二〇〇八年 八月
予備校の夏期講習の教室で、彼女はひときわ目立っていた。
短いお盆休みも明けた、ほんのわずかに夏の終わりの匂いが漂い始める頃、それでもまだ真夏と言っていい暑さの中で、彼女は黒いニーソックスを履いていた。ミニスカートとの間に見える白い太もも、いわゆる絶対領域が眩しい。長い黒髪を高い位置で左右に縛り、なにかのアニメのキャラクターのようだった。
それは「理系のための現代国語」という少し変わった講義で、地元の予備校では受講できないものだった。そのため私はその週だけ市ケ谷に通っていたのだ。
理系だけに受講者は男子が多く、女の子というだけでも目立つ場所だった。真夏だけに、数少ない女の子たちはみんな薄着ではあったけれど、彼女はとりわけ人目を惹いた。
私は教室の後ろの方に座って、次々と入ってくる人々の姿を漠然と眺めていて、前の扉から入ってきた彼女の顔はハッキリとは見えなかった。それでも、彼女が一番前の席に座る前にかすかに見えた横顔は、かなり可愛かった気がした。
――どんな子なのだろうか?
アニメやゲームが好きな、少しオタクな子なのだろうか?
当時は「ニコニコ動画」や「初音ミク」が流行っていて、そういう趣味の女の子が少し目立ち始めた時代だった。私自身もご多分にもれずニコニコ動画にハマっていたから、もしかしたら話が合うのではないかというちょっとした期待もあった。
一応補足しておくと、高校時代の私はそれなりにクラスの女子とも話したし、全く女の子に縁がない生活をしていたわけではない。とはいえ特定の恋人はいなかったし、もちろん童貞だった。俗に言う「陰キャ」というわけでもなかったが、私の通っていた高校で特定の恋人がいる男子というのは(おそらく女子も)珍しく、私もまあ、そうしたごく普通の高校生だった。
しかし浪人してからというもの、理系ゆえに周囲は男子ばかりになり、高校のように男女のグループで遊びに行くこともなくなり、まあなんというか、乾いた生活を送っていた。もちろん浪人生だけにそれも当然のことで、覚悟もしていたし、大学に入るまでは恋愛などするつもりもなかった。
とはいえ、そのような乾いた生活を送っていた健康な男子が、その場に似合わぬ可愛らしい恰好をした女の子にほのかな興味を持ったのは、ごく当たり前のことだろう。
もっとも、その時点では彼女に対して何か行動を起こすつもりもなかった。話をしてみたい気はしたが、予備校の、それもたった一週間の単科の夏期講習ともなれば、普通は生徒同士にどんな人間関係も発生しない。声をかける機会もないだろうし、私はそれを現実として受け入れていた。理系といえども大学に入れば多少の出会いはあるだろう。今は浮ついている場合ではない。そう思ったから、その日の私は、授業中に時折彼女の後ろ姿を盗み見て癒されただけだった。
彼女も私と同じく、独りでこの夏期講習を受けているようだった。彼女は時折視線を上げてホワイトボードを見たが、ずいぶん熱心にノートを取っているらしく、ほとんどの間うつむいていた。
二日目、三日目は少し前の席に座ってみたが、やはりそれだけだった。話す機会もなかったし、必要も感じなかった。彼女は相変わらずツインテールに黒のニーソックスで、いつも白い長袖のブラウスを着ていた。ミニスカートの色や柄だけが毎日変わった。
彼女の声さえ一言も聞かなかった。ただ、彼女が席に着くときに少しだけ顔は見えた。
やはり可愛いと言って差し支えないだろう。当時の私はそのことを確認し、少し嬉しく思った。別に話しかけるつもりもなくても、なんとなく気になっていた女の子が可愛いというのは、それだけで嬉しいものだ。もっとも今にして思えば、髪型と服装によるバフ効果もあったのだろう。
状況が変わったのは、このまま何事もなく夏期講習が終わることが決定的に思われてきた四日目だった。
授業は一二時一五分に終わり、私は手早く荷物をまとめると、後ろのドアから教室を出た。ゆっくりしていてもどのみち彼女と話す機会は来ないだろうし、彼女より後に教室を出ると、意図せずとも駅まで後を付けるようなかたちになってしまいそうで、それを避けたかったのだ。
足早に予備校を離れた私は、いつもどおりJRの駅を通り過ぎ、外濠を渡ってその先のモスバーガーに向かった。戸田市の家まで帰ってから昼食では遅すぎるため、両親に昼食代を貰っていた。
けれど、その日に限ってモスバーガーは混んでいた。いつものサラリーマンやOLに交じって、何かの工事をしているらしい作業服の人々が並んでいた。
私は諦めて店を出ると、なぜかすぐそばのマクドナルドに入ることはせず、予備校の方に戻ることにした。駅から予備校に向かう途中にシアトル系の喫茶店があったことを覚えていたからだが、なぜ炎天下をわざわざそこまで戻ることにしたのか、今となっては自分でも思い出せない。
彼女の姿に気づいたのは、レジで注文を終え、奥のカウンターから商品が出てくるのを待っているときだった。どの席に座ろうかと店の奥を見渡したとき、中央の大きなテーブルの少し手前、二人掛けの席に、ここ四日で見慣れたツインテールの少女が独りで座っているのが見えた。
その瞬間、私はこれが彼女に話しかける最初で最後のチャンスだと理解した。
この機を逃したら、彼女と話すことも、声を聞くことも、笑顔を見ることも、未来永劫訪れることはないだろう。
そのときすでに私の心は決まっていた。彼女がなぜそんな格好をしているのか、なぜ「理系のための現代国語」を受講しているのか、どんな女の子なのか、猛烈に知りたかった。
