第2話 森の中の湖
松橋家の借りた別荘は、コテージのような感じのところで、
「冬は寒いが、夏は涼しい」
という感じであった。
普通の別荘のような、避暑地であれば、冬場は家に帰ったりして、寒さを感じることはない。
しかし、ここは基本的に保養地なのだ。
だからなるべく、保養地としては、ある程度まで、年中快適な場所を選ぶ必要があるのだった。
そういう意味で、このあたりは冬といっても、そんなに寒くはない。近くに火山があるからであろうが、そのわりに夏が涼しいということであれば、説明がつかないといってもいいだろう。
そういう意味では、冬は、
「まるで、街全体がスチーム状態のようだ」
といってもいいだろう。
それでも夏が涼しいのは、山があるわりに、それほど高い山ではなく、吹き下ろす形状ではないことから、
「フェーン現象が起こりにくい」
ということになるのだ。
だから、松橋家にこの土地のことを教えた先生も、
「あなたがただから教えるので、どんなにいいところだったといって、他の人には言わないでくださいね。あの街とは、下手に宣伝して、街の風紀を壊してしまうのは困る」
ということだったのだ。
「これは、街長さんとの約束なので、くれぐれもお願いしますよ」
とくぎを刺されていたのだった。
「もちろん、分かっています。先生の顔に泥を塗るようなマネはしませんよ」
ということを言っておいたが、それは、松橋家にとっても、同じことだった。
静養でいくのに、観光客に空気を汚されでもしたら、本末転倒も甚だしいというものだ。
先生がせっかく教えてくれたのは、あくまでも、
「娘の治療のため」
それを忘れてはいけないということでもあった。
しかし、実際にその街に行くと、
「他の人にも教えたい」
などと考えるわけもないほどに、静養にはもってこいのところであった。
「これだったら、誰が他の人に教えたりなんかするものか」
ということである。
街の近くには道の駅があるが、観光客が来るのは、せめてそこまでであった。
幸いなことに、この街には、観光資源のようなものは一切なかった。昔からのお寺があるわけではないし、整備された公園があるわけではない。それに、食事処も、普通に、
「街の人用」
ということであるだけで、
「誰が好き好んで、昔からの漁村のような食堂に食べにくるというのか?」
ということであった。
農村部には、バスが通るあたりに、
「無人の野菜一番のようなものがあるが、それをいちいち買っていく人は、ほとんどいない」
特に、数年前からの、
「世界的なパンデミック」
以降は、
「誰が、こんな不潔なところで野菜など買っていくか」
ということであり、
「ここで買うくらいなら、道の駅に行く」
というのも、当たり前のことであった。
「昔だったらいざ知らず、誰が取ったとも分からない野菜を誰が買うか」
ということである。
特に、製造者や賞味期限などの表記を厳しく言われる時代、そんあものが詳しく記載されていないものを、誰が買うというのだろうか?
