第3話 ニワトリ

 学校という空間はあまりにも人を飲み込みすぎている。勉強や運動に励むことを強いて人々に大きな圧をかけ、特に意欲の高い者を伸ばして輝かしい将来へと招待。

 そんな仕組みに対して徐宇はこの前の寒斗が手に乗せていた梅干しの壺を思い出していた。

――蠱毒か

 それはまさに今の学校生活のことを言うのではないだろうか。教育と称して人々を競わせて更には優秀な者に特典を与えること。

 何もかもが劣っている人物はギリギリのところで教師の手による救いが発生するも、基本的に淘汰されているも同然。

 このような事を気付かされたきっかけの寒斗に対して述べることなど何もない。

 言い返す言葉もなければ如何な形で文句を付けようか、はっきりとしてこない。


 教師が黒板に記号を敷き詰めていく。数式や長さ、幾何学模様にしかみえないそれ。教師がなにかを語ったところで殆どが勉強の話だろう。つまるところ徐宇にとってはとても面倒な人物、生きてなどいないに等しいもの。

――はあ、勉強なんかいらねえだろ

 それを語った先に待つのは時間を大量に消費する説教だろう。仮に受けたところで徐宇の姿勢では薬のひとつにもなりはしないことが分かり切っていた。

 退屈な授業をしっかりと受けて、時間の消化を見つめて放課後を待ち続ける。

 早く来て欲しい、それこそが本音。大人が大人らしさを見せない関係は所詮本音ゼロでしかない。相手ばかりが本心を隠しているのはあまりにも癪。

 黙り続けて、食事の時間も誰とも話さないまま過ぎていって。

 次の授業は物理。

 あれは意味不明理解不能の塊。徐宇の手で解き明かすことの出来ることの範囲から大きくズレを見せて。

 やがてそんな授業も幕を下ろして一日の締めくくりの時、教師はようやく勉強以外で用いられる言葉を唱える。

「今日も一日お疲れ様、特にこれから勉強頑張る人、授業だけじゃなくて将来のための勉強を頑張る人は無理しすぎないように」

 教師としてはやはり勉強に懸命になれる人物が好きなのだろう。

 教師は一度チョークを振り、黒板に文字を綴り始める。これから何を書こうといったことか。

 黄色の文字で大きく書かれた文字、夢。

「夢を持つことは大事だ、あれが無ければ動けないからな」

 そうして自分の手に挟まっているチョークを更に動かして特に関係の無い曲線を描いていく。

「私にも夢はある、この場で語るものではないものの」

 そんな言葉に強い反応を示す者がいた。いやらしいだの大人だのと茶化す生徒たち、彼らの考えを徐宇は頭の中で思い描きただただ目を細めるばかりだった。

「徐宇は夢も希望もないみたいだな……勿体ない」

 そう言われたところで無いものは無いのだから返す言葉も思いつかない。

 そもそも魔法のある日常、幻想として鼻で笑われてしまうような現実と共に過ごしているのだ、それを考えるだけで心なしか負担が重たく感じられる。

「みんなも毎日を大切に過ごすように、以上」

 突然教師から放たれた言葉は生徒たちからすれば異常。日頃から日常会話を挟む人物ならばともかく、先程まで目の前で話していたのはただ毎日授業をこなすだけの人物。生徒にものを教えることをただの作業だと認識している者の目をした人物。

 それが教室を去って行く。歩いて行く姿は一瞬だけぼやけて見えた。

 その気配は徐宇の目に、意識にしっかりと届いた。あの気配は恐らく魔法だろう。つまるところ、日頃の顔の裏に隠した顔を、非日常を歩む姿があるのだということ。

――先輩に後で訊いてみるか

 それだけしか思えることが無い。もしかすると寒斗なら知っているかも知れない、彼の知り合いである可能性も充分あった。

 教室を抜けて歩き出す。幼い己、高校生にもなって中学生のような思考を頭の中で巡らせている。魔法のことなど話してしまえばこの場所のほぼ全員が鼻で笑うことだろう。マンガの読み過ぎだと見下されるのはほぼ確実だった。

