第11話
翌日。びっくりするくらい目覚めがいい。
新調した服を着て、全身がうつる鏡の前でチェックしていると、母が今日はマキウチさんとデートでもしてくるの、とにやにやして聞いてきた。お母さん……。そういう弄り方はやめてくれ……。
「違うよ……。今日は……面談で……わたしも一緒に研修で来いって……」
派遣会社に採用されたという手前、それっぽい言い訳を必死で絞り出した。母はそれに対し、何だ、つまんないの、と言って朝食の目玉焼きを作る作業に戻った。母はどうも、マキウチさんのことを気に入ったらしい。いや、多分最終的にマキウチさんじゃなくても、わたしが身を固めれば母は喜ぶだろう。
「リーちゃん、さっさと前の彼氏のことは忘れて、次に行かなきゃだめよ。いいじゃない、マキウチさん。爽やかそうだし、仕事もできるんでしょ」
さ、さわやか……。あの人を形容するうえで一番遠い言葉が出てきた。いやでも、過激な発言をしてなきゃそう見える、かも。仕事ができるのは本当だし。そしてお母さん、わたしはすでに奴のことはとっくに切り捨てております。何ならこれから殺します、とはさすがに言えなかったけど。
「別に女の方が年下なのは、犯罪になるような年齢でもなきゃ受け入れられるものよ。干支一周してない歳の差なんて、世間的には普通の範疇なんだから」
何の話ですか母上。いや、わかるんですが。要約すると、さっさとマキウチさんに告って付き合えということですか。そして最終的に結婚しろと。そういうことでしょうか。
とりあえず、普段はハーフアップにするだけなのを、きょうは三つ編みにしてみた。何回か練習したおかげで、意外とうまくいった。ざっくりとゆるめに結ぶのが、かえってやりやすかった。髪質の問題で、ヘアゴムがほどけそうだが。
「ほんと、これでデートなら、お母さんお赤飯炊いて、ケーキ買って、唐揚げ揚げるんだけどねえ」
期待通りの展開ができそうになくて本当に申し訳ない。母が焼き上げた目玉焼きとウィンナーを並べた皿を持ってくる。ちょうどよく、トースターが軽やかな音を立てて、焼き上がりを知らせた。こんがりと香ばしい香りが、狭い部屋に漂う。いかにも朝の始まりの光景なのだが、これからのことを思うと、ちょっぴり気が重かった。
◆◆◆
「上司を待たせるとは君はいい度胸してるな」
出口を間違えた結果、予定時刻に遅れはしなかったが、マキウチさんを待たせるという大変な失態をしでかした。すみません、と頭を下げると、遅刻してないから気にしなくていいよ、と時計を見ながら言われた。
マキウチさんのスタイルは、ダーク系のスリーピーススーツに、昨日買ったと思われるオレンジ色のネクタイだった。中のシャツは薄い藤色。……もしや使っている色味、被ってませんか。
マキウチさんはそれは気にしてない、というか気づいてないようで、君は足が長いね、とお褒めの言葉を頂いた。やったぜ。いやそうじゃないだろうよ。嬉しいんだけど。
「とりあえず、ホテル行こうか。依頼人と茶だけ飲んだ後、アフタヌーンティーとでもしゃれ込もうぜ」
「あの、ほんとに経費なんですか」
「何、心配性だね。大丈夫、いざとなったらヨシカワさんと所長のこと脅すから」
いや、なにも大丈夫じゃないと思います。とはいえマキウチさんにそう言われると安心するのも確かで、煉瓦造りの入り口までたどり着いたころには、わたしのボルテージはマックスだった。
まるでおとぎ話に出てくるお城みたいなホテルである。創業明治のころ、というから風格がすさまじい。ドラマロケ地で使うこともあるとか。初めてきたが、素敵だ。多分幼稚園の頃のわたしだったら、お城みたーい、とはしゃいでただろう。そしてまさに感じではしゃいでいる幼女が両親と歩いていた。ほほえましい光景である。
「あーあ、君もあんなかわいい時代があっただろうに、何殺し屋なんかやってんだよ」
冷たい目でわたしと幼女を交互に見たマキウチさんがそう吐き捨てた。わたしはぐっと、おもちゃを持って奇声を上げてはしゃぎ、お母さんにヤマトやめなさいと叱られている男児を横目に、マキウチさんもあんな子供時代があったでしょうに、と言い返すのをこらえた。えらいぞリエ。
なお、その男児は、周りが見えてないのか見事にマキウチさんにぶつかった。泣きはしなかったが、何が起こったのかわからずきょとんとしている。……子どもって、そんなもんなんだな。
マキウチさんは怒鳴るでもなく、「坊主、あんまりはしゃぐとダサいぜ」といつものニヒルな笑顔で男児にそう言った。駆け寄ってきたお母さんへは、元気いいですねえ、男子なんかそんなもんですから気にしないでください、とにこやかに応対。確かにこれだけ見れば爽やかなんだけども。
その男児は、おじさんごめんなさい、とお母さんと一緒に頭を下げていた。さすがにおじさんはちょっと、といやでもこの子のご両親とマキウチさんは案外同年代か?ぐるぐると考えていたが、マキウチさんは特に気にも留めなかったらしい。きちんと謝れてえらいぞ坊主、と洋画のカウボーイのようなしぐさをして、その親子と別れた。その間わたしは棒立ちだった。かかし以下である。