ただ、それでも、
「無料野菜販売所」
がなくなることはなかった。
「こちらにお金をお入れください」
と書いてあり、
「100円」
となっていた。
いくつまでとかいう制限を設けているわけではないので、ある意味、取り放題であった。
朝、取ってきた新鮮な野菜を置いておいて、夕方に回収に来るのだが、その時、野菜がなくなっているということはなかった。
いつも半分くらいなくなっていて、お金を入れる缶には、いつも、
「500円」
くらい入っているのだ。
もちろん、どれだけ持っていったのか分からないが、500円であれば、妥当な値段だろう。
スーパーに売れば、そんなものでは済まないはずだが、この無料販売所は、
「好意の販売所」
ということになっていて、損得を考えているわけではなかった。
「私が作ったものを、おいしいといって食べてくれれば、それでいいんだよ。100円としているのは、ただにしておくと、全部持って行く人もいるだろうから、そうなると、他の人が買えないだろう?」
という考えであった。
「でも、どうして100円にすると皆持って行かないと思うんですか?」
と聞かれた、ここに野菜を運んでくるっ初老の女性は、
「これは昔からなんだけど、安いお金を設定しておくと、昔から、全部持って行く人はいなかったんだよ」
というではないか。
そもそも、今なら車の荷台にでも乗せればいいだろうが、昔だったら、大八車などのようなものに積んで、持っていくことになる。全部乗せるとなると、一人や二人ではダメなので、それだけの人がいるということだ。
ここに店を出す時は、昔は、家族全員が手伝ってくれるので、そんなに難しくはないだろう。
それに、このあたりは閉鎖的なところなので、この場所は誰のものか皆分かっている。見たこともない連中がおかしなことをしていれば、すぐに分かるというもの。
戦後の絶望的な食糧不足ならまだしも、今のような、よほど食うものに困っている人でなければ、そんなリスクは犯さないだろう。
というよりも、
「食い物や金に困っている人間が、こんなところで、野菜をくすねたとしても、その日の食い物だけということになり、そのためのリスクとしては、あまりにも大きすぎる」
ということにならないだろうか。
そういう意味で、昔から、悪いことをする人はいなかった。
と言えるだろう。
しかし、中には愉快犯もいて、一時期、すべてを盗まれていることもあった。
だが、警察に通報することはしなかった。
「最初から、計算ずくだから」
と言っていたが、強がりではないようだった。
「さすがに私も、もっとひどくなったら、警察にいうくらいのことはすると思うよ」
といっていた。
「そもそも警察に言っても、あなたが、そんな販売所をつくるから、持って行く人は持って行くんだよ」
と言われるだけだということも分かっている。
口には出さなくとも、そう思ってみることだろう。
どうせ、
「警察だって暇じゃないんだ。そんなくだらないことで手数を煩わすんじゃない」
と言いたいことだろう。
「もし、自分がその立場だったら、言わないとも限らないしね」
と、初老の女性は、そう言って笑っていた。
「だから、100円にしているんですよ。高くもなく安くもない」
というと、
「いやいや、安いでしょう」
とまわりがいうと、
「いやいや、趣味で作っているようなものだから、お金は関係ないんですよ」
と、女性はいうのだった。
実際に、野菜を置いている人は、気持ち的には、
「施し」
だと思っている。
持って行く人も、そう思って、ありがたく持っていくのだろうが、そこには、お互いの信頼関係で結びついていなければ成立するものではない。
そんな状況において、この村では、最近、少し、物騒な話が巻き起こっていた。
それは、この村にある、療養施設のことであった。
この療養施設がある場所というのは、街の住民とは、隔絶されたところにあった。
それは、やはり、
「地域住民を刺激することもなく、また、入院患者に余計な気遣いをさせないようにしないといけない」
ということで、街の奥にある、
「閉ざされた空間」
といってもいいところにあったのだ。
その閉ざされた空間というのは、患者が精神的に落ち着くという意味でも、環境的にいい場所にあったのだ。
この場所は、街の中でも、奥の方に位置していて、
「前には海が。そして、少し下がったところには、山がそびえている」
と前述には書いたが、そこから先の方に見えるものとして見えてくるのが、
