第一章 キョウとリイネと……〈3〉

「アンちゃん、待ってなのぉ!」

「急げよ。遅刻するぞ」

「学校までお手てつないで行こうなの」

「だから、手なんか繋がないよ。恥ずかしいなぁ……」


 学校までは家から十五分とかからない。だから八時に出れば急ぎ足になる事もないのだが、要はリイネの歩みが遅すぎるのだ。その上、いつもこのやりとりである。

 子供の頃からリイネは、やたらと俺と手を繋ぎたがる。中学に上がった頃も、高校生になってもこの調子だ。もちろん本人に他意があるわけじゃないが、知らない奴が見たら完全に勘違いされる。高校は中学と違い、それこそリイネの事情や性格を知らない奴らだらけだ。おかしな噂が流れればトラブルの原因にもなる。それだけは避けたかった。

 事実、今でも状況は芳しくないのだから……



 自宅のある住宅街を抜けて表通りの商店街に入ると、段々と同じ制服の生徒達が増えてくる。友達と連れだって登校する生徒、自転車で駆け抜けて行く生徒と様々だ。

 その商店街を抜けて見えてくるのが『市立園北高等学校』。生徒数八〇〇人弱。わりと運動部は盛んだが、それ以外はごくごく一般的な何処にでもある普通科高校。そこが俺とリイネが通う高校だった。

 俺は、校門の前に立って身だしなみチェックをする生活指導の教師にだけ、


「おはようございます……」

 

 と、小声で言い、後は誰に挨拶する事も無く下駄箱へと向かう。友達など作るつもりも無い俺のいつもの朝だ。

 一方、隣を歩くリイネと言えば――


「オハヨーございますなの!」


 と、教師も驚く程の大声で挨拶し、


「オハヨーなの! あっ、オハヨーなの!」


 と、全校生徒に挨拶するつもりなのかと思うくらい片っ端から挨拶している。

 まあ、コイツの頭の中じゃ、同じ学校に通う人間は全員友達くらいに思っているのだろうが、挨拶された方はと言えば戸惑った顔で引いている。

 それはそうだ。口も聞いた事の無い奴から満面の笑みで挨拶されたら誰だって引く。


「ほらリイネ、早く教室行くぞ」

「ハーイなの」


 あまりおかしな行動を取らせないよう、俺はリイネの背中を押し、教室へと促した。



「みんなオハヨーなの!」


 教室に入るなり、リイネは満面の笑みでそう声を上げた。中には引きながらも挨拶を返すのが数人は居るが、そのほとんどは無視しているか、珍獣を見る目でクスクスと笑っているか、もしくは露骨に鬱陶しい顔をしているかだ。

 高校に入学してからリイネは毎朝これをやり、クラスの奴らの態度もそう変わらない。


「それやめろって言ってるだろ。恥ずかしいな。それと片っ端から挨拶するのもよせ」

「別に恥ずかしくないの。リイネはオハヨーって言ってるだけなの」


 俺が注意しても、リイネはニコニコと笑顔で返す。いつもこの調子だ。

 クラスの反応からも分かる通り、未だにリイネの周りには友達と呼べるような人間は居なかった。


 ――小学校までだったな……


 ふとそう思う。

 小学校までリイネは人気者だった。屈託無く誰とでも話し、誰にでも笑顔を向け、常に笑顔を絶やさない。人見知りなんて微塵も無い。あの頃のリイネは、いつも友達に囲まれていた。

 しかし、中学に上がると、人付き合いが不穏になり始めた。周りが精神的に大人になってゆく中、リイネだけが変わらない。リイネをウザがる人間は、男女問わず段々と増えてきた。それでも小学校からの付き合いもあって、まだ何人かは友達が居たのだが、それも今は全員別の学校だ。


 ――一人くらい、リイネの性格を気に入って仲良くしてくれる物好きがいれば……


 友達など居なくても何とも思わない俺とは違い、人が好きなリイネには、やっぱり昔のように友達に囲まれていてほしい。だが、いきなりリイネの性格を目の当たりにして踏み込んでこれる奴などそうは居ないというのが現実だ。

 席に着いても常に笑顔を絶やさず、カバンの中から教科書やノートを取り出して机の中にしまうという行動さえ、どこか楽しそうにしているリイネ。

 そんなリイネの様子とは裏腹に、リイネの孤立は進むばかり。それは、いつ、どんな風に悪意を向けられてもおかしくない状況だし、事実クラスには不穏なヤツラも居る。もちろん俺はそれに対し常に目を光らせているが、しかし、どうしても目の届かない場所もあった――

