第18話 鈴がため息をついても豊水はデロデロに甘えさせてくれないある日の話
制服のまま喫茶店『無聊』に入った南田豊水と田北鈴は足を止めず、歩きながらマスターに『いつもの』と同時に一言だけ言って、一番奥のいつもの場所に座った。
座る前に一度大きなため息をついてから、鈴は座っている。実は歩いている時からずっと、ため息をつき続けているのだ。
豊水以外の友人ならどんな悩みを抱えているのかと心配するかもしれないが、恋人の豊水だけは鈴のため息の理由がくだらない事だと確信している。
鈴が本当に悩んでいる時は、ため息程度ですまないからだ。
「豊水、この世界は一体いつから、こんな世界になったんだろうね……」
「……何を言いたいのか全く分からないから、もうちょっと具体的に言ってもらえるかな」
「何てことなの! 将来を誓い合った恋人、いやもう恋人からレベルアップして愛人になった人が、私の言う事をわかってくれないなんて……、私は悲しい……、とてもとても悲しい……」
「愛人って浮気してるみたいな言い方だよね。……どうせまたしょうもない事だろうから、もったいぶってないで早く言わないと、どんどん言いにくくなるよ」
「そして彼氏に凄くぞんざいにも言われた。私の心は傷つきそう。……まあしょうもない事と言われたらそれで終わりだと思っている、私も居るわけですが」
「どうせ今月は祝日が無いとか、梅雨に入ったけど雨があんまり降ってないのに何で梅雨入りしてるんだとか、その当たりでしょ」
「……マイラバーホースイ、私のことを世界で一番理解している恋人。……ちょう大好き」
「……つまり、当たったんだ」
「おまたせしました、アイスコーヒーとフライドポテトのセットです」
戸西さんは二人分のアイスコーヒーと熱々のフライドポテトを置くと、それだけを言っただけで他には何も言わずに、帰ってしまった。
いつもの様に省略せずに、真面目な声でそう告げて、それだけ言って立ち去ったのだ!
これは大変な事が起こっているかもしれない、詳しく調べる必要がある。
鈴の様子なんかもうどうでもいいと、鈴自身がそう宣言した。
そんな興奮しようとしている彼女に豊水は、もうすぐ就職活動の時期だから、普段からあんな態度をしているんじゃないの? と少しも慌てずにそう言うと、鈴は机に頭を突っ伏した。
「もうちょっとさぁ、話を膨らしてもいいんじゃないかと思うわけですよ、あなたの彼女は」
「戸西さんが居ない所で話すのはダメだから。で、今更だけど何でため息ついてたの?」
「……さっき言ってた、六月には祝日が無いのが正解ですよ、ええ。下らない事だと私を笑えばいいし罵ればいい。……そして傷つけた後に優しい事を言って私をデロデロに甘えさせて、逃げられないようにすればいいのに」
「デロデロとは一体……? 六月に祝日が無いのは産まれる前からでしょ。学校に通うようになって今年十年目だろうに、いまさら何を言ってるんだか」
「それはそうなんだけど、カノカレになってから六月は初めてでしょ。土日以外で朝から遊ぶのはテンション上がらない?」
「今まで祝日では朝から鈴のモーニングコールで起こされてるのはそういう理由だったのか」
「朝から私の声が聞けて嬉しいでしょ?」
「祝日以外では起きれなくて、俺のモーニングコールで起きてるのにね」
「……朝から私の声が聞けて嬉しいでしょ?」
ごまかすように言った鈴の声を、コーヒーを飲みながら聞き流す。
鈴が言った事はその通りなのだが、肯定したらどんな事を言われるか分からない。
鈴が調子に乗り、豊水が我慢できなくなっってしまったら、最悪の事が起こる危険性がある。
だから後三年間は清く正しく付き合わなけてばならない。
それが豊水と鈴の決められた使命なのだ。
「とにかく六月は我慢して、七月の海の日にでも遊びに行こうか」
「……長い、長いよ豊水。だって六月じゃなくて、七月なんだから。……いい、七月という事は、六月じゃ無いんだからね!」
「…………じゃあまた土日にでもプールに行く?」
「普通の休日は人が多すぎるかなぁ。こう、人気はあるんだけど近くには誰も居なくて、何かは言ってるんだけど内容は分からない、つまりイチャイチャしてても文句を言われない、そんな場所に行きたいんだけど」
「……つまり、ここ?」
「……幸せの青い鳥は最初からここにあった。なるほど、つまりはそう言う事……」
「まあ、たまにはいつもと違う時間に来ても良いんじゃないかな?」
「お待たせ、帰ろっか。あと別にいつもと違う時間に来るのはいいけど、休日は今よりもお客さんが来るからね?」
戸西さんが語るには、休みの日にはいつもと別の常連客で賑わっているしい。その常連客には家族連れもいて、いつもよりも繁盛万歳なのだそうな。
実は就職活動をするよりも、この店を継ぐのを狙う方がいいような気がしていると、戸西さんは思っている。
実際にそう言ってみたのだが、個人経営にはまた別の苦労がある、だからちゃんと就職しなさい。そう言われて怒られた。
そんな事を聞きながら、豊水は考える。
鈴と一緒に過ごす時間が多い、そんな仕事は何だろうかと。
「全くあの子は、苦労なんて気の持ちよう一つだろうに」
「若い人にそう言っても分かりませんよ。マスターだって会社を辞めてここを継ぐ時は、これで楽になるって言ってたくせに」
「あの時はまあ、退職金も多めに出たし、もう気軽にできると思ったんだけどねぇ」
「メニューを覚えて作り方を覚えて、見習いが何年続くんだと思いましたよ」
「そりゃあ一人前になるには時間がかかるものだよ」
「最初からこの店を継ぐつもりなら、休みの日になるべく手伝えば良かったんじゃないんですか」
「……それが出来たら苦労はしないさ」
孫に継ぐと言ってくれて、嬉しかったのは否定できない。
しかしやはり社会で揉まれて、酸いも甘いも嚙み分けて、それから改めて考えてほしい。
あっちの子供は酸いばかりだったせいか、孫よりも大人に見える時がある。
自分の歳になった時には、この店を三人で動かしているかもしれない。
……ちょっと考えが過ぎるな。
東戸さんはそう思いながら苦笑しつつ、見る事ができない未来を想像していた。
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