「施設を隠すように佇んでいる森だったのだ」
ということである。
この森というのは、この街の奥を森をかすめるように走っている国道があるのだが、その国道からは、そのあたりがどうなっているのかということは、分からなくなっているようだ。
その奥に見える光景は、国道から見れば、
「ただの森に木が茂っているだけだ」
としか感じることはないだろう。
もちろん、何かを感じて、そこで車から降りると、その森が、普通の森ではないことに気付く人もいるだろう。
車から降りると、そこは、絶えず風が吹いているのだ。
涼しさを感じさせる風で、このその場所に佇んでいると、
「さすがに避暑地としても十分といえるくらい、夏も涼しいと言われるだけのことはあるんだな」
と感じることだろう。
そこから、ゆっくりと少し分かりにくいが、入り口のようなものがあり、そこから入っていくと、本当にひんやりとした空気を感じさせるのだ。
ここは夏であっても、それほど湿気を含んでいるわけではなかった。
「まったく湿気を感じない」
というわけではなく。
「湿気があるとすれば、これくらいがちょうどいいんだ」
と思えるほどだったのだ。
そのまま中に向かって歩いていくと、そこにあるのは、急に開けた場所であり、その真ん中に大きな池があるのだった。
「まわりを森で囲まれた大きな池」
という雰囲気で、
「湖」
といってもいいくらいだった。
ここに入ってくると、風は病んでいた。しかし、風がなくてもひんやりとしていて、水面にある波紋は、まるで、指紋のように、短い周波を描いていた。まさに、
「破門」
という言葉がふさわしく、
「風を感じないのに、波紋だけはしっかりとできているんだ」
ということで、水面に顔を映しても、決してキレイに写らないということが分かった気がした。
そして、その波紋を感じた時、今まで、
「風がない」
と思っていたのがウソのように、そよいでくるような風を感じた。
「これほど、ここちよい感じはしない」
と思わせるのだった。
その心地よさの理由が、
「水の冷たさにある」
ということを感じるまでに、そんなに時間はかからないだろう。
そのことが分かってくると、
「どうして、この街が、冬が暖かいのに、夏は、まるで避暑地と言ってもいいくらいに涼しいのか?」
ということが分かった気がした。
それが、この池の正体なのだろう。
「きっと冬になると、この水温は高いのではないだろうか?」
と感じたのだ。
そんな魔法のような場所が存在しているのだろうか?
実際にそんな自然環境を感じたことはなかった。
もし、原因があるとすれば、
「ここのように、綺麗にまわりを森に囲まれているからであろうか?」
ということを感じる。
もちろん、科学的な証明がなされているわけではなく、まるで、
「都市伝説」
のような感覚であることが、この街を、
「天然の避暑地」
というものを形成しているのかも知れない。
そういう意味で、この場所を、
「療養所」
として選んだのは、病院側のヒットだったといってもいいだろう。
避暑地というものを、街の人はそれほど詳しくは知らないだけに、逆に、
「この街がこれほど素晴らしいところだ」
ということを知っていたわけではなかった。
当たり前のことのように感じているだけで、だから、
「ここに病院を建てたい」
と病院側が言ってきた時、
「どうぞ」
といって、簡単だったわけだ。
しかも、病院側の話としては、
「この病院の存在を、大っぴらには明かしたくない」
ということであったのだが、その理由が、
「精神疾患がある人が多いので、あまり、世間と触れさせたくない」
ということだったのを聞いた街の方も、
「そういうことでしたら、この場所はちょうどいいかも知れませんね」
ということになったのだった。
「ここは、まわりを大きな森に囲まれていて、自然環境も、ある意味、一年中快適に過ごせる場所なので、ここで病気を治そうというのは、いいことだと思います。逆に我々もあの場所を、あまり、不特定多数に教えたくはないんですよ。そういう意味では、利害が一致したといってもいいかも知れませんね」
と街の長がそういうのだった。
病院側も納得し、さっそく、建築に向けての準備がなされたのだった。
実際に建て始めると、結構早かった。
半年もしないうちに、湖畔にあたる場所に建物が建てられ、その佇まいは、
「まるでリゾートホテルのようだ」
と思えるところであった。
「街の人も、あの場所であれば、アルバイトかパートとして、雇っていただければありがたいと思っていますよ」
