第3話 天才秀才
そんな、
「快適に過ごせる空間」
に作られた療養所。
そこでは、今、クーデターが起こりかけている。
その正体は正直ハッキリとしないものだった。
首謀者が誰で、何を目的に行われていることなのか、ハッキリしているわけではない。それは、実際にクーデターを起こそうとしている人たちが一人一人感じていることであった、
「俺たちは一体何をしているのだろう?」
とであった。
この療養所の数名は、
「精神疾患がある人」
ということであるが、その精神疾患が何なのかということを知っているのは、医師と看護婦、そして一部の幹部だけだった。最初の頃こそ、アルバイトやパートという人たちが普通に立ち入り、実際に、彼らの世話をしていた。
だが、立ち入りは禁じられ、アルバイトの人たちの鼓動範囲は、急に制限された。
それでも、彼らが辞めなかったのは、給料が急にアップしたからであった。
これは、ある意味、
「口止め料」
が含まれているのは、分かっていることであった。
彼らは、一体何を知っているというのか? 実はアルバイト本人たちも、自分たちが何を知っているのか分からなかった。
それだけ、病院幹部はナーバスになっているということであり、そこに何か秘密があるのか、それとも、
「本当は何もないのに、何かがある」
という妄想に取りつかれているのか?
とも考えられる。
しかし、それはあくまでも妄想であって、
「精神病院というものを営んでいるのだから、それくらいの神経を持っていないとできないということくらいは、誰にだって分かるというものだ」
ということであった。
病院の幹部連中は、自分たちが、身動きが取れないところにいるということは分かっていた。
何と言っても、この病院の、医師や看護婦は、その道のプロであり、実際に、学校も主席で卒業したような人たちばかりであった。
そして、医者は全員男であり、看護師というのは、すべて女性の看護婦であった。
だから、今の時代は、看護婦であっても、看護師と呼ぶのが当たり前のようになっているが、ここでは、
「看護婦」
と呼ばないといけないというルールになっているのだった。
だから、患者が、
「看護師さん」
と間違っていうと、その患者には、軽いペナルティがあった。
「一食抜く」
というくらいのことは普通にあっただろう。
年配の人ならそうでもないが、若い人たちにとっては、たまったものではない。そういう意味で、他の人が知れば、
「虐待を受けている」
と思われることだろう。
実際にはそうなのだが、入所している患者さんたちは、全然、
「虐待を受けている」
という感覚になっているわけではない。
どちらかというと、
「自分たちが悪いのだから、バツを受けることは当たり前だ」
という感覚だったのだ。
そう、ここでは、
「罰ではなく、バツ」
なのだった。
ちょっとした、
「言葉の遊び」
ではあるが、ここでは、その言葉の遊びというのが重要で、精神疾患のある人たちは、そもそも、言葉に敏感ではあるが、それは、異常をきたしている時であり、それ以外の時は、何も問題のないように見える。
精神疾患にも種類があり、さらに同じ病気でも程度が違う。
さらに、程度の違いという中に、微妙な違いがあり、それが、いわゆる、
「個人差」
というものだろう。
健常者にとっては、その違いは、理解できるものなのだろうが、疾患のある人たちにとっては、その違いが、何かの結界であるかのように、感じさせる。それが、さらに、
「専門的な知識を必要とするこの病院」
では、
「頭脳集団」
というものをあつめる必要があったのだ。
秀才や、天災というのは、元々は素直なものだ。
そうなると、
「洗脳もやりやすい」
というわけである。
ここのスタッフが、医者や看護婦のトップクラスを集めてきたのは、実は、
「洗脳しやすい」
ということが一番大きかったのではないだろうか。
もちろん、それだけの金を払ってきてもらっているということになっているのだから、表向きは、
「先進医療に積極的な病院」
と思われているだろう。
先進医療というのは、何も、
「医療機器」
に限ったことではない。
「頭の先進医療」
というものもあるわけで、それが、この、
「頭脳集団」
ということになるわけだ。
頭脳集団は、今までも、ずっと頭脳集団の中にいた。だから、頭脳集団の中にいることが一番居心地がよく、逆に、他のところに入れられると、まるで借りてきた猫のようになり、まったく機能しなくなるのかも知れない。
ここの幹部はそのことを分かっていて、敢えて、あつめたようなものだ。
確かに、医者というだけで、皆頭脳集団だと思うことだろう。
しかし、実際に病院に行けば、
「そもそも、家族が医者だ」
というだけで、その道に押し込められ、
「生まれた時から、医者になる」