 そんなことで一人で想いを抱えながら部室のドアを開いた。

 そこに寒斗の姿は無く。

 単純に授業が終わっていないのだろうか。いつもなら待ってましたと言わんばかりに徐宇に対してどうでも良い大切なものを見せつけてくるはず。

 それがないだけでどこか寂しく覚えてしまう。

 顧問の先生も呆れて訪れないこの部屋で繰り広げられるとりとめの無い会話がどれだけ支えになっていたのか、戦いの一夜を通した上で偶然今日彼が訪れるのが遅かったというだけで実感させられる。

「先輩」

 ついつい呟いてしまう。

 不自然なまでに人々から避けられてしまう、無意識の内に出ていた魔力だか雰囲気がよくないのだろうか。

「……先輩」

「呼んだかな」

 背中を声が貫いていく。今にも飛び跳ねてしまいそうな衝撃が全身を走った。

「お待たせ」

 振り向いたその時、更なる衝撃を目の当たりにした。

 立っている人物、先輩の寒斗は両手で優しく包むように卵を乗せていて、肩や頭にニワトリを居座らせていた。

「いやいやいや何やってるんですか」

 寒斗はただ薄らとした笑い声を上げながら答える。

「とれたて新鮮たまご」

「どこから連れてきたんですかそんなの」

 疑問という皮を被った指摘をぶつけられても尚、寒斗の笑顔が緩むことはない。

「眷属だよ」

「そういうことじゃなくてですね」

 どのような言葉をぶつけてみても調子はそのまま、彼の中に息づく本性のままに操られる言葉たち。

「たまごかけごはんが良いかな」

「せめてニワトリだけでも返してきて下さい」

「土にでも」

 物騒な言葉をちらつかせるその時でさえ笑顔を崩さない。間違いなく一から十まで悪ふざけだ。分かっているからこそ彼といつ真剣に言葉を交わし合えるのか、この前の戦いの報告が出来るのか。その時がより待ち遠しく感じられてしまう。

「じゃ、今から美女先輩のとこに返しに行ってくるからジャック探索の経過の報告をまとめておいて」

 それだけの言葉を残して出て行ってしまう。そんなやり取りに引き摺られてこの場に敷かれたものは深く広い静寂。

 大きなため息をついて椅子に腰掛けノートを広げてペンを構える。

「この前のか」

 医者が正真正銘の犯人。如何に頭が良かったとしても抑えられない衝動もあったものだろうか。徐宇には理解の及ばないおぞましさ、驚異すべき脅威、だれもが異常を、日常と異なるものだと理解して起こしてはならない出来事。

 そんな眠りの浅かった罪の獣を起こしてしまったきっかけはどのようなものなのだろうか。

「あの医者って結局捕まったんだろうかな」

 分からない、結局警察に通報すべきか、それとも魔法使いたちが勝手に見付けてくれるだろうか。分からないまま立ち去ってしまったのだから。

 今朝の病院、戦場の様子を見る限りあの男がいち早く目を覚ましでもしていない限りは見付けられて捕らえられていることだろう。あの男が戦いの後の心地よい眠りに浸り続けていたらいいのに、そうありますように、そんな願いを込めながら報告書を綴っていた。