と街の代表がいうと、
「それは願ったりかなったりです。何と言っても、他からの通いは結構きついですし、秘密主義を考えると、街の人たちに賄ってもらえる方がありがたいということになるんですよね」
と病院側も、二つ返事で、了解してくれた。
「それは、嬉しいです。さっそく、街の広報で、こちらの募集を掛けるようにしましょう」
ということになり、とんとん拍子に、病院の稼働に対して、話が成立していくのであった。
実際に、街が、この病院の存在に気付くようになって、食料を差し入れたり、街でできたものを食品以外にも使ってもらおうと、街の人は、結構届けていた。
「この街にとっては、初めての公共施設への協力ということだから、我々もまるで子供のようにうきうきした気分になっているんだよ」
と、食料を持ってきた老人がいうのだった。
「この街は、どうしても、若い人が少なくなってきているという、中途半端なところにありがちな問題を抱えていますからね。本当は、もっともっと、他の街や、都会と接点を持つようにすればいいんでしょうが、これまでの伝統を考えるとそうもいかないんですよね」
というのだった。
「伝統があるんですか?」
と病院側の人が聞くと、
「ええ、そうなんですよ。昔から、他の村と共存しようとすると、うちの村が騙される結果になって、しばらく立ち直れず、どんどん、他から隔絶された存在になっていったというんです。だけど、途中から、こっちの方が隔絶しているということになり、まわりを受け入れなくなったということなんですがね」
と街の長は話している。
そんな街であるが、実は病院をこの街に移そうとしたのは、ある医者の話がきっかけだった。
「最近、精神疾患の人が増えてきているので、どこか、まわりから隔絶された形で、療養できるところがあれば、そこに移したいんだけどな」
という話があったことで、その人がこの街を推挙したからだった。
最近、どうしても精神疾患の人が多いというのは、どうしても、社会の変革というのがあるからではないだろうか?
実際に、
「今の世の中が病んでいる」
といってもいいくらいの社会環境であった。
だからこそ、十年以上前くらいから、
「コンプライアンス」
などということが叫ばれて、
「各種ハラスメント」
というものを考え直さなければいけない時代になったのだ。
基本的には、会社などで言われることが多いが、それは、どの社会環境にも言えることで、学校や家庭、さらには、サークル活動でもあることだ。
要するに、
「人が集まるところ」
そこに、
「コンプライアンス違反」
というものが潜んでいてもおかしくないということになるのだろう。
「人を、確固たる立場にて、相手を追い込んで、逃げられなくしておいて、これでもかとばかりに殴りつける」
というものが、
「パワハラ」
と呼ばれるものであった。
「男女という観点から、昔の男尊女卑のような考えで、男だから女よりも上だという、考えをもち、追い詰めることでプレッシャーをかけ続ける」
というのが、
「セクハラ」
と言われるものだった。
このセクハラというものは、結構大変なもので、
「確かに、よく考えれば、ハラスメントに値するのかも知れないが、それが、相手のことを分からない時に最初の掴みとしての会話すら、ハラスメントと言われるのは、男としては、やってられない」
ということであろう。
そこに、
「パワハラ」
と言われてしまうと、
「責任をもって、社員に仕事をさせて、仕事を成功させなければならない」
という立場の人とすれば、これ以上やりにくいことはないだろう。
「仕事を成功させなければいけない」
ということで、部下にプレッシャーをかける上司というのも、
「パワハラに値する」
と言えるかも知れない。
しかし、そのハラスメントを今度は、上司が、その上司から受けるのだ。そして、その上司がさらに……。
などということになると、どんどん、
「負のスパイラル」
というものが増えていき、堂々巡りを繰り返すということになってしまうだろう。
ただ、昔から、それで会社は成り立ってきているのだ。
そういう意味では、
「社会にハラスメントというのはなくてはならないもので、まったく消し去るということは無理だとすれば、いかに、被害を少なくする」
ということを考えていかないと、
「無理なものを推し進めている」
ということになり、却って、どうしようもない問題に、発展しかねないといえるのではないか?
