第14話 妹

 レティ――レティシアは賢い奴だ。

 俺がこの家の中でどういう立ち位置に居るのかということに幼い身でありながらすぐに気づいた。



「お兄ちゃん! お空浮かせて!」



 人懐っこい笑みを浮かべ、抱っこを要求するときと同じように両手をあげた。



「おう、こっちこい」



 手招きするとレティは小走りになって俺のところへとやってくる。

 すると、すぐに俺の胸へと飛び込んでくる。要求とは少し違うが、レティを抱き上げる。


 レティは二つ下の妹で、俺とは違い魔術の才能はなかった。だが、頭が良く人の感情の機微がわかる奴だった。

 だからだろう、この家でクソババアやクソオヤジに懐くことなく俺に懐いたのは。


 無駄に広くデカいだけの家の中、俺は物が極端に少ない部屋の中でレティを浮かせる。

 部屋の中であるため浮かせると言っても加減はある。数秒間浮かせたあと着地させるとレティは楽しそうに笑った。

 すぐに自分の部屋からぬいぐるみを持ってくるとコレも浮かせてとせがんでくる。

 人間と違い、ぬいぐるみなどの無機物であれば容易に浮かせられる。この程度の重量ならばどれだけ持ってこられたとしても平気だ。



「お兄ちゃん」


「どうした?」


「楽しいね!」



 その当時俺は七歳で、レティは五歳。

 少しずつ体も成長し、背丈も伸びた。だが相変わらず見える景色は代わり映えのない部屋の中とデカい家の中。あとは窓から見える範囲の街並みだけ。

 よくもまあこんな環境で成長するものだ。

 俺に自由と呼べるものは存在しない。好きに動けるのはこの家の中だけだった。一歩でも外に出れば俺は地下に閉じ込められることになる。

 レティはそんな俺の状況を理解しているのか、決して外に出たがることは無かった。年齢的に考えれば外に出て友達でも作って遊びたいはずなのに。


 家の中は酷く退屈だ。

 読みもしない教本や歴史書、魔術書の類が多くある。本は好きじゃなかったが、レティが読んでとせがんでくるため絵本だけは読んでいた。


 こうして寝る時間になる度にまた俺の部屋にやってくると布団に潜り込み、読んでとせがんでくる。断る理由もなく、レティが寝るまでの少しの間、俺は現実から離れた物語の中に身を投じる。



「お兄ちゃん、レティね、お姫さまになりたいの」



 ぬいぐるみと一緒に持ってきていた絵本を広げると、レティは俺に見せるように頁を開く。

 そこに描かれていたのは薄桃色のドレスに身を包み、煌びやかな頭飾りを付けた姫と、膝を着き手の甲へ口付けをする騎士の姿だった。



「姫ねェ。 ま、レティは可愛いからな、それくらい簡単になれるだろ」


「ほんと?」



 そう言ってレティの栗色の頭を乱雑に撫で回した。「むふぅ」と鳴き声のようなものを出して瞳を細めるレティを愛おしく思い、さらに強く撫で回す。

 白い頬がほんのりと赤みを増すまで撫で回すと、レティは両腕を広げて俺の首へと巻きついた。



「騎士さまはお兄ちゃんね!」


「王子じゃなくてか?」


「そう、騎士さま! この絵本みたいに、お姫さまを助けて、結婚!」



 と、楽しそうにぬいぐるみを抱き締め頬を綻ばせるレティ。その頭を撫でてやると、またよくわからない鳴き声のようなものを漏らす。喜んでいるようだった。


 ――結婚ねェ。


 当然、俺とレティは兄妹だ。そんなことにはならないのだが、ここで夢を壊してはならない。

「そうだな」と背中を叩いてやるとレティは嬉しそうな声を上げ、布団に倒れ込んだ。



「続き、読んで!」



 話の内容はごくありふれたものだった。

 魔人族に攫われたお姫さまを騎士が助けに行く話だ。

 道中で炎を吐く龍の背に乗り、氷の妖精に助けられながら騎士は花びらが舞い散る丘の上で頭のおかしな魔人と対峙する。長く険しい戦いの後、魔人の胸元には騎士の剣が突き立てられ、魔人は不気味な笑い声を上げながら崖下に落ちていく。

