四畳半の治外法権

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ちぐはぐ

 汚れを知った俺に今日も小雪が降りかかる。肩に降りかかった雪には気にも留めず、少しかじかんだ手に白い吐息を吐きかける。

「今日も死んだ魚のような目してんぞ」

 俺を置いて吹いて行った風の方から聞きなれた声が聞こえる。

「そうかよ。別に目が死んでたって生きてんだから万々歳だろ」

「先週彼女に振られた奴がよく言うよ」

 俺は先週一年連れ添った彼女に別れを告げられた。振った理由すらも告げられずに。まぁ、どうせほかに好きなやつでもできたんだろう。付き合い始めは今日の天気と同じ小雪の降りしきる日だった。初めてのお泊りで彼女は狐のパジャマで俺を出迎えた。中也も着てよと、次のお泊りではペアルックにしたっけ。そんなくだらない思い出ばかり思い出して案外未練が残っているんだと、一人哀愁に耽る。止めだ止めだ。こんなこと考えてたら授業に行く気すらなくなってしまう。

「そういえば中也家庭教師始めたんだっけ」

「ああ、二週間前から週2ぐらいでやってる」

「生徒ってさ、男?女?可愛い?」

「お前の癖が出てるぞロリコン」

「悪い……けど実際どうなんだよ」

「何考えてるか分かんないやつだよ」

「性別は?」

「まだその話かよ………」

 彼女は歪で自分の家庭環境に似た雰囲気がした。両親は別居中らしく、母親と暮らしているらしいが、初授業の日に母の姿は無く、生徒である彼女だけが俺を出迎えてくれた。彼女の四畳半の部屋には年頃の女の子のような雰囲気はなく、本棚に日で焼けた童話の本があるくらいの、言ってしまえば鳥籠のような部屋だった。そして彼女の眼は何を望むでもなく願うでもない無気力な眼をしていた。

「で、どうなんだよ」

「ガキだな」

「お前だけいい思いしやがって」

「はいはい」

 大学の講義も終わり、身支度を整え彼女の家に向かう。呼鈴を鳴らすと、今日も出迎えたのは母でなく藍海だった。

「長谷川さんこんにちは」

「柏村さん。お待ちしていました。どうぞ中へ」

 藍海に導かれて彼女の部屋へ入る。生徒の家庭環境や家庭事情に首を突っ込んではいけないと念を押しながら、用意した教材を取り出し始める。

「長谷川さん。今日は数学の小テスト作って来たからやってみて」

「分かりました」

 藍海と中也の間には一言では言い表せない壁のようなものがそびえていた。

「分からないとことかあったら言ってね。解き方教えるから」

「あの……」

「ん?わからないところでもあった?」

「いえ……」

 歯切れの悪い返事が返る。何か言いたそうな藍海に、懊悩する。

「小テスト満点取ってくれたら何かご褒美あげるよ」

 しまった。そういうことではなかったのだろうと慌てて取り繕う。

「あー、ごめん。なんでもないや。今のは忘れてもらって構わないから」

「あの……このテスト満点だったら柏村さんの事を名前で呼んでもいいですか?」

「ん?」

 予想外の返事に、無意識に聞き返してしまう。

「何でもないです……」

「え?いや、全然いいよ。何ならそっちの方が俺も楽だし」

 訪問三回目で少しではあるが藍海との距離が縮まったような気がした。

「小テスト満点だね。何か引っかかったりしたところとかあったかな?」

「いえ……特には無かったです」

「そっか、じゃあそのまま数学やろうか」

「あの……名前ってなんてお呼びすればいいですか」

「あーそうだったね。名前が中也だから、中也でもなんでも好きに呼んで」

「じゃあ、中也さんでいいですか?」

「いいよー」

「あの、中也さん」

「なに?やっぱり解説とかいる?」

「ああ、いえ。なんでもないです」

 その後は前回と同じく、黙々と彼女に勉強を教えた。尻ポケットに差し込んだスマホがバイブレーションで時間を知らせる。

「もうこんな時間か。切りのいいところで終わりにしようか」

「はい」

 最後の問題を解説し終わり、広げた教材をカバンに押し込む。

「じゃあ今日はお疲れ様」

 玄関で靴を履き終え、彼女に向かって別れを告げる。

「あの……もし迷惑じゃなければ、また次の小テストで満点取れたらお願いを聞いてもらってもいいですか?」

「全然いいよ!お金がかかり過ぎるのとかはちょっと難しいけどね」

「分かりました。またお待ちしています」

 この日を境に、生徒と家庭教師という二人の関係性に影が差し始めた。

 次の授業日。初めて彼女の母親と対面することになった。

「あらぁ。貴方が娘の家庭教師さん?娘をよろしくお願いしますね」

「はい!もちろん精一杯やらせていただきます」

「じゃあよろしくお願いしますね。私、これから少し出ないといけないので」

 少し出かけると言っていた割には気合の入った格好で出かけて行った。玄関で藍海の家族関係についていろいろな憶測を立てていると、意識の外側から声を掛けられる。

「母にあったんですか」

「あ、うん……」

「部屋へどうぞ」

 藍海の声色は少し強張っていた。警戒していると言った方が近いのだろうか。彼女は目を合わせることなく部屋へと促した。

藍海の為に作成した小テストは現代文。中原の「子守唄よ」であった。彼女はいつも通り机に向かい問題を解いていた。しかし、彼女の解くスピードはいつもよりやけに遅かった。小テストを解かせ始めて十分ほど経ったので、解答用紙を少し覗く中也。解答用紙はまっさらだった。