ということになるのだった。
目指すのは、あくまでも、
「限りなくゼロに近い」
というものである。
そういえば、
「世に蔓延っている伝染病」
というのも、そうではないか。
数年前にあった、
「正解的なパンデミック」
と呼ばれたもの。
あれは、ウイルスという性質上、一度波を向かえて、終焉していくと、今度はウイルスが変異というものをしていくことで、さらなる波が襲ってくる。
「波は数年に渡って、10回前後繰り返されるものではないか?」
と思っていると、実際にそうなってしまった。
ウイルスというものは、最初は誰にも分からないもので、その予防であったり、特効薬などということの前に、
「何者か?」
という、その正体が分からない。
だから、薬を作っても、
「本当に大丈夫なのだろうか?」
と、ワクチンへの信頼性はまったくなかったといってもいい。
アナフィラキシーショックのように、
「ハチの毒」
というもののようになっては、本末転倒である。
このアナフィラキシーショックというのは、
「ハチに2度刺されると死に至る」
と言われていることから、その理由を説明するのにつかわれる。
というのは、
「一度ハチに刺されると、身体にハチの毒が回るのだが、そこで死に至るということはない」
そして、
「一度身体に、毒が入ると、そこでその毒を駆除するということでの、自浄効果ということで、自分の身体の中に、抗体というものを作るのだ。そして、その抗体が出来上がると、その毒がもう一度身体に入ってくると、それを駆除しようとして、その毒と戦うというのである」
そして、その時に、
「アレルギー性のショックを引き起こし、それが、死に至らしめるということであるのだった」
つまりは、
「人間が風邪を引いた時など、熱を出すわけだが、それは、風邪の菌を撃退しようとして、風邪の菌に対抗するだけの抗体ができていて、その抗体と菌が戦っているので、熱が出るのだ」
ということであった。
これと同じことが、
「ハチの毒」「
にも言えるわけで、
「毒によるもの」
というのが死因ではなく、あくまでも、身体にできた抗体が、アレルギー性のショックを身体に起こさせることで、それが、
「死に至らしめるのだ」
ということであった。
それを、皆どこまで分かっているかということであり、
「ハチに二度刺されると死ぬ」
ということは、
「アナフィラキシーショック」
という言葉を認識するようになってから、分かってきた人が多いだろう。
元々、
「浸透しかかっている言葉」
ということであったが、それを決定的にしたというのが、
「世界的なパンデミック」
というものが起こった時だろう。
流行り出して一年ちょっとくらいで、ワクチンが急遽開発され、政府から、
「ワクチンを輸入したので、順次打ってほしい」
ということであったが、
「ワクチン論争」
というものが巻き起こったのだ。
というのも、
「たった、一年やそこらで開発されたワクチンに、安全性が保障されているのか?」
ということであった。
確かに、
「ワクチンというものは、最低でも、数年に渡って、臨床検査をかなり施してこなければ、信憑性はない」
といってもいいのだから、いくら、
「急に流行した伝染病」
であったとしても、
「いくら予防のためといって、ワクチンを打ったことによって死んでしまっては、本末転倒もいいところだ」
といってもいいだろう。
それこそ、
「ハチに2度刺されると死んでしまう」
ということと同じではないだろうか?
「ハチの毒で死ぬわけではなく、抗体と毒の間でショックを引き起こし、それがまるでアレルギー性のショックである、アナフィラキシーショックとして人を死に至らしめる」
ということになるわけなので、
「伝染病に罹ったから死ぬ」
というわけではなく、
「そのワクチンを打たなければ死ななかった」
という、
「国に騙された」
と感じる人も多いだろう。
「何かあった時は国が責任を持つ」
ということで、ワクチン促進のための言い訳として言っていたわけだが、実際にワクチンが原因で死んだ人がいると、
「因果関係が求められない」
などといって、完全に前言撤回ともいうべき理由で、簡単に逃げる政府なのであった。
そんな政府が推進することで、ひどい状態になった人がいるということを考えれば、
「簡単に政府のいうことを信じるわけにはいかない」
ということだ。
それだけ政府というところは、
「自分の保身しか考えていない」
ということであり、それが、
「トップに君臨する」
ということであるといえるだろう。
「最高潮になってしまうと、後はそれを守るために、逃げるしかないわけだ。何しろ、それ以上上がないからである」
ということなのであろう。
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