第21話 茨
大気を震わせた轟音。
夜空に浮かぶのは月光を背にした異形の怪物。
その姿から連想されるのは植物。足から生えた巨大な蔦は巨木の幹のように太く、感じたこともないほどの禍々しい気配を纏っている。
「夢喰――」
その名はそう、俺たちがシュヴァリエ領に来る間に話していたとある植物の名前。
人を餌にするという自ら動く植物。
情報によれば大きな花ということだったはずだが、今しがた『夢喰』を名乗ったそれは想像していた花とはかけ離れた姿だった。
人の体にスラリと伸びた手。下半身からは信じられないほど巨大な蔦が生えているがそこから上は人の形を保っている。
細身の体がよく映える糊のある黒い衣装に、夜の闇の中では一層の白さを増す手袋。首元からは黒いネクタイとその下から見える白いシャツ。
普通ならば目を奪われるほど美麗な衣装に身を包んだそれは仰々しく下げた頭部を上げる。
花だ。
花が咲いている。
中心部は黄色く、花弁は橙色。凡そ人間には――いや、動物には見られるはずの目や鼻、口などの部位は見当たらない。
ただ、一輪の花が頭部の役割を果たしているのだ。
「これはこれは……私は幸運のようですね」
夢喰と名乗った怪物は俺、セシル、そしてレオンへと顔を向けると微笑んだ――ように感じられた。
「お兄ちゃんの他にも覚醒者が見られるとは。 本当に、良い餌を手に入れたものですね」
そう言って自分の顎――にあたるのであろう花弁に手を添える。
一挙手一投足が目を離せない。
その場を支配していたのは間違いなく夢喰だ。呼吸の仕方を忘れたかのように息が苦しい。喘ぐようにしてようやく肺を動かすと、途端に汗が溢れ出す。
肩に乗る重圧を誤魔化すように俺は声を上げる。
「な、なんだよ……お前!」
「――おや、自己紹介は済ませたはずですが」
務めて冷静に夢喰は言う。
舌を打ち、俺は一瞬だけ夢喰から視線を外し二人の様子と、ジュリアの方を見る。
二人とも夢喰を見上げ、動きを止めていた。一方、ジュリアは姿が見えない。
確か屋敷の壁が崩落する直前、ジュリアは窓辺に近づいた。あれは恐らくコイツが近くまで来ていたことを察知したジュリアが何かをしようとしたのだろう。
――ジュリアのことは心配だが、今は正直なところ誰かを心配している余裕は無い。
「花は虫を嫌いますからね」
俺の胸の内を見透かしたように夢喰は答えた。
一瞬だけ花の頭が下を向いた。ジュリアは下にいるということだろうか。
「レオン! ――早く、レティシアを!」
突如、セシルが何かに気づいたように声を上げると、レオンは何も答えず弾かれたように動く。
床に手を付け魔力を流し、床を破壊しようとしている。
扉は現在、セシルによって凍りついたまま。そのおかげもあり、向こうにいるであろう屋敷の人達には被害は無さそうだ。
そして、レティシアという名前に反応を見せたのはレオンだけではなく、目の前に浮かぶ夢喰も同じだった。
「あぁ、ご安心を。 レティシアならこちらに――」
そう言って夢喰は伸びた足の蔦の一部を動かし、別室で眠っていたはずのレオンの妹、レティシアを見せびらかした。
一目見てその姿が先程見たものとはまるで違うことが理解出来た。
全身を包んでいた茨は肥大化しており、鮮やかな花々が顔を覗かせる。
月光を浴びてそれは神秘的な美しさを放っていたが、何よりも気にしなければならないのはレティシアの瞳が開いていることだ。
「――ッ、レティ!」
言うよりも早く、レオンが動き出していた。
その身に纏った風は過去、見たこともないほど渦を巻き、崩落した壁を侵食していた蔦を切り裂いていく。
大きく床を蹴り、跳躍を見せるレオンがレティシアへと手を伸ばす――が、一際大きな蔦に弾かれ、石ころのように屋敷の外へと飛んだ。
その様子をただ黙って見ていることしか出来なかったのは、レオンを弾き飛ばしたのが夢喰ではなく――レオンの最愛の妹であるレティシアがやった事だからだ。
「私はお兄ちゃんの方に。 レティシアは炎と水を」
夢喰がそう言うとレティシアはこくりと頷き体から茨を伸ばして器用にこちらへと距離を詰めてくる。
鋭い刃のような棘の生えた茨は部屋の壁を這うように伸びてくる。
「テオ、わかってるわよね!」
「ああ、わかってる……!」
相手が夢喰という植物であることがわかった時点で、俺とヤツの相性は決して悪いものではないことを直感的に理解していた。
俺の炎なら夢喰を燃やし尽くせる。
そう考えたのだ。
どれだけの威力が必要なのかはわからないが、それでも相手が植物ならば遅れは取らないはずだった。
だが、今目の前にいるのは夢喰じゃない。
レオンの妹、レティシアだ。
下手に炎を使って彼女を傷つけることになったらと考えると俺の魔術じゃあどうすることもできない。
――俺は、魔術において威力調節を最も苦手としていた。
高い威力を持った炎魔術を扱えると言えば聞こえはいいが、範囲を広げれば周囲は焼け爛れてしまうし、対人戦においては土壇場で威力調節を間違えることもある。
俺の最大の欠点が今回において最悪な形で露呈した。
「セシル任せになっちまう! 応戦はしてみるけど……レティシアは焼けない!」
「わかってるわよ! あんたは屋敷の人たちの安全、それとジュリアを早く呼んで! 呼べるでしょう!」
「わかってる……けど! ジュリアからの反応がない!」
ジュリアは人型になってからというもの、俺の傍を片時も離れたことは無かった。
