第5話 梔子の章2

 屋敷に入ってすぐ、振り払うように梔子の腕を離した次丸は、低い声で、


「余計なことは知られていないだろうな?」


 何度も大きく頷く梔子に、次丸は忌々し気に念を押す。


「お前が人並みの生活を送れるのは、誰のお陰か考えろ。よそ者だからと気を抜くな。絶対に、倉には近づかせるんじゃない。いいな」


 吐き捨てるようにそう言って背を向けた次丸を、震えながら見送った梔子は、のろのろと掃除に取り掛かった。涙目でさする腕には、次丸に掴まれた形に赤い手形が浮かんでいる。乱暴で恐ろしい手だが、その手に救われたのも事実だ。



 梔子の本当の親は、僅かな食料と引き換えに娘を売った。

 別れの時、人買いの男に連れられた梔子を見送りもしなかったのは、罪悪感からか無関心からかは判らない。ただ、日頃から口のきけない娘を持て余していた彼等にとって、一時でも飢えから逃れられるのなら、きっと悪い取引ではなかったのだろう。代価を受け取った彼等の顔には、梔子がそれまで見たことのない満面の笑顔が浮かんでいた。


 人買いの男は若く整った顔をしていたが、梔子の身体をじろじろと眺め、気に食わないことがあれば、平気で平手打ちをするような、歪んだ性根の持ち主だった。


「もう少し色気でもありゃあ、俺が色々教えてやったのによ。まあ、お前のように口がきけない方がありがてえって客は、少なくねえ。身体はそこそこ丈夫らしいし、なるたけ金回りの良い旦那に売ってやるから、せいぜい仕込んで貰うんだな」


 男に脅され、殴られても、梔子は逃げ出さなかった――逃げたところで、あてもないことに違いはない。どこに行こうが、自分の運命は大して変わらないだろう。

 梔子にとって、大人しく流されるのが唯一の生活の知恵に思えた。

 結局、梔子は遊郭みせや旦那ではなく、都に向かう途中に立ち寄った村で買い取られることになった。男と梔子を屋敷に招いた次丸が、何を気に入ったのか梔子を引き取ることを決めたのだ。

 用意された軽い食事を済ませ、男と次丸が話をしている間、次丸の奥方は梔子を寝所に案内した。これまでの疲れで一気に眠気が押し寄せたが、折角の夜具を汚してしまいそうで横になるのを躊躇っていると、それを察した奥方が、


「貴女、とても疲れた顔をしているから、湯浴みは明日にしなさい。夜具なんて、汚れても洗濯すればいいの。勿論、手伝ってくれるでしょう?」


 ほっとして頷き、夜具に潜り込んだ梔子の頭を、奥方は柔らかな手で撫でた。その温かさは、立派な屋敷で暮らすことになった幸運を噛み締める間も無く、梔子を眠りに誘い込んだ。

 翌日、梔子が目を覚ますと、既に外は明るくなっていた。

 こんなにゆっくりと眠ったのは、もしかしたら生まれて初めてなのかもしれない。まだぼんやりとした頭で、見慣れぬ天井を見るともなく眺めていた梔子は、やがて昨夜の出来事を思い出し、慌てて起き上がった。


 ――引き取ってくれた村長様に、お礼をしなければ。奥方様は何処にいるのだろう。


 勝手に抜け出していいのかも判らず、梔子が畳んだ寝具の脇で所在なく座り込んでいると、襖が開けられた。慌てて頭を下げた為に足元しか見えなかったが、その人物が男であることは分かった。屹度、村長様だろうと頭を下げ続けたが、何時まで待っても部屋に入って来る気配が無い。いい加減頭を上げるべきか悩み始めた頃、唐突に問われた。


「家事は出来るか?」


 平伏しながら頷く梔子に、感情を感じさせない声が続けた。


「たえは……妻は、昨夜の内にあの男と出て行ったようだ。今日からは、お前が家のことをやるんだ」


 驚き顔を上げた梔子を、次丸が無表情に見下ろしていた。


 ――あの優し気な奥方が、品の無い人買いの男と出て行った……?


 梔子は俄かには信じられなかったが、次丸の充血した目に睨まれ、慌てて視線を逸らせた。


「俺は、お前を家の娘として買った。今後一切、俺に逆らうことは許さん」


 青い顔で視線を泳がせる梔子に、次丸が告げる。


「お前には大事な役割を与える。農作業などする必要は無い。娘として、俺に従うのがお前の仕事だ。お前を買ったのは、お前が余計な事を喋れない身体だからだ。その意味をよく理解しろ」


 何の感情も伺わせない言葉に、梔子は頷くことも出来ず、ただ、次丸の両手に巻かれた真新しい晒しをぼうっと眺めていた。


 あの温かい手の人は、どうして出て行ってしまったのだろう。人買いの手管に騙されてしまったのだろうか。それとも、この恐ろし気な夫が嫌で逃げ出したのだろうか……どんなに考えても答えなど出る筈が無い。

 どれ位そのままでいたのか、いつの間にか次丸は去っていて、代わりに中年の女が目の前に立っていた。

 数日置きに家事の手伝いに通っているというその女は、梔子に家の中を案内しながらひっきりなしに話していたが、梔子が口が利けず、字も書けないらしいと判ると、つまらなそうに口数を減らした。ただ、「たえさんが男と出て行ったてのは、本当かい?」という問いに梔子が頷くと、「あんな半端者と出てくなんて、よっぽど、癇癪持ちでいばりん坊の男が嫌だったんだねえ」と、心底気の毒そうに呟いた。



 あれから二年経ったが、梔子は未だに次丸のことはよく判らない。

 必要が無ければ、何日も梔子に話し掛けない。気に入らないことがあれば怒鳴り散らすし、時に家具などに当たることもあるが、それとても理不尽という程では無い。梔子の身体に触れる事も無い。それどころか、普段は梔子への関心すら見せない。

 これまでに二、三度、この家に伝わる儀式の手伝いをさせられたが、それ以外は、字を覚えることを禁じられた以外、家事をしていれば何も言われなかった。幸い、梔子は家事は得意な方だ。

 喋れず文字も書けない梔子は、消極的な性格も相まって、未だに村に馴染めずにいる。次丸の性格を知る村人達は、最初は梔子の境遇に同情的だったが、びくびくと人の顔色を窺うだけの娘に次第に興味を失い、今では誰も話しかけなくなっていた。それでも、梔子は逃げ出そうとは思わなかった。

 自分は娘としてではなく道具として買われたのだと正しく理解していたし、事実、そうなのだろう。村の皆も、次丸の添え物としか認識していないに違いない。だが、それに不満は無い。


(道具でいれば、暮らしていける)


 充分な食事にありつけ、夜はゆっくり休める。農作業や重労働は村人がやってくれるし、村長の娘として、それなりの衣服も用意して貰える。身体を売る必要も無い。

 寂しいだの空しいだのといった想いは、屹度、人間だから持つことを許されるのだ。

 道具は、そんなことを感じる必要は無いのだ。

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