第一章 キョウとリイネと……〈2〉
制服に着替え、洗面所で顔を洗う。高校に入学して二ヶ月。中学の頃は学生服だったが、高校ではブレザーに変わり、未だネクタイに慣れない俺。
「パッチン式なら毎朝簡単なのに……」
と、洗面台の鏡の前でいつものようにごちる。今だにスタンダードタイプのネクタイを貫くうちの高校の意味が分からない。
いくら直してもどうも気にくわなかったが、時間に余裕も無い。仕方なしに俺は、ネクタイを気にしながらもダイニングへと入った。
「おはよう……」
テーブルではワイシャツ姿の父さんがトーストを囓りながらテレビの朝のニュースに目をやっていて、その体勢のまま俺に向かって手だけを上げる。そんな父さんの横の席に俺は座る。そこが、いつもの俺の席。
と、その時、ふと父さんのネクタイが目に入る。毎朝きちんと真っ直ぐになっている事に、少しだけ尊敬してしまう。
「さっさと食べちゃいなさい」
カウンターキッチンで洗い物をする母さんが、顔を上げること無く言った。
目の前には、トーストとケチャップが添えられた焼きウインナーが三本、それに牛乳がすでに用意されていた。向かい方のいつものリイネの席にも、同じ物が用意されている。
「いただきます」
俺はフォークを手に、刺したウインナーをケチャップに付けて口に運ぶ。
と、同時に、朝っぱらから元気な声と笑顔がダイニングに入ってきた。
「お父さん、お母さん、オハヨーなの!」
だがそこには、ネクタイのちょっとした曲がり具合を気にしていた自分がバカに思えるくらいのリイネの姿があった。
「オマエなぁ、顔洗っただけで鏡見てないだろ? 髪はボッサだし、胸のリボンなんか縦になってるぞ」
どうすればこんな器用な付け方が出来るのか……
「あらあら、りっちゃんったら。お母さん直してあげるから、りっちゃんは朝ゴハン食べちゃいなさい」
「ハーイ。ありがとうなの」
リイネは自分の席でトーストを頬張りながら、カウンターキッチンから駆け寄ってきた母さんに制服を直してもらったり、ブラシで髪をとかしてもらったりしている。基本、母さんはリイネに対して過保護だ。
「そういえばりっちゃん、お部屋に起こしに行ったら居なかったけど、また杏の部屋で寝ていたの?」
「うん」
リイネはトーストを咥えたまま頷く。
俺はここぞとばかりに母さんに訴えた。
「そうなんだよ。母さんからも言ってくれよ。もう子供じゃないんだしさ」
と、母さんはブラッシングの手を止め、真剣な顔をして言うのだった。
「りっちゃん、杏に何か変なことされなかった?」
俺は思わず口にしていた牛乳を吹き出し、隣の父さんまで咳き込んだ。
「しねーよ! こんなよーちえんじに興味は――」
と、俺が怒鳴っている途中で母さんは俺を見下ろし、鋭い眼光を向けた。何者をも黙らすようなその強烈な
「アンタ、こんな純真無垢な子に何かしたら、明日は来ないと思いなさい……!」
まるで世紀末覇者のようなセリフ。もっとも、強さという点においては似たようなものではあるのだが……
今でこそ母さんは近所の空手道場で子供達に空手を教えている程度だが、現役選手の頃に築き上げてきた栄光は数知れず。全国大会優勝はもちろん、世界すら獲った事がある、かつては名実ともに世界一強い女性だったのだ。運動など人並み以下の俺が、よくこの武闘家スキルマックスの母さんの腹から生まれてきたものだと不思議に思う。
「まあまあ、母さん落ち着いて、なっ」
少なくとも、こういう時にはいつも困った笑顔で助け船を出してくれる優しい父さんの子である事だけは確かなようだが。
「りっちゃんも空手やればいいのに。杏には教えられないしさ。りっちゃん、体動かすの好きでしょ?」
母さんは再びリイネの髪をブラッシングしながらそんな事を言う。
だが、リイネは「う~ん……」と、少し悩んだ顔を見せ、首を横に振った。
「リイネはね、かくとうぎよりも、運動の方が好きなの」
本人の言う通り、リイネは
ただし、上達は一切見られない……
「お母さん、牛乳おかわりなの!」
それでも必死に背を伸ばそうとしている健気さだけは、褒めてやりたい。
そんな健気にリイネが牛乳を飲んでいる時だった。父さんがテレビを見ながら不意に不安そうな声を漏らした。
「なんだ、また起こったのか。怖いな……」
何かと思い、俺もテレビに目を向ける、と――
『昨日未明、園北市内において再び着ぐるみ暴行事件が発生しました。被害に遭った男性は、トカゲのような着ぐるみを着た巨漢に突然襲われ、命からがら交番に逃げ込んだと話しており、警察は今もトカゲのような着ぐるみを着た何者かの行方を追っています』
数日前からこの園北市を騒がせている連続暴行事件。今回で多分三件目。犯人はトカゲのような着ぐるみを着た巨漢で、最初に現れた時は駆けつけた警官にまで襲いかかったって話だ。だけど、その時は警官が威嚇射撃をしたら逃げていったらしく、警官も被害に遭った人も、命の危険を感じたそうだ。しかし、未だに行方は掴めないらしい。トカゲの着ぐるみを着た巨漢なんて、すぐに見つかりそうなもんだけど――
と、続けて防犯カメラに映る犯人の映像が流れた。
「おっ、防犯カメラに映ったのは始めてじゃないか?」
父さんが言う。確かにそうなんだが、それも妙な話だ……
カメラの端に映る巨大な影。
ぼやけているし、映っているのも一瞬。でも、確かにトカゲ。
まるでオカルト番組のUMAを捕らえた映像みたいだ。でも――
「あれ? これって……」
何か、どっかで見覚えが……
「なんだか本当に怪物みたいだな……」
再び父さんが不安そうな声を漏らす。そんな父さんに俺は苦笑を浮かべた。
「ハハッ、まさか。悪質なイタズラだよ」
そこにリイネの元気な声が上がった。
「大丈夫なの。オバケはお母さんがやっつけてくれるの」
「う~ん、さすがにお母さんもオバケはちょっと怖いかな。でも、りっちゃんだけは、お母さんが絶対守ってあげるからね」
そう言って母さんはリイネの頭を撫で、リイネは嬉しそうな笑顔を浮かべる。
どうやら俺の事は守ってくれないらしい……
俺はまた苦笑を浮かべながら、ふと壁の時計に目をやる。
と、時刻は八時になろうとしていた。
「いけね。急げリイネ、もう行くぞ」
俺は慌てて席を立ち、
「ハーイなの」
と、続いてリイネも立ち上がる。母さんに直されて、身だしなみはすっかり整っていた。
「じゃあ行ってきます」
「お父さん、お母さん、行ってきますなの」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「本当に気をつけてな。色々物騒だから」
そんな両親の言葉に見送られ、俺とリイネは学校へと向かった。
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