第16話 レオンの帰省
シュヴァリエ領は豊かな街並みだった。
魔術学院のあるディアンの街に比べると当然小さい街なのは違いないけど、人々のゆとりという面に関しては確実にこちらの方が上だろう。
忙しなく人が行き交う街よりも俺はゆったりとした時間が流れる街の方が好きだ。
馬車から降り、俺とセシルが街並みにあれやこれやと言っている間もレオンは無愛想に口を尖らせたままだった。それもこれも、関所にいた衛兵たちに「レオンハルト様」と呼ばれ敬礼されたことが原因のようだ。
衛兵にレオンが顔を見せるとすぐに通ることができ、俺たちは簡単にレオンの家――いや、屋敷の前まで来れたのだ。
広く立派な庭は迷路のような生垣があり、その中央には噴水が立てられていた。灰色のようなレンガ造りの道を歩き、大きな屋敷の大きな門の前までやってくると、レオンは嫌そうに口元を歪めて扉を叩く。
「はい」
と澄んだ声が聞こえると門は開き、中から初老の男が顔を覗かせた。
黒と白を基調とした高価な服。素人目に見ても質のいいものだとすぐにわかる。
白色が混ざった黒髪と髭は老けではなく貫禄を感じさせるが、威圧的な貫禄ではなく、シスターのように人に受け入れられる方の貫禄だ。
「これは……レオンハルト様。 お帰りなさいませ。 今、リンハルト様を――」
一瞬の動揺を見せた男はすぐに表情を切り替え、頭を下げた。
「呼ばなくていい」
「ダメよ、挨拶しないと」
レオンはセシルの言葉を無視して屋敷の中を足早に歩いていく。執事然とした初老の男は何も言えずにレオンの背を見つめ、長く瞳を閉じると俺とセシル、そしてジュリアと視線を流した。
「どうぞ」と促され、俺たちは執事の後を歩く。
長閑な風景が描かれた絵画や豪華な花瓶と色とりどりの花々。真紅の絨毯は靴を履いたまま歩いていいのかと自信を無くす。
忙しなく視線を動かしていたのは俺だけのようで、セシルは澄ました様子で胸を張り背筋を正して歩いている。
――そう言えばセシルはロンド家という家の出だ。こうした場所での振る舞いは慣れているのだろう。
対してジュリアは当然貴族の出などではない。単なる虫だった。
ジュリアは興味無さそうに仮面の奥の瞳を閉じ、俺の横を歩いているだけだ。関心がないと言うのもここまで来るとちゃんとした振る舞いに見えるものなのか。
何とか見栄えを良くしようとセシルの真似をするように歩く。どうしても視線が周囲に動いてしまうがこれも極力抑えるように心がける。
背筋を伸ばして歩くのはなかなかしんどいものだった。目の前を歩く男とセシルとを見て尊敬の念のようなものを抱いた。
「リンハルト様」
「入れ」
俺が二人の真似事に集中している間にどうやら目的の部屋の前まで辿り着いていたようだった。
俺の中にあった緊張が少しずつ膨らんでいく。
「ふう」と息を吐くのと同時、執事の男の手によって扉が開かれ、中の男と目が合った。
レオンの鋭い瞳をさらに鋭く、威圧的にした目元とこちらを値踏みするような瞳。場が凍りつくような緊張感を放つその男は視線をセシル、ジュリア、俺の順に動かすと一度瞳を閉じる。
そしてまたすぐにその鋭い黒瞳を開く。
「お初にお目にかかる。 私はリンハルト・シュヴァリエ。 愚息――レオンハルトの友人たちだな」
威厳のある低い声を響かせ、そう言って微笑んだ。
◆
見慣れすぎた家の中を早歩きで進み、俺は妹――レティの部屋の前までやってきていた。
手が震える。
アイツらには悪い事をしたなと、対応を間違えてしまったことを後悔する。
この家にいるとどうしても平常心を保っていられなくなってしまう。このことは後で謝るとして、今は目の前のことに集中しなければ。
目の前の扉を勢いよく開く。予想していた通り中には頬に傷跡のある侍女と暗い顔をした女――俺の母親であるエルナ・シュヴァリエがいた。
「レオン……」
「全員出てけ」
クソババアの言葉を遮り、俺は窓際に置かれたベッドまで歩く。
「お、おかえ――」
いつまでも居続けようとするクソババアを睨むと、すぐにこの場から逃げるように去っていった。
普段、俺やレティのことに関して無関心を貫いていると言うのに、こういう時に限って――いや、レティが長い眠りに囚われてから母親面をしてくるようになった。
頭を振り、俺はアレのことを頭から追い出すとすぐにベッドの上で寝息を立てるたった一人の家族とも言えるレティへと視線を落とした。
最後にレティの姿を見たのは魔術学院に行く前のことだ。
その頃からレティの姿は変わらない。いや、レティが目覚めなくなったあの日から何一つ、変わってなどいない。
変わったことと言えば、レティの体を蝕む忌々しい蔦。そして、白や薄桃色など鮮やかな花を咲かせた蕾だったものたちだ。
試しに切り取ってやろうかとも考えたが、これがレティにどう影響を与えるのかわからないため、軽率な行動は取れなかった。
