こんばんは。
最近、深海菊絵『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(平凡社、2015年)という本を読みました。深海さん自身はポリアモリー(複数愛)の研究者というだけで実践者ではないそうですが、この本によると、「恋人や事実上の配偶者(パートナー)を1人に限定しなくていい」というポリアモリーやオープン・マリッジについて、実践者たち自身は誠実さと自由を両立させた関係性だと考え、浮気・不倫、スワッピング(夫婦交換)などの不誠実でふしだらな関係とは区別しているそうです。
「複数愛といっても、ポリアモリーには条件がある。それは自分と親密な関係にある全ての人に交際状況をオープンにし、合意の上で関係を持つこと。したがって、パートナーに隠れて複数の人と関係を持つことを第一目的とするスワッピングの人間関係とも異なる。ポリアモリー実践者の目指す関係は、感情的にも身体的にも深く関わり合う持続的な関係である」(p.14)。
「恋人の他に好きな人ができてしまったときに、自分の気持ちに嘘をついて、無理やりどちらか一人を選択しなくてもいい。夫や妻に隠しごとをせずに、他の人を愛することができる。逆に、自分のパートナーに好きな人ができたとしても、『他に好きな人ができた』という理由だけでふられる心配もない」(p.14)。
どのページだったか、子供(兄弟姉妹)が増えたからといって親が子供それぞれに注ぐ愛情が減るわけではない、という話もありました。(誠実な家族関係において、)愛する人の数が増えることは人間関係が広がり、愛情そのものが増大することなのだから、恋人・配偶者という元は他人同士の関係性においても、お互いの自由を束縛する考え方(所有・独占・支配など)に囚われず、適切なコミュニケーションを断続的に実践すれば、そういう愛が可能なはずだ、ということのようです。
本作『懐胎』で描かれている関係は、当事者たちがタマミさんの「浮気」を了承済みで交際している点ではポリアモリー的ですが、主人公は基本的にタマミさんとの肉体関係にしか興味がないようなので、その意味ではポリアモリーとは違うかもしれない、という微妙なものだと思います。その点から言って、本作を通してポリアモリーについて語ることが適切なのか不適切なのか、僕にはよく分かりませんが、本作を読んで気付かされることの1つは、「人間は決して完璧な存在ではない」ということです。
僕の思うところ、ポリアモリーの実践は、当事者1人ひとりが成熟していて、自立して自律的な(他者やその状態に左右されず、一時の欲望や衝動に振り回されず、倫理的にストイックな)人間であり、他者に対する誠実さと思いやりと聡明さを持ち合わせ(自分の価値観を的確に言語化でき、価値観が必ずしも同じではない他者に対してきちんと耳を傾けることができ)、誰かが冷静さを失っても当事者の少なくとも誰か1人は冷静という状態が常に維持されている人間集団を前提にしているようなのですが、真花さんが本作で描いていらっしゃるように、多くの人間はそこまで完璧超人ではないし、若い頃の恋愛相手に対してそこまで誠実とも限らないんですよね。
深海さんの本に限らず、ポリアモリー肯定派の言い分としては、「ポリアモリーで起こる問題は、一夫一婦制を前提とした恋人関係(モノガミー)でも起こる」というもので、これはたしかにそうだと僕も思いますが、消えない懸念の1つは、これも『懐胎』の重要なテーマの1つ、「子供は親を選べない」ということです。ポリアモリーの実践者は誠実で自由な関係を追求し、それが予想通りにならなかっただけ、「人生万事塞翁が馬」と諦めがつくかもしれませんが、それで生まれてくる子供にとって、人生は必ずしも「自由」ではありません。ポリアモリー実践者の親に育てられ、そういう価値観を内面化しても、アイデンティティに揺らぎを感じる年頃になれば、モノガミー家庭で親との関係性が基本的には固定された(安定している)子供たちをうらやましく思うこともあるでしょう。そのとき、完璧ならざる人間は、親として子供にどんな言葉をかけられるのか。きっと本作『懐胎』の主人公のように、逃げることを選ぶ人、それを自由だと信じたがる人が少なくないのではないかと思います。
今の日本の状況を見ると、婚姻制度がそこまで「自由」になることは考えづらいですが、当事者同士が納得しているなら、ポリアモリーやオープン・マリッジについてとやかく言うことは、部外者にはできないと思います。とはいえ、生まれくる子供たちを置き去りにしてなし崩し的にそれが広まっていくことについて、僕は強い懸念を覚えています。本作『懐胎』は愛情や恋愛の「自由」化に対して一石を投じている点で、大変興味深い作品になっていると思います。ありがとうございました。
