研修中の職員を徹底的に甘やかしてみる

島尾

ある駅員の話

 さほど大きくもない駅の、小さな窓口に3人の客が押し寄せていた。そのうち一人は50代くらいのおばさん、もう一人は学生らしき若者、もう一人は私だった。おばさんが清算を終える前に、後ろでキャリーバッグをゴロゴロさせる音が聞こえてきた。そして特急を使って新幹線も使って浜松まで行きたい、とベテラン駅員に申し出ていた。このベテラン駅員は駅アナウンスや切符回収などに当たっていたから、4人目のした難しい注文に時間を割く余裕はなかった。結果的にベテランは


「どうしましょう」


 と言うほかなかった。T駅で特急に乗り換える必要があるが、乗り換え時間が短いためにその駅で切符を買う時間はない、さらに窓口では研修の駅員に対して若者がこれまた難しい要求をせがんで狼狽させているために時間がかかっている、後ろにはなおも3人が並んでいてプレッシャーをかけているからますます時間がかかる予想が立つ、さて一体どうしたものか、とベテランと浜松行の客が気まずそうにやっていたのである。


 もう少し早く50のおばさんが来ていれば、結構余裕があっただろうに。

 若者の要求はあまりにもエゴイスティックであり、下調べしていないような感じがした。

 私は片道280円の切符を買うために、障碍者手帳があるからといって140円に値切ってもらうために並んでいた。たかが140円に何が詰まっていようか。外の誰一人並んでいなかった自動券売機で280円を買うべき状況であったといえる。

 浜松行のが一番悪い。そんなに遠くまで行くのなら前日に切符を買っておくべきだし、何よりこの駅はJRではなく第三セクターなので清算に時間がかかる旨が窓口の注意書きにでかでかと書かれていた。これに関しては上の若者も同様で、JRを経由するルートを注文していた。ここでもう一度若者の話に戻ると、彼はクレジットカード決済がうまくいかなかったために時間がかかっていた。そういう経験を私もしたことがあるが、原因はお金の使いすぎでカード会社に取引を停止させられたことであった。だから若者もお金の使いすぎだったのではないかと疑うところである。

 電車の到着時間も不運だった。若者と研修駅員がバタバタやっているうちにあと5分で到着という切羽詰まった事態に陥った。そのことが研修駅員にさらなる追い打ちをかけたとみて良いだろう。さらに研修駅員は若い女であった。これがもし男だったら、プレッシャーの感受はもう少し程度の小さいものだったかもしれない。だがしかし女として生まれたことがここにきて不利となってしまったと思える。


 私はその女研修駅員に手帳を見せ、140円を要求した。彼女は手帳をまじまじと見て、「これ……」と困惑した。手帳というものは普通、本のような形態をイメージさせる。しかし現代では交付時にカードタイプを選択するのが主流だ。だから「手帳」という言葉に問題がある。さらに言うと私は数時間前、同鉄道会社のT駅の駅員にそれを見せて1秒で半額運賃で買った。だから「T駅では普通に買えました」と報告すればそれで良かったのである。そうすれば彼女もすぐに納得したかもしれない。最後まで納得しきれなかった様子の彼女は、結果的に王様たる客の威圧と後続の客、それに迫りくる列車の圧力に屈して140円を損することを余儀なくされたようになってしまった。


 浜松行がどうなったのかは知らない。面倒な注文をした可能性が高いだろうが。


 そもそも彼女はここまで苦しむ必要がなかった。先にも書いたように、第三セクターである鉄道会社の窓口でJRの切符を買うことには時間がかかる。よって客はよほどの重大な事情をもっていない限り外のガラガラの券売機を使用するべきなのだ。しかし券売機はクレジットカードが使えない。しかし客は日本国に住む資本主義社会の人間である以上、少なくとも4,000円の現金を持ち歩く習慣を身に着けるべきである。キャッシュレス時代はマネーレス時代と同値ではない。一方で財布の中はマネーレスなのは、いかがなものか。


