第4話 教師

 身を隠し、特に何も無い廊下の虚しさに身を預けてみる。壁に背をついて、窓の向こうを眺める。事務員の男はここまで来るものだろうか。もしも見付かってしまえば全ての苦労が水の泡、などとは言わないものの、これまでかけてきた時間が台無しになってしまう。

 これからどのように動くことが正しいのか、このまま静寂を貫き続けることが正しいことなのだろうか、全く以て予想もつかせない。

 静寂が流れること一秒二秒、心臓の鼓動は早まっていく。

 黙り続けること一分二分、何故だか疲れが顔を覗かせてきた。

 そこから耐えきれない眠気に襲われ、逆らうこと叶わず。

 ふらつく身体は自然と壁に背を預ける形を取り、滑り落ちるようにしゃがみ込む。

 それから欲に身を任せるように意識を内側へと落としてしまった。

 その瞬間のこと、視界の表面に怪しい人の影が蠢く様を何も考えずに見届けていた。



  ☆



 気が付いたその時、いつの間にか開かれた目に飛び込んでくる光景は日頃目にするものよりも随分と深くて暗い闇の中。学校という施設の中で迎える夜というものがここまで恐ろしいのだと思い知らされた瞬間が今ここにはあった。

――調査開始でいいか

 事務員の老いた男はいなくなっただろうか。時計が無い、時間が分からない。ここに立っているだけでは確かめようも無い。

 素早く移動を開始して教室の後ろの窓を覗き込もうとする。

 しかしながら視界を狭める闇、世界を覆う黒は時間の確認すら許してくれなかった。

 視界といえば意識を失う直前のことを思い出していた。

確か誰かがいたはず。それとも自分の影だっただろうか。それすら判断もつかない眠気の過去はあまりにも見苦しい。

――敵がいたのかも知れないのに寝てたのか俺は

 考えることを放棄して進み続ける。

 これからどのように動くべきかそれすら自分の判断で行わなければならない、自分の思考力などたかが知れている。

――理科室へ

 向かうしかない、もはや警戒など必要も無い。

 足を進めていく。向かう先など既に決まり切っている。

 能の無い者は、化け物の如き人物であるならば、ただ行動あるのみ。

――俺は男だやれる

 心に鞭を打ってひたすら言い聞かせる。

――何が待ってるか知らねえけど

 確実に進め行く一歩、その積み重ね。

――戦いあるのみだ

 歩みは走りへと変わり果て、それからはあっという間。階段を上って左側。何故だか三階に設置された理科室を目にしていた。歩くことすら無く目に入る光景、向こう側からは液体を注ぐ音が響いて耳を撫でる。

――うわさ話は本当だった

 気が付いてしまった。ようやく分かってしまった。人通りが一切無いと言うことはそういった時間なのだ。

「よし、行ってやる」

 つい声に出してしまう。

 すぐさまドアに手をかけて、開いて入り込む。

 彼の目に入るものは実験を続ける何者か。電灯がその人物の姿をしっかりと映し出す。

 白衣はしっかりと光を反射して存在を主張している。そんな光の差し込みがメガネの存在をより強く語っていて。立っている人物は徐宇にとっては何度でも顔を合わせたことのある人物だと気が付くまでに数秒の沈黙を費やした。