「藍海ちゃん?わかりずらいところでもあった?」

 現代文の問題とはいえ百年近く前の作品であれば理解に苦しむところもあるだろう。そう思いながら彼女を見つめると、藍海の瞳にはなぜか哀愁が漂っていた。中也は少しバツが悪かった。すべてというわけではないが、彼女の家庭環境について聞かされていたからだ。なんと声を掛ければいいか分からず、暫し無言で藍海を見つめる。すると、藍海がおもむろに口を開いた。一言一句聞き逃すまいと、固唾を呑んで見守る。

「暗い海を、船もゐる夜の海をそして、その声を聴届けるのは誰だらう?か……。きっとわたしじゃないんだろうな……」

 藍海の切なく震える声が鼓膜を震わせる。漏れ出た彼女の心情に、中也は何も言えなかった。二十分後部屋に無機質なアラーム音が鳴り響いた。

「時間になったし、採点するね」

 藍海は、何も言わずに中也に解答用紙を手渡した。結果はいつも通りの満点だった。

「今回の小テストも藍海ちゃんには簡単すぎたかなー」

「…………」

 少しおどけて見せても彼女の表情は曇ったまま。

「今回も満点だったし、何かご褒美とかいるかな?コンビニ近くにあるしジュースとか全然奢るよ」

 気まずい雰囲気を何とか変えようと、ご褒美の話を振ってみる。

「……て……ください」

 消え入るような声で彼女は話した。

「ごめんよく聞こえなかった。いまなんて?」

「頭をなでて……ください」

「へ?」

 身構えていた自分が恥ずかしくなるような拍子抜けなお願いに、中也は間抜けな声を出してしまった。

「ダメ……ですか?」

 間抜けな声を拒否の意で取ったのだろう。藍海は椅子から立ち上がった中也に上目遣いで返事を請う。

「全然大丈夫だよ。そんくらい満点じゃなくてもやってあげるよ」

 今度は拒否の意で取られぬように注意を払って答える。

「じゃあ……お願いします」

 椅子の上に体育座りをして待つ藍海。中也は割れ物に触るかのようにそっと手を置く。すったばかりの墨のように黒く、それでいて絹のように柔らかい彼女の黒髪。撫でるたびに女子中学生特有の甘い香気が漂い、女子中学生に触れるというインモラルな感情が湧き上がる。

「どう?このくらいでいいかな?」

「ありがとうございました。頭を撫でられたりするのすごく憧れていたんです」

「ならよかった」

 これ以上続けてしまっていたら危なかった。これでもうおしまい。そんな中也の覚悟を打ち砕くかのように彼女の要求は日々過激になって行った。

 そして、何回目かの授業日。

「今日はまずこの小テスト解いてみて」

 少し前に決めたはずの覚悟はすでに打ち砕かれていた。そして中也は、この歪な関係性に心地よさを感じてしまっていた。またあろうことかこの先の期待まで抱いていた。

「分かりました」

 今時スマホすら持ってない中学生なんて……。ふと昨日の友人との会話が頭に浮かぶ。

「あの……中也さん?」

 椅子に人形のようにちょこんと座る彼女は訝し気に中也の顔を覗き込む。

「あ……あぁ、ごめんぼーっとしてた。なんかわからないところでもあった?」

「いえ、解き終わったんですが」

「早かったね……」

「…………」

「凄い。全問正解だよ。藍海ちゃんは解きづらい問題とか何かなかった?」

「いえ……なかったです」

不思議な子だよな。

「あの……中也さん」

 今日は何を求められるのだろう……。藍海は中也の肩にそっと手を置いて顔を見つめる。

「あの……」

 何を望みもせず、死を望むのでもなく、死を夢みているような藍海の眼に見つめられ、中也はのぼせてしまう。気づけば彼女に言われるでもなく、彼女の唇を奪っていた。ムニっと柔らかい藍海の下唇は、みずみずしい果実のようだった。無意識に両手でつかんでいた藍海の腰は、緊張からかキスをした瞬間にぶるっと震えていた。

「あ、ごめん驚いた?」

「いえ……」

 薄桃色に染まった藍海の顔。キスを噛みしめるように食む下唇。少し生気を取り戻した眼。

 調子づいた中也は、藍海の固く閉ざした唇をペロッと嘗める。

「ごめん。やり過ぎちゃったかな、じゃあ授業始めようか」

 やってしまったと思いつつ、藍海を刺激しないように授業へと促す。

「中也さん」

「ん?」

「あの……」

「あの……中也さん、キス以外の事も教えてくれませんか」

「俺なんかでいいの?」

 拒絶とは受け取れないしばしの沈黙の後、中也は堪えきれずに藍海の制服に手をかける。

「この部屋だけは治外法権だから」

幼気な藍海は少し怖気づきながらも中也を受け入れた。

「あのさ……何ていうか、ほんとごめん」

 中也は、シャワーを浴び終えた藍海の髪をドライヤーで乾かしながら謝罪する。

「俺もう……」

「怖かった……でも、嬉しかった」

 中也の謝罪の言葉をわざと遮るように藍海は言葉を続けた。

「あなたといると私は安心する。でも中也さんが帰ると私は家に一人きり。すると色んな不安が浮かんできて耐えきれなくなって、深くて広くて暗い海に沈んでしまう感覚になるんです。日の暮れた後はひどく寂しいから」

 汚れつちまつた悲しみに、なすところもなく日は暮れる。

                 了

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