という運命を背負っているという、ここでも洗脳されて育ってきたという人もいることだろう。
そんな連中だって、医学部に進み、医者になった人は山ほどいるだろう。
それにもまして、途中で挫折した人の数は、それこそ、
「数知れない」
と言えるに違いない。
ここにいる、
「天才集団」
というのは、そんな連中とはまったく違う。
どういう意思で、医者になろうと思ったのかというのは、それこそ、人それぞれというものだ。
しかし、天才であったり、秀才と言われる人たちは、最初の小学生の頃は、自分が次第に頭がよくなってくることに気付いたことだろう。
そして、いつしか、自分を、
「天才ではないか?」
ということに気付くのだろう。
そうなると、
「私は、天才の中にいなければいけないんだ」
というような一種の妄想に駆られることになる。
「天才だから、天才のいく学校に行き、そして、天才として卒業し、天才としての社会人になる」
ということである。
そこで目指すのが、これは昭和の昔から変わりはないと思うのだが、
「末は博士か大臣か?」
という言葉の通りに、どちらかに進むことになる。
それが、
「文系か、理系か?」
ということであり、医者になった秀才たちが、理系に進んだということだ。
中学という義務教育までは、絶えず自分が、ずば抜けて頭がいいというのをわかっているだろう。
本当であれば、中学を卒業した時点で、大学入試検定でも受ければ、
「高校をすっ飛ばして、大学に入学することができる」
というものであろうが、彼らはそれをしなかった。
「高校生になれば、高校生の勉強をする」
ということで、いくら天才だからといっても、先先に進むということはしないのであった。
してもいいのだが、なぜしないのかということは自分でも分からなかったのだが、
「あまりにも先にいくと、寿命が短くなるのではないか?」
ということを真剣に信じているという節がある。
秀才のくせに、そういう迷信めいたことであったり、妄想というものには、弱かったりする。
そういう意味では、怪談話であったり、ホラーオカルトというのは苦手なのだ。
口では、
「そんな低俗なもの」
といって毛嫌いしているのは、
「天才の誇りから来ている」
と思われていたが、そうではないのだった。
どちらかというと、
「俺たちは天才だ」
と思っている人間の視野は実は狭い。
本当の天才というのは、自分のまわりの視野が狭いということを自覚していることで、その短所を補おうとして、自分なりに修正が利く人のことをいうのだ。
だから、彼らは天才ではなく、秀才なのだ。
それは、
「一般人が背伸びして、ギリギリ行き着ける頂点」
というものであり、そこから先も、果てしなく続いているのだが、そこから先に踏み込むことができるのは、天才だけなのだ。
天才というのは、
「持って生まれた天性のものを持っている」
ということである。
「凡人には、どれだけ努力しても、行き着くことのできないその場所を、天才だけが手に入れることができる」
ということだ。
それが、病院としては、
「我々スタッフは天才で、医者たちは、秀才なんだ」
ということで、
「それだけ、自分たちが選ばれた人間である」
ということが分かっているということになるのだろう。
秀才である医師たちが、そのことを最初に思い知ることができるとすれば、それは、
「高校に入った時」
と言えるだろう。
中学を卒業する頃は、本当に学校側としても、
「十年に一人の天才だ」
と誰もは思ったことだろう。
しかし、あくまでも、
「十年に一人なのだ」
「それくらいであれば、普通にいる」
といってもいい。
そう思うと、彼らが天才ではなく、秀才だ。
ということを、教師もどこかで知ることになるだろう。
それでも、頭のできは、他の連中とは、段違いで、当然、一番の進学校に、普通に合格することになるのは、
「天地がひっくり返っても、そのことに変わりはないだろう」
ということであった。
彼らは、見事に、というか、
「普通に当たり前に、合格した」
本来であれば、
「学校始まって以来」
といってもいいくらいの素晴らしい成績だったということなので、
「学校の誇り」
といってもいいのだろうが、確かに、一時期、騒がれもしたが、すぐに、まわりの興奮は冷めてしまった。
「きっと、本人が、ポーカーフェイスだったからなのではないか?」
ということであったが、確かに、そんなに感動した表情ではなく、むしろ騒いでいることに、どこか苛立ちを覚えているくらいだった。
そもそも、彼らは、
「誰かが表彰されているのを見るのは嫌だった」
「何を好き好んで、人がちやほやされるのを見ていないといけないんだ?」
ということを感じ、
それをやらされるということは、完全に、学校の利益のためだけに動いているだけではないか?
