋人ができてからというもの、彼女は夏がくる度に思い出すだけの、記憶の中の光になった。

 あるいは本気で彼女を探せば、再会することもあり得たのだろうか?

 しかしそんなことをすれば、あの美しい夜の記憶も壊れてしまうような気もした。なんとかやっていくと彼女は書いたのだから、それを信じるしかない。

 彼女と再会するより、彼女が宇宙に行ってしまったのだと考えるほうが、私にはまだしっくりくる。


 彼女にもらった手紙は、実家の引き出しの奥に大切にしまってあった。けれどそれも結婚を機に処分した。私と彼女を繋ぐものはもう、この頼りない記憶以外になにもない。

 そしてその記憶さえも、ずいぶんとあやふやになってしまった。目を閉じても、彼女の顔も、彼女の声も、はっきりとは思い出せない。たった一五年で記憶がこんなにも曖昧になるなんて、あの頃には想像もできなかった。

 けれど、あの日の欲望も後悔も、繰り返すいくつもの夏の記憶に溶けて、なにか祈りのようなものだけが残るのであれば、それはそれで好ましいことのように思える。


 今、私が願うのは、彼女が宇宙のどこかで生きていて、幸福と不幸を半分に分けた幸福の側に、わずかでも留まっていてくれることだけだ。

 地球のどこかで誰かと結婚していてもいいし、していなくてもいい。

 この夏の空の下で蝉の声を聞いたり、入ったコンビニの冷房にホッとしたり、安いアイスにささやかな幸せを感じたりしているのであれば、他に望むことはない。

 あるいは地球でなくてもいい。心穏やかに過ごせているのであれば、宇宙のどこだって構わない。

 一〇〇パーセントの確証はないけれど、彼女はきっと生きている。やはり私はそう思うし、そうであって欲しい。それを希望的観測と呼びたければそう呼んでもいい。

 あるいは祈りと呼んでもいい。


 空はどこまでも深い、吸い込まれそうな夏の空だ。青い光を散乱する半透明な大気の層の向こうに、漆黒の宇宙がある。

 プロキオンは冬の星だ。夏の間は日本から見て昼の側にあり、大気中に散乱する太陽の光にかき消されて、肉眼では観測できない。けれどそれはつまり、この青い空の十一光年先にプロキオンがあるということだ。

 銀河政府の技術力をもってしても、光の速さを超えることはできない。プロキオンまでは一五年ほどかかると彼女は言っていた。ちょうど今頃、そこに辿り着いているかもしれない。

 私は目を閉じ、遥か彼方のプロキオンに思いを馳せる。


 プロキオンは主星であるF型の主系列星と、白色矮性の伴星からなる二重星だ。銀河政府の拠点である小惑星は地球より遙かに小さく、伴星の周りを公転しているため、地球からはトランジット法でもドップラー法でも検出できない。

 木星軌道上からはるばる宇宙を旅してきた星間船は、慣性キャンセラーによる最終減速を終え、銀河政府拠点の周囲を約三・五時間かけて周回する軌道に乗る。

 地球人用に最適化された有機生命体居住区から今、一人の女性がコミューター・デッキに向かおうとしている。

 一五年の旅も、ウラシマ効果により船内の体感時間では一〇年に満たない。それでも二〇歳でピークを迎える地球人の肉体は緩やかな老化へと向かいつつあるが、銀河政府のアンチエイジング技術により、彼女の身体はあの日と変わらぬ姿を保っている。

 有機生命体居住区の一角には、大きな窓が設けられている。窓は地球人の受光器官で感知できる可視光線を選択的に通すよう調整されているが、周波数の変調などは行わない。VR機器を通した観測と比べ、観測できる範囲は遥かに狭いが、それでも生まれ持った目で世界を見たいという欲望が、有機生命体にはあるらしい。

 まもなく窓が地球方向を向くと、彼女は知っている。星間船から拠点へ向かうコミューターに乗り込む前に、彼女はもう一度窓の外を見る。

 窓の外には無数の星が散らばっている。大気による光線の散乱がないおかげで、惑星上から見るより遥かに多くの星が見える。そして彼女の視界は太陽を捉える。

 中規模のG型主系列星である太陽は、もうずいぶん小さくなっている。それでも銀河政府の尺度で見れば、プロキオンからすぐ近くの星だ。彼女の目には、今もはっきりと見えている。

 そして彼女は、地球で過ごした短い日々を思い出す。唯一心を通わせた一人の地球人と、あの夜のことを。

 人類の知性は、銀河政府を構成する主要な知的生命体に比べ、遥かに劣っている。そこからどう進化するのか、あるいは滅亡するのか、彼女にはわからない。

 けれど彼女は思う。地球人類に幸あれ。

 彼女の頬に、「軽い微笑み」が浮かぶ。


 信号が青になり、隣の車が何かに急かされるように走り出す。

 左折車がないことを確認し、私もまたペダルを踏み込む。

 人類は相変わらず愚かで身勝手で、戦争はなくならないし、温暖化はいよいよ危険な領域に踏み込んでいる。それでも地球はまだ廻っている。

 日本を襲った巨大な災害も、一〇〇年に一度のパンデミックも越えて、いくつもの幸運に支えられ、私もどうにか生きている。

 大きな社会的成功を収めたわけではないが、自分が恵まれた人間であることは理解している。変わらない日常が続くと思っていたあの頃ほど無邪気ではないが、結局のところ、自分の人生を精一杯生きるしかない。


 独り暮らしを始めてから買ったこのクロスバイクも、ずいぶん古くなった。後から取り付けた前カゴも、小さくて買い物には向かない。

 次に買うとしたら電動アシスト機能のついた自転車になるだろう。子供を乗せられるような。でも、それはもう少し先だ。

 汗だくになりながら、私はペダルを踏む。

 交差点を越え、車道と歩道の間に強引に作られた細く狭い自転車レーンを、自転車は走り続ける。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る