 そうして解放されたお姫さまは騎士と結ばれ、二人の子どもは英雄として名を馳せる。

 そんな話だ。



「いつか魔人さんが私を攫いに来るの」


「はっ、そりゃ傑作だな」



 魔人とはこのディアン大陸から海を挟んで隣の大陸のそのまた端に息を潜めるようにして生活している種族だと、何かの絵本でレティに読み聞かせた。

 外の世界についての情報はここにいる限り制限されてしまうが、そんな世界の端にいるようなヤツらがここまでやってくることは考えにくい。



「傑作じゃないよ! お兄ちゃんが助けてよ!」



 そう言ってレティは頬を膨らませた。



「そうだった。 お姫さまを助けるのは騎士の役目だもんな」


「そうだよ。 お兄ちゃんが、私を助けて……くれなくちゃ……」



 徐々に声は小さくなっていき、やがて寝息が聞こえてくる。

 もしもそんなことになれば俺は何を捨ててもお前を助けるさ。

 目を瞑る直前、俺はレティの髪を優しく撫でた。



 ◆



 よく晴れた気持ちのいい日だった。


 そんな日に、事件は起きた。


 あともう少しでレティが6歳になる。そんな時だった。


 その日、レティは珍しく朝早くから外に出た。天気もいいし街に行って友達と遊ぶんだろう、なんて呑気に考えていた。


 その日の晩、レティは帰ってこなかった。



「レオンハルト」



 場の空気が正されるような低い声。

 帰りの遅いレティを心配した俺は目のクソオヤジを睨みつけていた。



「止めんなクソオヤジ」


「止めるとも」


「そこを退けや」



 このクソみたいな家の規則のせいで俺は自由に外に出ることもできない。

 普段ならそんなことはどうでもいい。退屈で済むのだから。

 だが、今はそうじゃねェ。

 だから俺は外に出ようとしたのだ。


 そして、そこに立ち塞がったのがクソオヤジ――リンハルト・シュヴァリエだった。

 剣の鬼とまで称された俺の父親で、息子を家の中に閉じ込めるクソみたいな親父だった。



「ならん。 お前の存在を知られる訳にはいかん」


「レティはどうなる」


「レティシアの捜索隊は既に出してある。 夜更けまでには帰ってくるだろう」


「俺が行かなきゃ意味ねェんだよ」



 俺はレティの騎士なのだから。



「ならんと言っている」


「退けよ、ぶっ殺すぞ」



 家の中に暴風が吹き荒れる。

 花瓶が割れ、絨毯は捲り上がり、扉は吹き飛ぶ。

 俺が戦闘態勢に移ったのを見ると、クソオヤジは腰に下げた二本の剣の内一つを抜き、正眼に構える。



「お前の力は大きすぎる。 その力を制御できるその日まで外に出てはならぬ」


「うるせェ! レティが帰ってこねェんだぞ! テメェ責任取れんのかよッ!」


「私はあの子の父だ。 それと同時にお前の父でもある」


「――ッ! 黙れよ、クソオヤジがッ!」



 風の塊をクソオヤジ目掛けて吹き飛ばすと、クソオヤジはそれを一刀に付す。

 が、俺はそれを予測していた。初撃に隠すようにして放ったもう一つの風の塊がクソオヤジの体を弾き飛ばした。

 勢いのまま玄関の扉にぶつかり、外へと放り出されていく。

 俺は転がるクソオヤジに目もくれず物心ついてから初めて出る外への一歩目を踏み出した。


 いつも窓の外からしか浴びることのなかった月明かりをその身に浴びた俺には感動なんてものはなかった。

 その感動を凌駕するほど身に宿っていたのは身を焦がす焦燥と、クソオヤジへの怒りだった。


 こういうとき、空を飛べない自分自身に腹が立つ。

 俺は周囲のものを浮かせたり、他人を飛ばしたりすることは出来ても自分自身を飛ばすことは出来なかった。

 相性の問題なのか、俺の力がまだそこまで及んでいないのかはわからない。が、たしかにわかるのは俺はこの闇夜の中、宛もなく自分の足でレティを探さなきゃならないということだった。



 ◆



 ――レティは安らかな表情を浮かべていた。


 こちらの心配を他所に、本当に安らかに眠っていたのだ。

 いつもそばで聞いていた寝息を耳にして、俺は安堵し膝から崩れ落ちた。

 すると、今になってようやく体は疲労を訴えだした。

 汗にまみれ、息は切れ、足は震え、レティを抱きしめる余裕さえなくなっていた。



「レティ、俺だ。 レオンだ。 なァ、寝てるのか? そ、そうだよな、もうこんな時間だ。 でもよ、こんなとこで寝たら風邪引いちまう。 ほら、さっさと起きて帰んぞ。 そしたらほら、また本読んでやるからよ。 今日は何読んで欲しい? アレか、いつもと同じやつ。 お姫さまが騎士に助けられる――」