「――戻ったぞ、レティ」
返事はない。
胸元まで掛けられた布団がゆっくりと上下し、等間隔で聞こえてくる寝息。一見すると心地よく眠っているようにしか見えないのだが、決して目を覚まさないことは俺がよく知っている。
ここでどれだけ俺が声をかけてもレティが起きることはありえない。
残念な事だが、兄妹の絆とやらで目覚めるほど簡単な話ではない。
「今日はな、俺の友達を連れて来たんだ」
それでも、俺はレティに話しかけることを止められない。
「赤いバカとその従者……みたいなやつと、青いバカ――っつーと怒るな、アイツらは」
怒る二人の姿が頭に過ぎり、少し笑みが零れてしまう。
レティはジュリアを見たらどう思うのだろうか。虫だと知ったら滅茶苦茶驚くだろう。もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
炎を自在に操るテオドールを見たら何と言うだろうか。喜ぶだろうか。怪我して欲しくないからあまり近寄らないで欲しいんだが。
セシルは――アイツ子どもとか歳下とか苦手そうだからな、大丈夫だろうか。いや案外、お菓子の話とかで意気投合するかもしれない。
きっと楽しいはずだ。嬉しいはずだ。
「お兄ちゃん!」という幻聴が聞こえてくる。そしてその後にはまだあどけなさの残る幼い顔を綻ばせて「楽しいね」と笑う。
そうだろう?
と問いかけても答えは無い。
静かな寝息だけが聞こえてくる。
忌々しいこの茨がレティの全てを奪った。助けてやりたいと願っても、俺には何も出来やしない。
代わってやりたいと何度も願った。
あの日、レティが目覚めなくなっ日のことを俺は何度も夢に見た。
けど、魔術学院に行ってそんな日は少しずつなくなっていったんだ。日々の中で俺は自分自身の中の後悔と罪悪感から目を背けようとしていた。
「ごめんな……」
考えてしまうとキリがない。
自分への怒りが際限なく溢れてきてしまう。
拳に力が入っていることに気づき、手を開く。じんわりとした痛みとともに、血が引いていく。
「兄ちゃんが、助けてやるからな――」
例え何年、何十年かかろうが、俺はレティを助けてみせる。
床に伏すレティの姿を見て、俺は改めて心に誓った。
◆
鼻歌交じりにそれは空を見上げる。
まるで御伽噺に出てくるような花畑の中心に、それはいる。
人の体よりも格段に大きな花弁と鮮やかな緑色をした葉。茎は短く、地面から直接葉と花が咲いているような形だ。
雄しべに囲われた柱頭に花ではない何かの姿があった。
否、それは花だ。
だが、道端や草原に生えている花とは決定的に違う。
ピシッとした黒い衣装に身を包み、手には白い手袋。足元は革靴と正装をしており、それはまだ鼻歌を続けていた。
「ああ、ああ、わかっている。 帰ってきたのだろう――あの子のお兄ちゃんが」
そよ風とともにそんな声が聞こえる。
男の声だ。低く、渋い大人の声。上品さを感じさせるその声は「ははは」と笑うと大きな花の柱頭に腰掛け、足を組む。
スラリと伸びた長い手足。
決して細すぎるということは無い。
白い手袋を着けた指先を少し丸めると、そこには青い鳥が止まった。すると、まるで蜜でも吸うようにその男の声を発した存在、その顔へ口元を近づける。
「ああ、私の蜜を吸うのかい」
異形だ。
その男は異形である。
首から下は確かに人間と何ら遜色ない形をしている。むしろ、一部の人間よりも整った体つきだ。
人間の体として見るのならば造られたかのように完璧な形だった。
だが、そうでないのが頭部。
ハナだ。
鼻ではなく、花。
本来人間として確実に必要な目、鼻、口――それらがあって当然のはずの、顔が無い。
その代わり、そこには花が咲いていた。
中心は黄色く、花弁は夕焼けのように鮮やかな橙色をしている。
蜜を吸い終えた青い鳥はまた異形の指先に止まる。小首を傾げ、目の前にある橙色の花を眺めていた。
刹那――鳥の体が膨れ上がる。
内部からぶくぶくと沸騰でもするように膨れ上がると、その小さな瞳を零れそうなほど見開き、声とは思えない音を発する。
やがて、パンッという音とともに羽が舞い落ちる。
足元に落ちた赤が混ざった青い羽を手に取り、それはため息を吐く。
「君も耐えられなかったか」
首を振り、その羽を手放した。
風に運ばれ、大空へと舞い上がる羽を眺め、それは立ち上がる。どこからともなく取り出した杖をつき、「さあ」と前置きして一歩踏み出した。
「会いに行くとするか、お兄ちゃんとやらに」
頭部が花とすり変わったおかしな姿をした怪物は丘の下に広がる街並みを見下ろし、笑み――のようなものを浮かべた。
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