第2話 二人がケンカをしているように見えるある日の話
制服のまま喫茶店『無聊』に入った南田豊水と田北鈴は足を止めず、歩きながらマスターに『いつもの』と同時に一言だけ言って、一番奥のいつもの場所に座った。
向かい合って座ると、豊水は一冊の文庫本をテーブルの中央に置いた。
そして『いつもの』が来るまでの間、人類にとっては短いが二人にとっても短い、今日発売の文庫本をどっちが先に読むのかを決める大会一回戦が、本人にもくだらないとわかっていながら始まった。
「まず、お金を出したのは俺だ。だから順番は俺が決めていい。アンダスタン?」
「それはつまり、今からお金を払えば順番は私が決めれるという事でもある。わかったで御座候?」
「……なるほど、この部分では決まりそうにない。じゃあ次として、この本は十年ぶりの新刊。つまり十年待っていたこの俺こそが順番を決めるのにふさわしいとは思わないか?」
「しかし十年前と言えばまだ豊水は小学校にも通っていない。そんな子供が読める小説なのでしょうか、年から言って読んだのはせいぜい数年前のはず。それよりも豊水から春休みの暇つぶしと教えてもらって瞬く間に全巻読んだ、私こそが決めるのがふさわしいのでは?」
「……なるほど、それぞれに納得できる理由があるのは間違いない。ならばここは、相手を説得した方が勝ちになるという事か。自慢じゃないが、俺は鈴を説得する事についてはちょっとした自信がある」
「いいでしょう。私こそ豊水を説得する事についてはかなりの自身があります。この前の子供が生まれたら何のスポーツをさせるかについては、私の勝ちだったはず」
「最終的に自分のやりたい事をやらせるという教育方針に決まったのは、引き分けだと思ってた」
「お待たせしました、コーヒーとポテトのセットになります」
戸西さんはバイトだが、プロと呼ばれるに相応しい仕事ぶりを周りに見せつける。
高校生が子供がどうとか言っていても、全く動じずいつもの様に運んで来るのだ。
二人は無言でコーヒーに砂糖とクリームを入れ、かき回し、相手に渡す。
そして余人にはわからないがコーヒーを飲みながら、お互いに相手がフライドポテトを口にするのを今か今かと待っている。
しばらくしてようやく、豊水はポテトを取って口にした。
それを見て鈴は勝ったと思ったが、次の行動を見てそうでは無かったと知った。
豊水は、ポテトが届けられた時に一緒に貰ったナプキンで指を拭ったのだ。
「さすがは豊水、文庫本を汚さない為にポテトを食べたら手を拭う。ジツブツヲヨムサーには当然のマナーを既に身に着けているとは……」
「鈴こそ、その事を指摘できるとは。一人前のジツブツヨムヨサーに違いない」
「それはそれとして、どっちが先に読むかのを決める、言ってみれば雌雄を決する必要が有ると言ってもいいでしょう」
「雌雄って漢字通りの意味だと、男と女って意味だけどな」
「つまりそれは、女である私の勝ちだと遠回しに言いたいんだ」
「そう言われたら一生勝てない気がするな」
お互いポテトをつまみつつ毎回手を拭いながらそんな事を言っている内に、どんどん話がそれて行く。
しかし食べ続ければ、いつしか終りの時が来る。
最後の一つを鈴が食べると二人とも手を拭い直し、新しいコーヒーを受け取る。
そしてコーヒーに砂糖を入れ、かき混ぜてから交換する。
そうしてから、今日発売の文庫本をどっちが先に読むのかを決める大会二回戦が始まった。
「やはり私は、ずっと待っていた豊水が先に読むのに相応しいと思うんですよ、ええ」
「いや、鈴は高校生になるまでの間の暇つぶしにせよ、ついこの間まで読んでいた。ならば一気に最新刊まで読むのは鈴が相応しいと思うわけですよ、私としましては、はい」
「だけど帯にも書いてある通り、これは最新刊にして最終巻。逆に聞きましょう、あなたはこれを待つ事ができると言うのか!」
「無論、待てるとも。一人で暮らすマンションで楽しみながら読んでいる鈴の事を思えば、いくらでも待ち続けるとも!」
「私だっていくらでも待てるに決まっている。一人きりで暮らしている豊水を慰める一助になれば、私だって待ち続ける」
「……全く、鈴は頑固者だな。ポニーテールは揺れるのに心は全然揺れないのか」
「……豊水こそ頑固者め。髪質は柔らかいのに心の中は硬いんだから」
「お客さん、あまり大声でケンカしたようでイチャついてるのはしないで下さ~い」
はたから見たらイチャついている二人の言葉の言い合いに、着替えが終わった鈴の隣に住む戸西さんが注意する。
しかし二人は謝りつつも、この戦いは止められない。
二人ともその事を顔だけで語っていた。
戸西さんも読み取れたので、最後まで付き合おうと一から事情を説明された。
簡単に言えば、二人とも好きな本の新刊が一冊しか買えなかったので、お互い相手に先に読めと言い張って、ケンカもどきをしているらしい。
それを聞いた戸西さんはある所へ連絡した後、二人に二つの提案をした。
「まず一つ目は、私がこれを預かります。そしてもう一冊買えた時に渡して、二人同時に読み始める」
「しかしそれでは、早く読めるはずの鈴が待ってしまう事になります」
「そうです、豊水は発売を聞いてからずっと待っていたのに、それ以上待つなんて」
「じゃあもう一つ。私の知り合いにこのシリーズが好きな人がいて、その人は読書用と予備用と布教用の三冊を買ったらしいので、明日私が会って買ってきます。そして帰ったらそれを鈴ちゃんに渡します。だから南田君はこれを持って帰る。それでいいでしょう?」
「……その人にお礼を言っておいてください。あなたのおかげで一つの戦争が終わったのだと」
「……戦争が終わるには第三者が必要だった、それがその人なんですね」
「バカな事言ってないで、ご飯食べに行くよ」
木曜日なので鈴が二人分の代金を払い、三人は後にした。
残ったのは数人のコーヒーを飲んでいる客と、同じくコーヒーを飲みながら本を読んでいるマスターの東戸さん。
最後まで読み終えると、もう一度最初から読み始めた。
「マスター、何でまた読んでるんですか?」
「最後まで読んだ後で、伏線などを考えながらもう一度読む。そういう人もいるのさ」
「それはいいんですけど、コーヒーお代わり来たんでその後にしてくださいね」
「時間を気にしなで本が読めると思って、この店開いたんだけどなぁ」
「仕事をしていたら無理じゃないですか、多分」
「仕方が無いか。ついでに自分の分にも煎れるけど、君はいるかい?」
「私、お菓子が無いと飲めないんですよ」
しょうがないので東戸さんは、コーヒーを入れながら特売で買った自分用のクッキーを取り出した。
今度二人が来た時には、少しだけ感想を言い合ってもいいかもしれない。そう思いながら、あの二人の言い合いの原因となった本を眺める。
豊水の両親が仲良くなるきっかけになった本の、新刊を。
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