「理科の先生か」

「おや、どうして今ここにいるのだ」

 あまりにも身近な人物が相手なのだと知って寧ろ安心を得る。

「なんだ、好きで実験してるだけじゃ無いですか」

 きっと教員になっても尚、専攻する学問で遊ばずにはいられなかったのだろう。つまりは少年のまま大人になってしまったが故の事態。

「ちゃんと片さなきゃダメじゃないですか」

 うわさとして広がると言うことは実験が終わっても尚器具が机の上にあったということ。彼には出したものを片付けるという考えがないのだろうか。

「科学部のみなさんが怖がってました」

 そう、それがなければ今ここに徐宇が立っているはずもない。教師へと言葉を流してみるものの答えてくれない。

「理系なので日本語失いましたとか言うのやめてくださいね」

 それから一切間を置かずに起きた出来事だった。

 何かが飛び込んで来る。

 明るみの中でも姿の見えない影の如き何者か、それが金属バットを手にして襲いかかってくるのだ。

「なんだよ」

 徐宇の拳に魔力が巡る。

 すかさず放った一撃はバットとぶつかり合い影をのけぞらせる事に成功した。

 影の手を離れて飛んでいくバットになど目もくれずに理科の教師は言葉を操り始めた。

「なるほど、まるで魔法とは呼べないな」

 彼にとっての魔法とはどのようなものなのだろう。

「先生も魔法使いか」

「もではない、貴様は魔法を使っていないのだからな」

 言葉はただただ胸を突き刺す。必要なのか分からない衝撃はあまりにも鋭くて徐宇にとっては言葉の意味すら驚きを含んでいた。

「私には使命がある、徐宇よ、魔法を使え」

 そう告げてフラスコを床に叩き付ける。

 ガラスは砕けて破片は散って撒かれた液体は渦を巻きながら煙へと姿を変えていった。

「先程のものでは防ぎ切れまい」

 煙は細く長く蛇のような形を持って襲いかかってくる。それをどのように防げというのだろう。

 徐宇は先程と同じように拳を振るう。しかしながら拳は煙を掴む感覚を得ることすら許してくれない。

「魔法を使え、魔法をな」

 理科の教師が語ることは全く以て理解出来ない。

「何が言いたいんだよ、これは魔法じゃ無いのか」

 知り合いというラベルは剥がれ落ちた、もはやこの世界の中では知らぬ仲であるも同然。今では敵対すらしていた。

 教師はメガネ越しの目で何を語るのだろう。メガネに阻まれているのだろうか、光が全く宿らない目を向けて口を開く。

「貴様が使っているものは魔法ではない」

 またしても徐宇の攻撃を否定している。煙は教師の言葉を待つことなど出来ないのだろう。再び徐宇に向かって勢いよく飛びついて来る。

「魔法の材料をぶつけているに過ぎない」

「分かるように言え」

 拳を振ってみせても同じ事。先程たどり着いた結末を繰り返し、煙に足を払われ転倒した。

「貴様が使っているものは魔法ではない、魔力だ」

 物理的な痛みと共に言葉の鞭に打たれる。内外両方から迫ってくる痛みに悲鳴すら上げられないでいた。

 つまるところ彼が求めているものは化学に例えるなら化合物なのだろう。徐宇が扱っているものは混合物か或いは化合の材料を気化して放っているだけのこと。

「所詮は偉大なる遺伝子を引き継いだだけの失敗作か」

 教師は更なる不明を吐き付ける。意味不明の塊、所詮は凝り固まった大人の戯れ言。そう捉えるだけで精一杯だった。

「ならばもういい、死ぬがいい」

 更なる追撃が訪れようとした時、徐宇の脳裏では魔法というものについての思考が繰り広げられていた。

――先輩の剣で作るあれは魔法、化学みたいな錬金とかも魔法

 魔法とは何かを作り上げることなのだろうか。それ以外は魔法ではないのだろうか。

――ジャックは魔法を使っていない、それだけは分かる

 恐らく戦闘に向いた魔法を所持していないのだろう。きっとそう。

――手がかり少ない……いやもうひとつ

 確かなことではないものの、ある日の登校時に体験したあれも魔法なのではないだろうか。

――作る以外の魔法だな

 そう、作ること以外にもあった、妨害を引き起こすこともまた、魔法のひとつだ。

「俺のことなめるなよ」

 叫び散らしつつ意識は思考へ。魔力を練り、イメージをかためる。魔法とはどのようなものなのだろうか。やはり徐宇には作ることしか思い当たらず従うのみのことだった。

――作る作る作る作る

 魔力はやがて外で渦巻くエネルギーの塊へと変換されていく。

「いくぞ」

 途端に魔法は発現した。

「これが俺の魔法だ」

 発言と共に魔力は得体の知れない黒々とした塊を呼び起こし、煙へと向かって降り注ぐ。

 巻き込まれた教師の白衣は溶けたかのように消え去っていった。

「実験の制服が」

 そうして魔法は収まり辺りには静寂が撒かれて。

 徐宇の攻撃はこれだけでは無かった。

 魔法が暴れている間にも魔力を練っていた。更なる魔法を顕現させる権限を開いてみせる。

「俺に喧嘩を売ったんだ、魔法の力の喪失で買ってやるよ」

 そう告げて放った魔法は形など持たない。しかしながら教師は、徐宇の魔法の受け手は理解していた。己の内側から何かが失われていく感覚を。

 一つ一つが爪や牙で削り取られていくように剥がされていく感覚に心地の悪さを、魂から離れた何かを埋めるように訪れた喪失感を。人の心が感じることの出来るものなど限られていた。