と考えていると、
「じゃあ、この中に、本当に表彰される人を真剣に褒めたたえている人が、どれだけいるだろう?」
ということである。
確かに、学校側の先生、特に、
「教頭、校長」
あたりは、ニコニコはしている。
しかし、それは、ただの社交辞令ではないかと思うと、そう思えなくもないし、そうとしか思えないところまで来ることは容易だといってもいいだろう。
しかし、これは、しょせん、
「学校の名誉」
であり、その名誉のおかげで、翌年度の、学校応募者が少しは増えるのではないだろうか?
というだけのことであり、それが、校長などの何の特になるか?
ということである。
なるほど、ここで成績をあげれば、その先に、、いいことが待っているかも知れない。
教育委員会に呼ばれて、栄転ということもあるだろう。
つまりは、本人にとっては、それは、出世欲というものというだけのことでしかないのであった。
学校というところは、
「自分の出世のための、道具でしかない」
ということになるだろう。
そうなると、他の先生もそうだろう。
何も自分が何か業績を上げて、表彰されるわけではない。ただ、
「自分の教え子だ」
というだけだ。
確かに、
「教師になった時は、自分の生徒が有名人になってくれると嬉しいな」
ということを考えたりしたものだが、それこそ、自分が新人の時でしかないだろう。
新人でhなくなると、次第に、
「生徒のため」
ということを自分の神経をすり減らしたりして考えなければいけない。
それなのに、生徒は先生を敬うどころか、下に見ているではないか。
授業はまともに聞かない。
下手に起こったりすれば、
「父兄から、何を言われるか分からない」
または、クラスで苛めが起こっていても、学校側から、父兄からというそれぞれの立場に挟まれて、ジレンマに陥ってしまうだろう。
そうなってしまうと、
「先生が病んでしまう」
ということになり、
「精神疾患で入院する先生」
というのもかなりのものになるのだ。
しかも、文科省が、組むカリキュラムというのは、
「とても、終業時間ではできるのもではない」
となると、
「睡眠時間を削ってでも、こなすしかない」
となるのだ。
ただでさえ、精神が病んでいるところに、カリキュラムというプレッシャーがのしかかってくると、
「もう、精神疾患になるしかない」
という、設計図に書かれていう通りの結末が待っているだけなのだ。
秀才は、高校に入ると、そこで、一度挫折を味わうことになる。
それは、あくまでも、
「最初の挫折」
ということなのだ。
というのは、
「これまで、ダントツの秀才だった自分が、高校に入ると、そうでもないということを思い知らされる」
ということであった。
つまりは、
「まわりの生徒は皆、超難関と言われる学校に入ってきた秀才ばかりだ。中には、天才も混じっていることだろう」
ということであった。
もし、中学時代まで、
「俺は天才で、俺の上には誰もいないんだ」
ということで、徹底的に自惚れているとすれば、その人は、
「完全に、化けの皮が剥がれた」
といってもいいかも知れない。
そんな人に限って、一番優秀な学校にくれば、意外と下の方だったりする」
というものだ。
何といっても、
「受験生が少ないのだから、入学できたのは、当たり前だ」
ということを思っているくらいの人間である。
ここにも結界があるのだ。
「学校で習う授業などでは、圧倒的な成績を収めるくせに、一般常識的なことに関しては。まったくの、トンチンカンな考えしか持っていない」
ということだ。
ちょっと考えれば分かりそうなことを考えない。頭がいいだけに、小手先で考えるということを無意識に覚えたのだろう。
人との付き合いであったり、常識的なことは、
「回り道をしてでも、自分で見つける」
ということをしないといけないのに、それを小手先だけでやってしまうと、何もできていないのと同じではないか?