作者からの返信
あじさいさん
こんにちは。
ポリアモリーについてはこの作品を書くにあたって、念頭にあったと言うよりは常にチラついたと言った方がいいものでした。それで、少しだけ調べて、ああ、違うものだ、と思って書き進めました。
多分、ポリアモリーを全う出来る人と言うのは、成熟度とかよりも、「ポリアモリーが当然のこと」と信じられることが必要な資質と言うか状態なのではないかと思いました。その点で、本作の男達はタマミを共有すると言うことに納得がいっていない。ですが、状況は不自然ですが、そこに不満なり嫉妬なりを覚えると言う男達の感情は自然なものなのではないかと思います。オープンでないと言うこともポリアモリーとは違います。もちろん、自然であることが正しいこととは一対一対応しないことは当然です。
子供のことについてはまさに仰る通りで、親がポリアモリーであってもモノガミーであっても、子供が同じになるとは限りません。コダマの存在は、親の選択に影響される子供であり、それが幸せに繋がるのかの疑問符です。幸せになってもいいんです。でも、それに困難を最初から与えられる可能性が十分にあるのではないか、と。
「大変興味深い」と言って頂いて、嬉しいです。
読んで頂きありがとうございます。
真花
性的な表現が即物的な言葉や描写でなされていて(そんなふうに感じました)、それがこの作品全体を通したトーンになっているように思いました。こうした物語の場合、刹那的な関係を切り取って美しい悲恋で終わるようなパターンが多いと思うのですが(私見です)、この作品では子供ができ、その後のことも描かれ、さらに十年もの月日が流れています。このトーンだからこそ、そのような展開もすとんと腹に落ちました。現実になさそうでありそうで、エースケの心の動きが妙にリアルに感じられました。それと「コダマ」という娘の名前がユーモラスに感じられて、アクセントになっているように思いました。興味深い作品でした。
作者からの返信
@sakamonoさん
「興味深い」と言って頂けて嬉しいです。
展開がこの「トーン」だから「腑に落ちた」と言うのは、書いた視点からすると、この「トーン」だから、この展開に至ることが出来た、のかも知れないと感じました。物語の空気感はいつも重要視しているので、それがつまりトーンとなるので、「腑に落ちる」ものに繋がったのは、やり方を間違っていなかったと伝えてい頂いたように思い、安堵して次もがんばるぞ、と言った気持ちです。
「コダマ」がアクセントは全く意識していなかったので、そうなのか、面白いです。
読んで頂きありがとうございます。
真花
異質な関係の2人ではあるものの、それぞれの根本にある感性は共感できるもので、それのおかげでタマミを通してエースケ以外の男とのやり取りが透けて見えてくるようでした。エースケ視点で部分的に描かれるタマミの様子が、空白の時間への想像を掻き立ててきてとても面白かったです。経験したことのない世界であるがゆえに想像が難しくなりそうな内容なのにも関わらず、むしろ新しい未知の世界での妄想に浸らせてくれる良い作品に出会えました。
作者からの返信
武さん
「空白の時間への想像」をして頂けるのはとても嬉しいです。それがタマミの様子から、と言うのが尚更です。「未知の世界での妄想」と言うのも嬉しい。作品が文字で描かれている枠を越えることが出来るのは本当に嬉しいことです。
読んで頂きありがとうございます。
真花
企画より拝見しました。
7股? を堂々と行っているタマミとそれを受け入れタマミを愛する主人公。タイトルからして不穏な空気が流れていることに気付いていたのですが、こういった内容であるとは全く思わず、いい意味で予想を裏切られました。
そして生まれた子どもは果たして我が子なのか? 個人的に昼ドラ的な展開はあまり好みではないので、主人公がタマミとの関係に折り合いをつけることができたことにほっとしました。
作者からの返信
木々沼 爽暇さん
「いい意味で予想を裏切られ」たとのこと、よかったです。
ドロドロの昼ドラ世界は私もあまり好きじゃないです。でも、ともすればそう言う話にだってなり得る題材でした。やはり、好きじゃない方向には進まないのかも知れません。
「ほっとし」て頂いたのもよかったです。
読んで頂きありがとうございます。
真花