 レティは俺がどれだけ呼びかけても起きやしなかった。



「な、なァ、レティ――」



 見れば、その体には茨のようなものが巻き付き、左胸のあたりに小さな蕾が咲いていた。

 振り絞った魔術で風の刃を作り出し、茨を切り裂くが、すぐにまたレティの体に巻き付いた。

 切っても、切っても、切っても巻き付くそれはどうやらレティ自身から生えているようだった。



「レ、レティ?」



 決して小さくない焦り。

 何が起きているのか理解もできず、俺はレティを抱え、家に戻った。



 ◆



 レティの容態は街の医者にもわからないものだった。

 ディアンの街から呼び寄せた名のある医師も、薬師も首を横に振るばかりで具体的な病名を言いやしなかった。

 どいつもこいつも「知らない」「見たことない」と言うだけで誰にもレティを助けられなかった。

 奇妙だと口を揃えたのはどれだけ切り離しても決して離れようとしないツタと花だった。


 左胸の小さな蕾は日を増す事に成長しているように見えた。

 やがて蕾の数は増え始め、花開くものも出てきた。

 それが星暦四百三十六年、春の出来事。俺がディアンの魔術学院に入学する少し前のことだった。



 ◆



「俺ァ、正直よ、レティがあんな状態だってのに魔術学院に通うなんてことは嫌だったんだ」



 語り終えた俺は向かい合うテオドールの顔を見ずに俯いたままだ。



「クソオヤジの意向で、俺はここに来ることになった。 シュヴァリエ家の者として名を馳せてこいと」



 今までずっと幽閉していた癖にと噛み付いたが、俺の力の制御が出来るようになってきたから外に出すと言われたのだ。

 レティを助けに行こうとしたあの夜、クソオヤジをぶっ飛ばしたことが皮肉な事に俺を縛り付けていた鎖を壊した。



「シュヴァリエ……」


「俺の名前だ。 レオンハルト・シュヴァリエ。 俺ァ、こう見えていいとこの坊ちゃんなんだよ」



 俺は意図的にこの名前を隠していた。

 シュヴァリエという家名を知られたくなかったのだ。ルクリールは担任として知っているはずだが、その名を俺が使わないことを察して一度もその名で呼ばないのはありがたいことだ。



「俺ァ、クソな兄貴だからよ、ここでの生活を楽しんじまった。 レティの状態のことを忘れちまうこともあった」



 懺悔するように零す。

 レティのことを忘れたことはない。

 が、どうしようも無い現実から目を逸らすように俺はテオドールやセシルとの日常に浸かっていた。



「……楽しむことは悪いことじゃないだろ」


「そうだな、別に悪いことは何もしてねェ。 何も、してねェ」



 テオドールはその真っ赤な目を大きく剥いて考え込んでいた。

 孤児院の出だと前に俺とセシルに聞かせてくれたことがある。どういう生活なのかは知らないが、そこには当然歳下だっているのだろう。そうなると、テオドールは今俺にとってのレティと同じ存在を頭に思い浮かべているのだろう。


 もうほとんど真紅に染まった髪を振り乱し、テオドールは俺の方を見た。



「俺ァ……」



 自分を許せねェ。

 そう言おうとしたが、続いたのは聞き慣れた氷のように冷たく凛とした声だった。



「――話は聞かせてもらったわ。 ごめんなさい、盗み聞きするような真似をして。 でも、これで私を太ったと言った罪は流すから」


「……いや、俺ァ言ってねェ」



 青い髪を靡かせ、セシルは神妙な面持ちでテオドールの隣に座り、俺の顔を覗き込む。



「帰りましょう」


「ぁ?」


「私たちも一緒に行くわ」


「は? お前らが一緒だからって――」


「そんな状態のアナタを一人で帰すのは友達として見過ごせない」



 セシルの目はどこまでも真っ直ぐだった。

 射抜かれた俺は身動きが取れなくなり、ただ顔を伏せた。



「行くでしょ、テオ」


「当然、拒まれても行くね」


「そうね。 私も絶対に行くから」


「お前ら……」



 俺は本当にいい奴らに恵まれたのだと、心底実感した。

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