 開けたホームで20分後の電車を待っている間、窓口のほうから「すみません」という彼女の声が聞こえた。条件反射でそう言ったのかもしれない。あるいは客第一主義が染み込んだ日本のサービス業の汚点かもしれない。単にみんな外の券売機を使えばすぐに済んだだけなのに。ちなみに若者は最後までクレジットカードが使えなかったようで、乱暴に「じゃあ現金で!」と言い放っていた。かわいそうな研修者である。4人の客たちが自動券売機でT駅まで又はF駅までの切符を買い、JR管轄駅に降り立ったのちにJRの切符を購入したならば、彼女のこの苦しみは生まれなかった。そういうことは現代、スマホで簡単に調べることができる。私はiphoneのマップやYahooの乗り換えアプリで調べることがほとんどである。当たり前だが客は神様ではなくただの人間だ。全知全能でない以上調べるほかないし、それが嫌だというなら客は神様どころか虫けらに喩えられるべき下等な何かであろう。本来彼女は「全然わかんないです」と言うべき環境にさらされていたはずだ。そして裏で「クソ客が4人も並んで、めんどくさい」「私は悪くない、悪いのは客と会社の上層部だ!」等の暴力的な愚痴を言ってほしい。なぜならば、客はお金と時間の操り人形に成り下がっているからだ。50のおばさんとのやり取りはよく覚えていないから何とも言えないが、若者のクレジットカード→現金という横暴な変更要求はただただ見苦しかった。私は彼女のことを心の中では応援しつつそれを傍観していたキモ男だった。浜松行に関しても、何か重要な会議で重大な発表が控えているとした場合、オンライン会議に変更してもかまわない。またはその会議自体を1か月後に変更したとしてもかまわない。それで先方の定めた納期に間に合わずともかまわない。そのことが原因で誰かに迷惑をかけてもかまわない。なぜならば、生きる上で衣食住と薬がちゃんと調達できる日本において、少しの日程の狂いや少しの損害などは気にすればするほど心を傷つけるだけの因子だと思うからだ。別に統計をとって研究したわけではないから単なる思いつきとしか言えないが、にしても現代の日本は何かと窮屈であって、より窮屈を要請する社会構造に向かっている気がしてならない。前にYOUTUBEでリトアニアの夫婦が自国の労働環境について語っているのを視聴したことがある。内容を詳細におぼえていないが、日本と比べてかなりゆるやかな人生を送れそうだと思った。人口規模も経済規模も日本が圧倒的に大きいから一口にそれを見習えとは言えないが、その動画を100人の日本人が見たと仮定した場合、何らか日本が間違った道に踏み入っているのではないかと感ずる者がかなりいる可能性が高いように思われる。そういえば昨日名古屋の定食屋で何人もの日本人客が会社や日本に対する愚痴を吐いていた。それらの会話は何一つ美しいものでなく、「こうすればこうなるよ」「ああすればああなるからダメだ」「大変だよね~」といった、檻に閉じ込められた鶏か牛が鳴いているのに似た、感動のない、喜びもない、ただし目の前の飯は旨い、そんな空間だった。これは先の研修駅員の感じた苦痛と相関がありはしまいか。


 急がば回れ、という言葉を現代日本人は無視しているように思える。直線距離、それすなわち最短時間なり、ということをいかなる状況においても妄信している気がする。しかし現実に空気中からガラスに入る光は(回ってはいないが)曲がることによって最短時間で目的地に到着することを達成している。また、風呂おけの穴から出る湯は渦を巻いている。これは日本が北緯33度付近に位置するためであり、渦を巻いて(すなわち回って)穴を出たほうが流体力学の観点からして最適の道だからである。

 安易な直観にばかり頼るのも危険である。例えば数学の分野では小谷のアリ問題というのがあり、AB=AD=1 , AE=2 の直方体ABCD-EFGHの底面ABCDの頂点Aから最も遠い上面EFGHの頂点Gを目指してアリが側面を這って行った結果、実はその経路は最も遠いものではないことが導出できる。アリが最も長い道のりを歩かねばならないのは、Gより少しずれた上面の或る点Pに至るそれである。この問題が訴えることの一つに、当たり前のルールに従っていない者が実は的を射た動きをしている場合があるということである。


 ここまでうだうだ書いてきたが、やはり今後も研修駅員が理不尽にさらされることは免れないと思われる。なぜならば客は、とにかくラクをしたいと思っているからだ。逆にラクをしたくないと思うならば、客は駅員に思いやりや親近感を抱いているはずだ。果たして見ず知らずの自動人形のような駅員に、自分が有機的な人間であると確信している客がそのような感情を抱くだろうか。とことんまでラクをしたいとなると、まず自分のあたまで考えることをやめる。急がば回れとか小谷のアリなど考えるのが面倒この上ないものになる。時間がかかろうがなんだろうが買えるもんは今ここで買いたい、なるだけラクをしたいからさっさとしろ、時間がかかるとか文句言ってんじゃねえぞ、こっちは待ちたくないんだよ、こういう要求を客は駅員にするのだ。しかも笑顔で愛想のある態度まで求める。これは客が自分の心をかき乱されないようにしたいからだ。カネ払ってんのはこっちなんだからさっさやれや! といった具合だろう。まさに本能的である。

「それが成長につながる」、と言う人もいるだろう。しかし、「それが機械になることにつながる」と言い換えてもさほど変わらない現実がありはしまいか。それでも良い、あるいはそれが良いと当人が言うなら私がつべこべ言う権利は消える。ただし少なくとも私自身は機械になりたくない。


 小さな駅で新人駅員として働く人。のみならず小さな商店や飲食屋を経営する人。そういう「強い」人たちに過剰な負荷がかからないようになればいいと思う。

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