 ――部活だ。



「才賀、前から言ってるけどさ、アンタまだ部活辞めないの」

「えっ? 西城さん、どうしてなの?」

「だから、何度も言ってるよね? アンタみたいなスッとろいのが居ると練習の邪魔なの」

「それはごめんなさいなの。リイネ、もっともっと練習して、早く上手になるから許してほしいの」

「許すとか許さないとか、そういう問題じゃないから」

「あとさぁ、なぁに? その変な喋り方ぁ~。カワイイとかぁ、思ってんのぉ? 前からホーント、イライラすんだよねぇ~……」

「小倉さん、ごめんなさいなの。子供の頃からのクセで、アンちゃんにも直すように注意されるけど、なかなか直らないの」

「そんなこと聞いてねーっつうのぉ。そのニヤニヤもキモいんたけどぉ~」


 いつものように教室で時間を潰し、部活が終わる頃を見計らって女子の部室小屋まで迎えに行ったら、着替えて出てくる女子部員達の中にリイネの姿が見えなかった。もしやと思い部室小屋の裏に来てみたらそんな声が聞こえてきて、案の定だった。

 リイネは、派手な茶髪とピアスだらけの耳をした二人の女子に囲まれていた。

 派手な茶髪で高圧的な物言いをしている女子が西城。ピアスだらけの耳と人を小馬鹿にするような物言いが特徴的なのが小倉。二人とも同じバスケ部の一年だ。

 その二人は、リイネを見下ろして睨んでいたが、ついに西城が堪えきれなくなったように眉間に皺を寄せてヒステリックな声を上げた。


「あぁーッ!、もうマジ、ムカつくッ!」


 同時に西城は、リイネの髪を鷲づかみにした。

 だが、リイネは声も上げず、笑顔を崩すことも無い。その様子に、俺は大きな溜め息を吐いた。

 こんな事は初めてじゃなかった。リイネが部活に入って二週間くらいが経った頃だ。その時も俺は今のような場面に出くわしていた。


『今度リイネに何かしてみろ、俺はオマエらを地の果てまででも追い込むからなッ……!』


 その時の俺はすぐに飛び出し、そう言い放って二人を睨んだのだが――


「リイネ、何やってんだ。帰るぞ」

「あっ、アンちゃん」


 リイネが俺に振り返ると同時に、西城は慌ててリイネから手を引っ込め、小倉と共に背を向けてその場を離れようとする。俺が脅しを掛けて以来、西城と小倉は俺が来ると逃げるようになっていた。しかし、それでも要注意だった。あの二人は同じクラス。クラスの不穏なヤツラとは、アイツらの事なのだ。


「それじゃあ西城さん、小倉さん、また明日なの」


 何事も無かったかのように笑顔で二人の背中に手を振り、それから俺の方に駆け寄ってくるリイネ。そんなリイネの背中に向かい、西城は振り返り、小声で悪態を吐いた。


「チッ、死ねよクソが……」


 売り言葉に買い言葉。俺も思わず西城を睨み、悪態が口をついた。


「オマエらの方こそ死ねばいい……」


 ――と、その瞬間だった。西城と小倉の体から突然、炎が吹き出したのだ。


「えっ――?」


 西城と小倉は悲鳴を上げ、俺は言葉も無く立ち尽くす。そこに、駆け寄ってきたリイネが俺の腰に思い切り抱きついてきた。


「リ、リイネ……?」


 顔を上げ、俺を見上げるリイネは笑顔。だが、いつもと様子が違う。どこかなまめかしいと言うか、誘惑的と言うか……

 いや、そんな事よりも西城と小倉は!

 しかし、俺が再び二人を見ると、二人を包んでいた炎は忽然と消えていて、何の外傷も無く二人は顔を見合わせキョトンとしていた。


「やっぱ、今はこれが限界ね。こんな、そこに無ければ無いですね的なヨージ体型のオッパイじゃ、男をその気にもさせられないし……」

「リイネ……?」

「フフッ、もうちょっと待っててね」


 何が起こったのか混乱している俺に、リイネはそう言ってウインクする。

 と、さっきまでなまめかしかったリイネの顔つきが元に戻った。同時にリイネは、俺を見上げたまま首を傾げる。


「アンちゃん。リイネ、どうしてアンちゃんに抱きついてるの? なの」

「それはこっちが聞きたいよ……」


 何だったんだ今の? 狐につままれた? 白昼夢?


「西城さんと小倉さんも、何してるの、なの?」


 西城と小倉は、未だ声も無くただただ驚いた顔を見合わせている。

 とにかく俺は落ち着こうと、自分の頬を軽く叩く。

 まあ、何があったかは分からないが、これ以上、西城と小倉の近くには居たくないという気持ちだけはハッキリしている。


「と……とりあえず、帰るか」

「ハーイなの」


 リイネは、いつも通りの満面の笑顔を見せた。

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