 そんな作業に浸っている内に寒斗はどのようなやり取りを行っていたのだろう。帰ってきた彼の顔からは生気が抜けていた。

「どうしたんですか抜け殻先輩」

 抜け殻はたまごをうなだれたままたまごを机に置いて壁に頭を付いてそのまま固まってしまった。

――何があったんだよ

 分からない、話しかけづらい。しかしながら話を繋いで引き出してみないことには表情の理由もつかめない。

「失恋ですか」

 当たりであれば彼の心を傷だらけにしてしまう程の威力を持った鞭となるだろう。そんな茨の鞭の材料を軽々と振るってしまっていたものの、寒斗の表情に変化はみられない。

「何があったんですか」

「……だったんだ」

「えっ」

 訊ね返す。あまりにも小さな声はもはや語ることすら放棄しているように思えてしまう。

 寒斗の背中を見つめる。顔は見えなくても貌が見えてしまうのだから不思議で仕方がなかった。

「男だった」

 つまり、男女で変わりの無い服を纏っていた彼らの中に一目では判断できない顔の持ち主がいたのだというだけの話だろう。

「髪を上げたら生え際と額で大抵分かるんだ」

 寧ろそれ以外で分からなかったのだろうか。

「卑怯だよな可愛い声しやがって」

「勝手に騙された話ですよね」

 そう、あくまでもスケベ心が暴れた結果、一人の中で勝手に巻き起こった単純な悲劇だったのだ。

「ニワトリ、捌いて来ようかな」

「やめて下さい」

 行き場の無い悲しみを関係の無い生き物にぶつけるなど許されない。八つ当たりが村八分の原因になることなど充分にありえるものだ。

「まあいいや」

 そんな一言で立ち直る姿に感心を覚えながら徐宇は昨日の出来事の報告を始めた。

「結局あの事件たちの犯人、ジャックは医者でした」

「医療用メスなんてわざわざこしらえるの面倒だしそれにしては犯行の模倣も中途半端だったからね」

 真似すら出来ないものかと告げていたものの、実際に詳細をなぞるような人物がいては困るものだろう。

 寒斗は今回の事件には手を出していない方のジャックについて語るべく口を動かし始めた。

「歴史上のジャックはどうやら捜査と解剖などの手順の食い違いで生まれた幻って説があるみたいだ」

「そうなのですか」

 そもそも都市伝説や教科書の外側に書かれた歴史をよく知らない。それどころか今刻まれて世間に公表されている当たり前すら把握していない徐宇にとっては今放り込まれている情報の全てが初耳だった。

「結構雑な仕事だったんだろう、或いは知っているみんなが皮肉で広げたうわさなのか」

 あまりにも無能過ぎて見えている世界が違うのでは無いだろうか、手順を守らないのはさぞ出来がいいためだ。そんな言葉を飾りながら伏せた真実を見て笑う人々、そういった類いの人々が広げたものなのかも知れない、寒斗はそう結論づけたのだった。