ということになりかねないのだった。
あが、さすがにそこまででなくとも、
「自分と同じレベルの人ばかりいる中で、トップといっても、
「今回だけの、偶然とはいえないか?」
ということになると、それを、
「別に慌てることはない」
と考えるとすれば、そこで何も焦ることも何もないと分かるのだろうが、今まで見たこともない光景を見せられたことで、焦っているようでは、この先に、
「訪れるであろう、次の挫折」
というものを払いのけることができるだろうか?
ということになるのだった。
そんな中において、高校生になって、最初はさすがに
「こんなにも天才がたくさんいたなんて」
と考えた。
自分の周りにいるのは、
「天才ばかりなんだ」
と考えると、初めてその時に、
「天才と秀才というものが存在していて、その間には、越えることのできない結界というものがある」
ということに、気付いたのだった。
「ああ、私は天才ではなく、天才と呼ばれる人は、選ばれた人なんだ」
ということになるのだろう。
そこで自分が秀才だということが分かると、
「じゃあ、秀才って何なのだ?」
ということを考えさせられる。
確かに秀才というのは、
「努力のたまものだ」
と言われるが、その方が実は尊いというものだ。
いかにも、
「人間らしい」
ということであり、天才というもののように、
「持って生まれたもの」
ということで最初から存在していれば、
「努力なんていらない」
と言えるだろう。
確かに
「努力をする」
ということは、それだけ、まだまだ伸びしろがあるということなので、人間として、生きていくということの意義となることなので、将来を見据えたということでの悩みはないだろう。
もちろん、
「今の段階から少しでも上に行く」
ということを目指しているというのであれば、秀才くらいでちょうどいい。
しかし、考えてみれば、
「秀才だって、努力をするということを理解できていないと、なれないものだ。それは、実力云々というよりも、その人が、どう進むべきか?」
ということを考えられる頭を持っているということである。
そのことを理解していて、そのままその先に向かって突っ走っていくのであれば、
「秀才は、天才をも凌ぐというものなのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
天才と秀才。どっちがどっち?」
ということを考えると、
「私は、秀才がいいな」
と思ってしまう。
確かに天才というのは、
「神の領域」
ということになるのかも知れない。
しかし、その神というのは、本当に、
「万能なのだろうか?」
ということである。
しょせんは、
「人間が作り出したものが、神だ」
ということであり、しかし、人間は、
「その神によって作られた」
と神話には載っている。まるで、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
という、禅問答ではないだろうか?
それを思うと、
「天才とは、タマゴなのか、ニワトリなのか?」
あるいは、
「神なのか、人間なのか?」
という比較対象でしかないと思うのだった。
そんな、
「天才と秀才」
とであるが、
この病院のスタッフたちは、天才が集まられた。
もちろん、それを決めるのは、面接官である。この病院は、確かにテスト形式で昇進していくのは、
「警察や検量」
と言った、
「階級制」
と同じである。
しかし、それは、全国共通の国家試験のようなものではないだけに、独自で自由なものであった。それだけに、昇進試験が少しでも、おかしなものであれば、ここの体制は一気に崩壊するということになるだろう。
そういう意味でシビアであり、間違えられないものでもあった。
だから、ここの昇進試験を作り、昇進を決定する機関というのは、
「天才の中のさらに天才」
というわけでないといけない。
それが、ここでは今のところうまく行っていた。
実は、この病院は、確かに、ここに設置されて、まだ三十年と経っていないが、実は、それ以前から存在はしていた。
もちろん、ここでの存在と同じように極秘裏に存在していたので、誰も知る由もなかったというわけだ。
その時から、この体制は確固されていたわけだが、実際に、
「うまく行っていた」
というのは、そういうことである。
だから、
「この病院の経営、さらには、方針に関しては、誰よりも、ここのスタッフ、さらには幹部は、絶対的な自信を持っている」