とはいえさすがに心臓が高鳴った。冷房の効いた店内で、引きかけていた汗が再び滲むのを感じ、タオルハンカチで額を拭いた。それでも話しかけることができたのは、仮に気まずい雰囲気になったとしてもあと一日耐えるだけで良いという、予備校の夏期講習の気楽さがあったからかもしれない。
注文したパニーニができ上がって受け取ると、私はまっすぐ彼女の席に向かった。彼女はすでに食事を終えて、半分残ったアイスティーのグラスの横にノートを広げていた。が、近づいた私がその視界に入ると、ようやく顔を上げた。
「ここ座っていいかな?」
私は彼女の目を見ながら、できるだけ自然な口調を装って尋ねた。
「はあ」
彼女は不審そうに私を見つめた。
「席、他にも空いてますけど」
「理系のための現代国語」
「え?」
「オレも受けてて。教室で見かけたからさ」
「あ」
彼女はようやく、私が近づいた理由を理解したようだった。
とはいえ、毎日いちばん前の席に座っていた彼女は、私の顔も知らなかっただろう。私は慌てて取り繕った。
「さっきの話、どう思った? メタファーは相似形を見つける遊び、って話」
「ああ……」
話題選びは成功だった。彼女は興味を持ったらしい。ただの不審な男から、ひとまず話をする程度の価値はある存在に昇格できたようだ。
「それ自体がメタファーであるという点で、気が利いていると思いました」
素敵な回答だった。私はその一瞬で彼女が好きになった。
「その答えも気が利いてる」
私はそう返して、トレーをテーブルに置くと、彼女の前の椅子に腰掛けた。彼女が話に乗ってきたのだから、遠慮はいらない。むしろこの機会を逃す手はない。
「ノート、何書いてるの?」
トレーの先にあるノートが目に入り、私はそれを覗き込んだ。
「あ、これは……」
彼女は慌てたようにノートを閉じ、自分の方に引き寄せてしまった。さすがに少し馴れ馴れしかっただろうか。
「まあいいや。それより、なんであの講座取ってるの?」
話題を変えて、聞きたかったことを聞いてみる。もちろん理系だからというのはわかるし、さらに言えば「センター国語」という講座は別にあるのだから、二次試験にも国語のある大学や、センター試験を利用していない私立を狙っているのだろう。けれどそれは、彼女を知るための第一歩としては適切な質問のはずだ。そこから話が広がるだろうと私は思っていた。
しかし、彼女の答えは不思議なものだった。
「日本語が非論理的言語だからです」
「……面白いこと言うね」
回線の悪いオンラインゲームのようなラグを伴って、私はそう返した。聞き間違いではなさそうだった。いや、面白い。
「えーと、どのへんが? どのへんが非論理的?」
「まず、主語が省略可能です。読み手、聞き手は文脈から主語を推測します。これは論理的な会話に適しません。誤解を生じます。意味効率が低い。非論理的で、非合理的です」
「なるほど……」
言っていることは、筋が通っている。しかし全くもって、同世代の女子と話している気はしなかった。女性がみんな非論理的だと言うつもりはないし、多少は理屈っぽい女の子もいるけれど、こんな話し方をする女の子は初めて見た。いや、男でもこんな話し方をする知り合いはいない。
「それで、日本語が非論理的だと、どうして『理系のための現代国語』を受講することになるわけ?」
「理系というのは科学的な学問体系だと理解しています。そうした科学的な見地から日本語を理解できるのではないかと思いました」
薄いピンクの唇がすらすらと言葉を紡ぎ出す。口紅、あるいは色付きのリップクリームかなにか塗っている色だ。目は少し小さく、地味といえば地味だが、やはり可愛いと言って差し支えないと私は思った。もっとも今にして思えば、二〇歳前後の女性が化粧などしていたら、誰だって可愛いのだけれど。
「……なんか日本人じゃないみたいな言い方だね」
「そうですね」
私の指摘に、彼女は小さく笑った。表情をデフォルトの「無表情」から二番の「軽い微笑み」に切り替え。そんな唐突な変化だった。
「あの教室にいる誰もが日本人だと思うのは、先入観かもしれませんよ」
「え? ってことは、ネイティブじゃないってこと?」
だからこんな話し方をしているのだろうか? よくよく考えるとそれもおかしな気がするが、私は一瞬、本当にそう思ってしまった。
「さあ、どうでしょう?」
表情が「いたずらな笑み」に変わった。
「それより、食べないのですか?」
「あ、忘れてた」
私は慌ててパニーニの包みを開いた。
一五年も前のことだから、その後の記憶はいささか曖昧だ。グーグルのストレージが写真を勝手に圧縮するように、我々の脳は記憶を抽象化し、容量を確保する。その際に発生するある種のノイズが夢だと聞いたことがある。しかし今となっては記憶それ自体が形を失い、何度も夢に出てくる街のようにあやふやだ。抽象化された夏と青春の残照だけがあり、その細部にアクセスすることはできない。
とはいえ、それは幸せな時間だった。お互いにまだ何も知らない、けれどどこか自分のセンスを刺激する不思議な少女との、俗世間から切り離されたような会話。彼女こそが私の理解者かもしれない。そんな気さえした。当時の自分が誰にも理解されていなかったと言うつもりはないが、深く理解しあえる相手は男女を問わずいなかったのも事実だ。
彼女はいささか変わり者ではあるものの理知的で、おそらく少し頭が良すぎて高校では浮いていたに違いない。けれど私は彼女を理解できる。
そう思っていた。彼女があの言葉を言い出すまでは。
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