「俺たちには無縁の世界だよ、人に撒く悪しき性格の塩なんて無い無塩さ」

「最後のことが言いたかっただけですか」

 そんなお年頃なのだろう。温かな目で見守るだけ、そっとしておこう。そう決意を固めた。

 ジャックに対する興味など過去の物となってしまったのだろうか。

 やがて話は異なる方向へ、しかしながら方向性はそのままに、直進を始めた。

「ところでさ、錬金術って知ってるかな」

「マンガとかの話ですか」

 そんな問いで返してしまう徐宇はありとあらゆる事に興味を示さない人生を歩んできたことだろう。寒斗は微笑みながら平気で会話の直線を曲げてみた。

「歴史上存在したんだけどね」

「ええ、あれがですか、色々な物を組み合わせて全然違うものを作るあれ」

「そうだよ」

 徐宇の反応への楽しみ方はどこか物を得意げに教える兄弟のよう。

「彼らは金を作っていた、生成物の正体は多分ただの合金とかだろうけど」

「一応いたんですね」

 つまるところ夢を被せながら単純に化学をしていた集団、といったところだろうか。寒斗は更なる説明を重ねて重みを加えていく。

「彼らの活躍のおかげで様々な化合物や実験器具が生まれたんだ」

「例えばどんなものですか」

 徐宇の質問にそのまま答えることなどしない。寒斗自身の言葉の繰り方がここで示された。

「理科室に行って蒸留だとか物質の化合の実験を行ってごらん」

 つまるところ、今の化学において彼らの残した夢の跡は大いに役に立っているのだと言うことだった。

「ところでどうしてそんな話を」

 徐宇から差し出された疑問を見つめ、寒斗は笑みを強めた。

「よく訊いてくれたね」

 どうやら目的地点はそこ、今立っている状況のようだった。

「いいかな、この学校でのうわさ話があるんだ」

 うわさとは。徐宇は首を傾げるものの、寒斗には変化が見えているのかいないのか。話を繋ぎ捧げ始めた。

「科学部の活動の話」

 穏やかな言葉の流れはこれから不穏な話が流れてくる予感とは対照的でありながらも予感を強く示していく。不自然なまでに色濃く深く刻み込んでいく。

「放課後に化学実験をやりました。単純な実験、その時は凄く楽しかったんだってさ」

 部活という時間に身を置いてまで科学の世界に手を放り込む。そんな集団なのだから科学が好きなことは当然にも思えた。

「それからしっかりと片付けて、活動のことを楽しく振り返りながら帰りました」

「わざわざしっかり片付けたって言うってことは」

「そう、でも分かっていてもしっかりと聞いて欲しかったな」

 科学に限らず使った道具はしっかりと片付けることなど常識の範囲内。それすら出来ないなら初めからやるなと叱られてもおかしくは無い。

「で、次の朝のこと。バケガクじゃなくてシナの方の科学の部活だからだろう、朝顔の観察の為に理科室を訪れた」

 オチは読めている。如何に世間を知らないということに長けている徐宇であれどもこの流れを読むことが出来ないほどの鈍さを持っているわけではなかった。

「そしたら机の上にあったんだ、確実に片付けたはずの実験器具が」

 教室に最後に訪れたはずの科学部の落ち度、そう考えるのが最も手早い理解の手段だったものの、歴史研究部と名を掲げただけのオカルト部、それも本物の魔法使いたちが所属する部がそのような結末で終わらせることはなかった。

「つまり、夜中に実験してる人がいる」

「そう」

 現実離れした話。夜中の校舎に残る人物など精々教師と事務員。彼らがそのような常識外れな事を行うものだろうか。もしもいるのなら実験の次の授業では睡眠不足を極めたことだろう。

「それが毎日のように続いているんだってさ」

「警察呼んだ方がいいんじゃないんですか」

 究極の意見。確かに結論を呼び寄せるためにはうってつけの手段だろう。相手にしてくれるならば。

「事件性が確認できないからなあ」

 そう、たかだか学校の備品が毎日出ているだけのこと。それだけで動いてくれるのならばストーカー被害や近隣住民への嫌がらせは格段に減っていることだろう。

「警察なんかアテに出来ないからさ、この現象の謎はこちらで解決しようってわけだ」

 若気の至りもここまでくれば立派と言うべきかそれとも愚かの深みに嵌まってしまったというべきか。

「きっと不審者がしっかりと現れるだろうね」

 寒斗の表情は飛び跳ねるウサギを思わせる満足感に充ちていて、彼の内に咲いた花は彩りを構えているようで。

「でも俺には戦う力は無いから」

「この前と同じパターンじゃないですか」

 途端に乾いた笑顔。寒斗に与えられた力はそれ程までに無力なのだろうか。

「とにかく頼んだよ」

 はいはい、そんな返事を最後に徐宇は部屋を後にする。これからの行動の難易度に思わずため息をついてしまう。学校から出ないように、かつ学校関係者に見付からないようにその場にいなければならない。

 徐宇の大きなため息は当然のように寒斗にまで届いていた。

「すまないけど、目的のためだよ」

 ぽつりと呟く。彼に聞き取られないようにこそりと呟いた言葉の裏に彼の知る事を記憶として流していく。

 学校での実験器具の片付け忘れは意図的な物だった。徐宇を戦いの舞台に立たせてある目的を果たすための単純なきっかけ。

「果たしてジョーの復活は果たせるだろうか」

 それは計画を遂行する側の力量と努力次第、ただそれだけのことでしかなかった。

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