といってもいいだろう。
そんなこの病院だが、最初は、さすがに経営に関しては、五里霧中だったに違いない。
「誰もやったことがない経営方針」
ということだったのだ。
実は、この方法は、日本がまだ、
「占領されていて、独立国家ではない時代から、計画されていたことだ」
というのは、
「これも、占領国においても、日本においても、最高国家機密になっている」
ということであった。
というのは、元々、これは、
「国家プロジェクト」
だったのだ。
しかし、それが、認められなかったのには、大きな理由があった。
というのは、
「このプロジェクトには、関東軍防疫給水部、つまりは、通称731部隊と呼ばれる部隊で、暗躍していた人間がかかわっている」
ということが問題だったのだ。
元々、それらの面々は、戦犯にも引っかからず、そもそも、その存在すら、
「証拠がない」
ということで、その存在を日本はひた隠しにしていたのだが、どうも、
「連合国との密約があった」
ということを言われ、当時あった、
「社会主義国との、東西冷戦」
というものを乗り切るために、
「彼らと裏取引をした」
というウワサがあったが、それが、
「実は、ウソではないのではないか?」
と言われていたのだ。
実際に、部隊の幹部だった人が、実際に、その後の
「血液銀行」
の幹部に就任したりしていたのだ。
「何が違うというのか?」
ということであるが、そこには、大きな理由があった。
血液銀行の幹部になった人は、731部隊における幹部であり、連合国との密約の上に成立したものだった。
これは、
「世界を欺く」
という意味も含まれていた。
なぜなら、
「731部隊の幹部であったとされる男を、さすがには、日本でもこれからの企業と言われる血液銀行の幹部にするわけはない」
ということで、この事実が、却って、
「731部隊など存在しなかった」
ということへの裏付けとなるという計算だったのだろう。
実際に、どこまでそれが信じられたかは分からないが、連合国としては、
「日本人に、自分たちの計画がバレなければ、そのまま、世界にも通用する」
と考えたのだろう。
実際に、
「731部隊は存在した」
というのは、かなりの信憑性はあるのだが、何しろ、終戦を前に、日本軍は、徹底的に証拠を破壊し、破棄したのだった。
しかし、そんなに簡単にあれだけの施設の証拠を抹殺できるものだろうか?
そこには、何かの力が存在していると考えてもいい。
そう思うと、ここでも、
「連合国との密約」
というものがあり、
「日本側としても、戦犯を逃れるため」
という理由、
そして、連合国側でも、その秘密を握るために、お互いに得をするということで、考えられた、抹殺計画だったのだろう。
何といっても、
「連合国側には、ソ連という社会主義国家がある」
というのは、ネックだった。
そもそも、彼らを抑えるために、開発することである。
ということだからである。
しかし、逆に考えると、
「東側であるソ連は、終戦前に、ベルリンに迫って、ソ連軍を中心とした、ドイツ占領作戦」
というものが行われたので、ドイツに関しては、ソ連を無視して行動することはできない。
その証拠に、ナチスの科学者は、どんどん、ベルリンからソ連に護送され、科学的な研究に従事させられたではないか。
何と言っても、アメリカが、ヒロシマ、ナガサキに、原子爆弾を投下したという事実は、「受け入れなければならない、大きな事実だ」
ということになるだろう。
もっと考えれば、
「ナチスドイツの科学力は、ソ連の生命線である」
といっても過言ではなかった。
ソ連が強くなければ、世界は、民主主義によって、支配されることになる。
と思っていたソ連からすれば、
「マルクス社会主義の考え方こそ、世界を救う」
と思っていたからである。
社会主義革命を成し遂げたソ連としては、いまさら、民主主義という、
「欠点だらけの世界」
に戻すわけにはいかなかったのだろう。
それから、ちょうど半世紀後に、
「ソ連が崩壊する」
ということになるまで、その考えは持ち続けられることになる。
だから、ソ連を除く連合国側とすれば、
「761部隊の存在」
というものを、必死になって隠す必要があった。
その存在が認められると、連合国は、
「その魂を悪魔に売った」
ということになるのであった。
だから、その存在を連合国では必死に隠したのだ。
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