けれど、何らかの事情でジュリアの姿が見えない時はいつもと同じように合図――足元を二回ほど叩くというもので呼び出せる。呼び出せないにしてもジュリアからなんらかの反応があるはずだった。
先程から何度も合図を出しているのだが、ジュリアが来る気配も、応答もない。
下へ向かおうにも崩落した壁側にはレティシアがいる。
今しがたセシルが溶かした扉側から外へ出ることはできるが、そうするとセシルが孤立する。
いや、そうだ、既にレオンが孤立している。
俺はレティシアに対して何も出来ないのであればここはセシルを信じて俺はレオンのところへ駆け付ける必要がある。
それは、理解しているのだが――
「っ、そう簡単には外に出してくれねえよな」
高速で地を這ってきた茨が扉を覆い隠した。
焼いてしまってもいいのだが、この茨はしっかりとレティシアに繋がっている。
それだけではない。屋敷にも燃え移る可能性がある。
俺の炎の威力の高さがここに来て嫌になる。
「くそ! 聞こえてるか! 全員逃げろ!」
俺は扉の向こうにいるであろうジルベールやヘレナたち屋敷の人間へと叫ぶ。
向こうからはこちらの状況がわからないはずだ。
とにかく、この危機的状況を伝えて、一刻も早く逃げてもらわなければ――
「――退避は済ませた」
白い閃光が迸る。
それが剣筋であるのだと理解出来たのは、崩れた茨と扉の向こうに二振りの剣を持ったこの屋敷の主――リンハルトが立っていたからだ。
シャツの腕をまくり、逞しい筋肉を隆起させたリンハルトは俺の方に一度視線を向ける。
「セシル君、テオドール君、迷惑をかけるが手を貸してはくれないか」
「当然です」
「当たり前だ」
口元に薄く笑みを浮かべるとリンハルトは剣先を自分の娘であるはずのレティシアへと、容赦なく向けた。
その瞳に迷いは一切ない。
切り伏せる覚悟を持った確かな瞳だった。
「魔人相手は久しいな」
「魔人――っ、相手はあんたの娘だろ!」
「違うとも。 アレは魔人だ」
こちらを見ることなく、リンハルトは言い切った。
「違う! 魔人なんかじゃない! レティシアはレオン妹で、あんたの娘だろ!」
剣先はレティシアに向いたまま、リンハルトはその冷めた瞳を俺に向ける。そこに感情と呼べるものは一つも感じられない。
俺を一瞥すると、リンハルトは再び自分の娘へと向き直る。
一歩。
その初速は凄まじいものだった。
リンハルトの姿が見えなくなるのと同時、俺とセシルの視線の先では月光を反射した二振りの剣がその身を貫かんとする茨を切り伏せる白い線を描いていた。
硬質な茨と二振りの剣からは時折火花が散っており、夜の黒の中でその白は目を奪うほどの美しさを放っている。
息を飲む剣戟も束の間、一際太い茨がリンハルトの体を弾いた。寸前で二振りの剣を交差させ防いで見せたリンハルトだったが、その衝撃を全て殺すことはできなかった。
崩れた壁から巻き上がった土煙を眺めていた俺とセシルはほとんど同時に動いた。
「っ!」
「テオ、これ使いなさい!」
そう言ってセシルから渡されたのは氷の剣。
受け取った俺は一瞬、熱いと勘違いしてしまいそうになるほどの冷気を纏わせた剣に視線を落とし、すぐに構える。
剣など使ったこともない。
孤児院にいた頃、リオン兄が剣の訓練をしていた時に遊びで使った程度。
「ないよりマシか!」
魔術を封じられた俺にやれることは少ない。
今はこの剣でこの場を凌ぎ切るしかできない。
情けない自分自身に舌を打ち、覚悟を決める。
リンハルトが先程向けてきた冷たい瞳を思い出す。「甘い」とでも言いたげな瞳。
いや、実際そう思ったのだろう。
その甘さが、俺の行動に迷いを産む。
「――くそ!」
踏み込んだ俺はレティシアのその姿を見てレオンの姿を重ねた。
似ても似つかない栗色の髪。だが、今のレティシアは植物の緑色に包まれており、どこか兄の面影を漂わせていた。
振り上げた剣が一瞬遅れ、いとも容易く防がれる。直感だが、リンハルトの時と違い、俺に向けられる力はその半分もない。
体が宙に浮いたことを理解した時、ようやく右肩に走る鋭い痛みを感じ取る。
苦痛に表情を歪め、床の上を転がり、セシルの足元で膝を着く。
「咲いて――〈氷華〉」
セシルの魔力が周囲に満ちているのを把握すると、右肩を抑えて俺は転がるように後方へと飛ぶ。
セシルの背に咲いた氷の花弁は鋭い刃をレティシアへ向け、冷気を放ちながら射出される。
白い線を描いた氷の花弁に続くように、崩れた壁の向こうからもう一つ――いや、二つ。白い線が走る。
――リンハルトだ。
「遅れてられねえ……!」
力が入りにくくなった右手から左手へと剣を握り変え、俺もリンハルトに続くように走り出す。
が、すぐにリンハルトの片手に制される。
「レオンを追え」
静かにそう言って、リンハルトはレティシアの細く白い首元目掛け、銀の剣を走らせた。
足を止め、一度セシルの方を見やるとセシルもこちらを見ていた。
「私たちで何とかする! レオンをお願い!」
「任せろ」
俺が扉へ向かって走り出すと、背後から茨が伸びてくるのがわかった。が、すぐに周囲に冷気が満ち、白い剣筋が氷漬けになった茨を砕いた。
その場を二人に任せ、俺は月明かりが照らすシュヴァリエ家の広い屋敷の庭に足を踏み入れた。
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