「これが俺の魔法、破壊の創造だ」

 それはつまり、創造魔法に他ならない。徐宇の持つ力はどう足掻いても遺伝子の取る姿に従って動くのみのこと。

 理科の教師は疲れ果てた表情を見せながら乾いた笑いと共に汗を垂れ流す。本来持っていた力を喪った彼はこれからその状況とどのように付き合っていくのだろう。

 出来たはずのことが突然出来なくなった人物を見たことがない徐宇には想像もつかない。

「それでいい、それこそが創造魔法の真の力」

 理科の教師は両手を挙げて膝をつく。

「ああ、もうすぐだ、もうすぐ偉大なる魔法使いのジョーがおいでなさる」

 徐宇の耳には自分の名を告げられているようにしか聞こえない。しかしながら別の人物がいるのだということ。

「ジョー様に最大の敬意を捧げよう」

「それはまだ後に回してくれないかな」

 聞き覚えのある声に徐宇は思わず振り返る。

 そこにいる人物は光り輝く剣を握り締めて立っている。

 見間違えようもない、徐宇にとって最も大切と言っても過言ではない人物だった。

「先輩」

「やあ、様子見に来てしまったよ」

 述べながら、ただただ跪いて祈る教師へと軽蔑の視線を向けてみせた。

「無様だよな、見えない程の過去に取り憑かれて」

 そんな言葉は耳に入っていないのだろうか。教師は未だに何者かを讃える言葉を繰り返していた。

「ジョーさま、ジョーさま、ああ、あなた様が再び踏むべき場所はこちらでございます」

「おい聞け」

 寒斗はそのまま剣を振り下ろし、机を叩くように斬り付ける。

 そこに残る鋭い跡を目にして徐宇は思わず目を見開いた。

「作ることしか出来ないんじゃ」

「内緒」

 語ることすら持ち合わせていないのだろうか。彼の中にも不明でも在るのだろうか。

 突然のこと、大地は揺れて空間は違和感を孕んだ。状況が分からないままに見回す徐宇に向けて寒斗は淡々と告げる。

「計画は最終段階に進んでしまったみたいだ」

 進めたくなかったのだろうか、寒斗は徐宇の内側に言葉を散りばめていく。

「俺は知らなかったんだ、こんなに段階が少ない計画だったなんて」

 つまりやはり、といったところだろう。徐宇は彼のことを信じていいのだと判断を下す。

「この計画がここまで到達する前にふたりで逃げようと思ってたんだけどな」

「貴様、裏切り者だったか」

 メガネの輝きは目をくらまして目の色すら見通すことを許さない。

「所詮はデザイナーベビーのホムンクルスだろう」

「な、なんだよ……それ」

 徐宇は目を丸くする。驚きはどこまでも深く息苦しさを産み落とす。それ程までに言葉の響きが悪かった。

 寒斗は化学の教師を鋭い視線で射貫いて剣を構える。

「遺伝子操作と人工的に生成した命、医者と化学に精通する人が必要ってわけだ」

「偉大なる魔法使い、我々の祖先たるジョー様の器に、生前の肉体に合わせた存在だ」

 徐宇には分からなかった。たかだか偉人を呼び出すという行為、そこに込められた感情を読むことなど叶わなくて。

「で、貴様に人斬りなどできるものかな」

「創造しかできないね」

 寒斗は勢いよく剣を振り下ろす。

 再び机が引き裂ける様をしっかりと見届けた徐宇が訊ねる。

「どう見ても攻撃してませんか」

「うん、やってるね」

 もはや偽りの使い手なのだろうか。徐宇の疑いの目に解決の光を無理やり差し込んだ。

「斬撃の創造」

「そんなのありかよ」

「とはいえこの程度。徐宇ならもっと魔法とか破壊そのものの創造が出来るだろうね」

