第29話 風邪

 待っててほしいと言われて、区切りをつけたはずの気持ちが揺れた。それでも勇太にぶつけた気持ちも変わらない…お父様の下で働いてる勇太に私を守ることは無理だと…。

 ホテルからの帰り道、降り出した雨にも気づかずぼんやり歩いていると、追いかけてきた岩名さんが傘を差し掛けてくれた。

「大丈夫か?青い顔して出ていったから心配してたら、前を濡れながら歩いてるから驚いたよ」

「すみません」

「謝ることじゃないだろ、帰ったら温めないと風邪引くぞ」

 マンションに戻って、濡れた服を着替えると思いの外、体が冷えていた。あわててお風呂に入ったけれど、疲れと冷えは拭えなかった。

 

 あの日から特に連絡もなく2日が過ぎた。気にはなっても、それ以外の仕事が多くて、3人とも話題にする暇がなかった、と言うよりあえて話題にしなかった。雨の日以来、なんとなくおかしい体調が喉や咳に出てきて、やばいなと思うタイミングで真木さんに見つかった。

「今日はこれで帰りなさい、治るまで休んでいいから」

「でも…」

「お客様に移してもいけないし、お客様の前で倒れるわけにもいかないでしょ?いつも私が子供のことで急に休んで、いろいろ迷惑かけてるから、こんなときぐらい甘えて、ゆっくり休んで」

 真木さんの言葉に甘えて、ホテルを出ると、コンビニでゼリーと飲み物を買って、何とかマンションの近くまでたどり着いた。熱のせいなのか関節が痛んでゆっくりしか歩けない。ふらふらの足取りであと少しと思った時、コール音に気づいた。…今までなら、きっとでていなかった…でも、弱った体と心が、勇太の声を求めた。

「もしもし?莉緒?」

「…うん」

 出ると思っていなかったのか、驚いた勇太の声は、やっぱり心地よくて…

「今、家?ホテルに電話したら、早退したって…」

「…うん」

「大丈夫?もうすぐ着くから、待ってて」

 うんと言いかけて、やっと働いた自制心が言葉を止めた。

「平気…ほら接客業だから移してもいけないし、用心のためだから…大丈夫…ありがとう…ゆた」

 確かに聞こえた最後の言葉が信じられなくて、続きを聞こうとあてたスマホからは何の音もしなくなっていた。神原様でも勇太でもなく…ゆた…それは昔、莉緒が甘える時にだけ、俺のことをそう呼んでいた。かたくなに俺を避けていた莉緒が電話に出たことも、特別な呼び方で呼んだことも無意識なら…莉緒の体調は限界だと思うしかなかった。前に二人で話した帰り、危ないからと無理に送った莉緒のマンション、その近くに車を停めて走ると誰かが莉緒に罵声を浴びせていた。


 勇太の電話を切って、マンションに着くと黒塗りの車から男性が降りてきた。 ぼんやりとした意識の中で目の前に現れた勇太のお父さんがいきなり声を荒げて叫んだ。

「私が言ったことを忘れたのか!」

「…いえ、そんなことは」

「じゃあ、何故勇太のそばにいる!!」

「…それは…偶然…」

「あれほど、私が言ったのに、理解もできないとは…」

「………」

「不釣り合い!と言ったはずだ」

「…わかって…います…」

 責められている…頭の何処かで冷静にこの状況を観ているのは、きっと熱のせい。

「急に結婚をやめると言い出して、おかしいと思ったんだ」

「……」

「お嬢さんと君じゃ比べる価値もない」

「……」

 黙ってる私に腹を立てたのか、両腕をつかまれた。

「聞いているのか!」

「…はい」

「身の程を知れ」

 言い放ったと同時に掴んでいた腕が離されて、その瞬間体の力が抜けた。ぐらついた体が倒れる…そう思った時、薄れていく意識のどこかで痛みを覚悟したのに、温かいものに包まれて、気を失った。







 

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