第3話 実はずっと豊水が寝ぼけていたある日の話
制服のまま喫茶店『無聊』に入った田北鈴は足を止めずに注文もせず、一番奥のいつもの場所の、東田豊水の前に腰を下ろした。
今日は鈴が遅刻したわけではない、豊水がいつもよりも早すぎたのだ。
だから鈴は謝らない、それどころか怒ろうとすら思っている。
豊水は鈴が通う高校の三駅先に通ってる。だから一旦電車から降りて待っていてもいいんじゃないか。
そう言おうと思っていたが、豊水の顔を見て止める事にした。
テーブルに肘を立て頬をついて船を漕いでいるのだから。
だから鈴は怒るのを止めにして、デコピンで手を打つ事にしたのだった。
「……痛い。額にデコピンとかされたの、小学校以来だと思う……」
「それは奇遇、実は私も誰かの額にデコピンをするのは小学校以来だと思う。……で、駅で待つような事もせずに、私が来るのを楽しみにもしないで、居眠りしている理由については何か言いたい事があるのでしょうか、弁護士さん?」
「……俺が弁護士役もするんだ。……単純に午後のLHRでクラスマッチの練習があって疲れたんだよ。それで駅で待ってたら眠ってしまうかもしれないから、先にここに来て寝てもいいように待ってたんだ」
「クラスマッチ? まだ四月なのに?」
「ゴールデンウィーク直前にやってクラスの結束を高めて、休みの前に仲良くしてほしいらしい。実際にやるのが早すぎて一年生に不利すぎるとみんなで言って結束している」
「じゃあ既に目的は達成しているんだ。さすがは進学校、無駄が無い。……それにしてもそれくらいで眠たくなるとは、受験で少々体力が落ちてるんじゃございません事?」
「それがな、五時間目が体育だったんだよ。つまり今日は午後全部が体育だったと言っても過言ではない」
「だからと言って私を置いて先に行くなんて信じられない、昔の豊水ならきっと雪が降り積もっていても槍が刺さってもきっと待っててくれたはずなのに!」
「それは違うぞ! ……鈴だって、俺の寝顔を他の人に見せたくはないだろう?」
「豊水……、トゥンク」
「全く心がこもっていないトゥンクだったな、二十五点」
「お待たせしました、コーヒーとポテトのセットになりまーす」
今日は鈴はそのままで、豊水が砂糖とミルクを入れたコーヒーと交換する
鈴なぜ何も入れなかったのか、彼氏である豊水にはその意図はすぐに理解できた。
つまり彼女はこう言いたいのだ。
『さっさと目を覚ませ、デコピン野郎』と。
鈴の顔からそれを読み取り、覚悟を決めてそれを飲む。
そして豊水は知ってしまった、高校生になったらブラックは意外といけるという事を。
「で、豊水はクラマで何をやるの? 団体競技だから……、全員でやるサバイバルゲームとか?」
「面白いかもしれないけど学校に道具が無いだろうな。俺はバスケで、後はダブルスのテニスとソフトボール。全部変哲もない普通の球技だよ」
「何だ。……今気がついたんだけど、私は豊水の彼女なのにその雄姿を見る事が出来ない事では?」
「それはそうだろ、学校が違うんだから。多分鈴はその時間は授業中だろ、平日だから」
「……何てこと、二つに分かれた運命が私達を引き裂くなんて」
「引き裂かれているなら毎日引き裂かれているな、降りる駅も違うし」
「……豊水、今日なんかノリが悪くない?」
「さっきまで居眠りしてたからかな。……すいませーん、お代わりで」
すぐに届けられたコーヒーに、今度は鈴は砂糖とミルクをたっぷりと入れた。
こぼさないようにゆっくりと混ぜて、こぼさないようにゆっくりと豊水に渡す。
受け取った豊水は一口飲むと電撃が走った。
今自分は甘い物こそ欲していたのだ、本能がそれを教えてくれた。
全身に糖分がしみわたり、活力を与え続けている。
おそらくこれは最初にブラックを飲んだせいだろう、最初にブラックを飲んでいなかったらこうはならなかった。
つまり全ては鈴の策略だったのだ、何て素晴らしいパートナーなんだ。
根拠も何も全く無いが豊水はそう確信し、豊水の心の中の心臓がトゥンクと鳴った。
「……どうしたの、いきなり目をつぶったと思ったら急にこっちを見つめて。……さては私に惚れ直したな?」
「ああ、俺は鈴を一生大切にすると思い直した所だ。さしあたっては婚約指輪を買うたに弁護士の人に連絡して遺産から少し下ろそうと思う」
「ちょ、何で急にそんな事を言うかなぁ。そういうのはお互いに働くようになってからって言ったでしょ?」
「確かにそう約束はしていた。だけどみんなに鈴が俺の物だと知らしめる為に、婚約指輪を着けていてほしくなったんだ」
「こいつ、実はお酒でも飲んだんじゃないだろうな……。私が豊水の物なら、豊水は私の物なんだけど?」
「そうに決まっているじゃないか。その覚悟が有るからこそ、パートナーに決めたんだ」
「……どうしよう、この様子が続くなら病院に連れて行った方がいいのかな? とりあえず指輪はいいから、クラスマッチで写真を取ったら送ってね」
「わかった、それで我慢しよう。……動画も有ったら送る」
「今日は何か邪魔に思われてるかもしれないけど、私は気にしないで帰ると言えるからねー」
戸西さんがそう言って三人が姿を消すと、豊水と鈴の話を聞かされた人々だけが残された。
年が近い客はおらず、年が離れている人々は顔がほっこりしている。
自分もあんな年があったなと、脳裏に記憶を思い浮かべて。
「子供って、急に充電が切れたみたいに眠る時があるよね。高校生でもそうなるのかね?」
「まあ、まだ子供ですからね、そういう日もありますよ」
「ちょっと寝たら回復できるんだから、うらやましいねえ」
「マスターも昔はそうだったでしょ」
「そうだったかな」
暇なのでマスターのはずの東戸さんが、テーブル付近を片付ける。
途中でオレンジジュースを頼まれたが、オレンジジュースなら任せられると、それを伝えて食器を洗う。
まだ高校一年生の二人は、いつまでここに通うのかと考えながら。
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