 これから行われる実験に目を輝かせる化学者気質の塊に一瞬だけ奇異の目を向けてそのまま立ち去るふたり。

「屋上にいるかもな、あれは」

「逃げるんじゃなかったんですか」

 寒斗は諦観を得ていた。諦めも同時に得ていた。その証のため息がこぼれ落ちる。

「最終まで来てしまったらアイツもいるだろうし」

 誰だろう。分からない。

 それが徐宇に出すことの許された唯一の答え。

「だめなんだ、このまま逃げたところで」

 続きは語られない。語るまでもなく分かり切っていた。

「敵の姿は見覚えあるだろうけど、心は別と思って」

 寒斗の言うことが分からない。ただ導かれるままに進み続け、目に見えない暗さを誇る階段を上って。

 やがて普段は閉鎖されているはずの屋上のドアを開く。

「来るよ、身近な敵が」

 屋上を充たすのはミントグリーンの輝き、それはどう足掻いてもそんな色にしか映らず非現実を必死に訴えているよう。

「ここまで来たのか」

 聞き覚えのある声に目を見開き、出会うときの顔を述べる。

「数学教師」

 あまりにも知った仲。授業で世話になる程度とは言えどもそれは確かにいつものように合わせた顔。

「残念ながら徐宇にはここで引導を渡すべきか」

 そんな言葉に寒斗が言葉を重ねる。

「で、次の被検体を用意するんだね」

「当たり前だろう」

 それはもはや徐宇の命を道具程度にしか考えていない。

「生意気な目をしているな」

 教師は小さな板を取り出し、チョークケースを開いた。

「いつからそんな情を抱いている、寒斗」

 チョークで板に文字を刻む。ミントグリーンの幾何学模様はそんな一挙一動までを見通す為の明かりを意図せず果たしていた。

「行くぞ」

 寒斗は駆け出した。

 足を動かす速度は目では追えないほど。徐宇はすぐさま剣を届けてみせる寒斗が立っている、そんな景色を思い浮かべていた。

 しかし現実は如何なるものだろう。

 走っても走っても距離は縮まらない。寒斗も何故だかそれに気が付かない様子。

 教師は板に書かれている文字を向ける。

 そこに書かれた数字や記号の羅列は数学の授業で見ているものと見分けがつかない。

「魔法のために扱う文字は様々、独特な文法を取るものもあるだろう」

 彼の言葉は全くの通り。今もなお輝きを放っている魔法の陣、それを構成する文字列は明らかに異国の文字。

「数式さえも使いこなせるならば魔法たり得るということだ」

 明らかに異質だった。

 幻想から大きくかけ離れた分野を魔法に用いているのだという。

「考えていることは分かるがそうではない」

 徐宇の足りない頭ではつかみ取ることの出来ない謎、その答えは否応なしに理解できる形で差し出された。

「昔から666は悪魔の数字だの13は呪われた数字だの三分の一に三をかけても厳密には一に至らないから悪魔の数字などと言われている、この程度の現象、今更だろう」

 それから逆らうことが出来ない道筋に従っていく。教師は寒斗の方へと歩み寄り、腕を掴んで勢いよく放り投げる。

 人の力でそこまで人を飛ばせるものだろうか。

 フェンスを飛び越えて彼の身体は暗闇の方へと落ちていった。

 それを一瞥すら挟むこと無く確信を持って終了としたのだろう。

 教師はゆっくりと徐宇の方へと歩み寄ってきた。

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