ふっとこちらが驚くぐらい真顔になったマキウチさんがこちらを向いた。
「まったくさあ、キジョウさんももうちょっとアシストしてくれよ。子供をあやすのは女の子の専売特許だろ。慣れないことしちゃったじゃんか」
「大丈夫です、かっこよかったですよ」
「あそう?」
それで多少は気をよくしたのか、鼻歌を歌ってラウンジの方へ向かっていく。わたしもそのあとをついていった。
ラウンジはロビーを抜けたところにあり、吹き抜けの空間だった。こういう構造をアトリウムと呼ぶらしい。結婚式の披露宴で使うこともあるらしい(先ほど入り口ではしゃいでいた女児が宣伝の看板を見つけてお姫様みたい、とやはりはしゃいでた)が、確かにこういうところでやったら華やかな雰囲気が出るだろう。……なんでその妄想で自分とマキウチさんを出してしまうのか、わたし。
しかし、七股やらかしたバカ彼氏の話を、披露宴会場にもなるような場所で聞くとは。
ラウンジの受付のお姉さんに、予約していたものです、とマキウチさんが颯爽とスマホの画面を見せた。おそらく予約画面だろう。黒ベストの制服を身に着けた丸顔のお姉さんは、柔和そうな雰囲気とは裏腹に手早くわたし達を席へ案内してくれた。
丸テーブルを真ん中に、それを挟むように二人掛けのソファが並ぶ席。二人でお姉さんに頭を下げると、入り口に近い側のソファに並んで座った。すかさず、先ほどのお姉さんの白バージョンの制服を着た別の女性が、お水を持ってきてくれた。今の時期は少し冷え込むからか、お冷ではあるが冷たすぎないくらいの温度だ。一流ホテルの気遣い、素晴らしい。一口飲むと、ほんのり果物のような、酸味を感じた。
「……そういえばわたし、今日会う人のこと何も知らないのですが」
「んー、二人一緒に来るんだけどね。一人はカブラキリリアの上司で、もう一人は同僚。上司の方は男で、カブラキリリアが入社してから教育係でついてたんだって。同僚の方は、女の子。同期入社のよしみで仲良くなったんだってさ」
要は上司と同僚兼友達か。まあ、自殺未遂の原因ききまわるなら、ベストな人材かも。
ふ、と振り返ると、男女が二人、ラウンジのお姉さんに話しかけていた。お姉さんがにこやかな笑顔でこちらに腕を振り、先導してくる。やってきたのは、小柄(目算だが、母やマキウチさんより背が低そう)な男性と、フジタさんをちょっときつめにした感じの綺麗な女性だった。マキウチさんがボソッと、フジタさんとイガラシさん足したらあんな顔になりそうじゃない、と言い出したのを、がんばって吹き出さないようにこらえていた。男性の方はスーツ、女性の方は黒ベストに黒スカートだ。
「大江戸事務所のマキウチです。彼女は僕の部下のキジョウです」
わたしがあいさつするより先に、マキウチさんがまとめて紹介した。自分からも、キジョウです、と情けないくらいか細い声でお辞儀した。
「オガワシゲルです」
「……ササオカミヤコです」
オガワさんの方は、マキウチさんとわたしとで名刺交換をしたが、ササオカさんの方はすっと立ったままだ。多分、名刺を持ってないのだろう。マキウチさんがニコニコと二人に座るように促す。先ほどお水を持ってきたお姉さんが、二人の前にもお冷を置きにやってきた。ついでに、マキウチさんの方が半分くらい減っていたので合わせて注ぐ。透明なポットの中身をよくみると、デトックスウォーターの類だったらしく、レモンの輪切りが数枚入ってた。通りで、ほんのり酸っぱかったわけだ。
「……原因なんて、あの彼氏しかいないですよ。さっさとそっちに行ったらどうですか」
ササオカさん、いきなり爆弾。いや、我々もそれはわかってるんですけども。
「……なるほど、あなたはカブラキさんとそういう話をする程度には親しいわけですね」
マキウチさんはすかさず切り返した。確かに、ただの同僚にはコイバナなんかしない。もはや社会人になってできた友達と言ってもいいだろう。ササオカさんはそうです、とキッとなぜかわたしの方をにらんできた。
「カブラキのこと聞きに来ておいて、無神経にペアルックするなんて、ずいぶん探偵って無神経なんですね」
ぺ、ペアルック……。確かに色は被ってますが。マキウチさんは、はあ?という顔でササオカさんとわたしを見比べて、自分のネクタイを見て顔色を変えた。色が被ってることに気づいてなかったんですね。……言えばよかったんだろうか。
「いやあ、たまたまですよ」
マキウチさんはすぐに立て直した。実際、被ったのは偶然だし。もっとも、二人から見えない死角の足元で、何で言わなかったの、と足踏みで訴えられたが。わたしはすみません、と縮こまるしかなかった。ササオカさんも、それ以上追求せず、本題に戻った。
「カブラキにはもっとお似合いのいい男がいるって言ったんですけどね。多分、意地になったんだと思うんですけど」
「うわさで聞きましたが、六股だか七股だかしてたそうですね」
七股していたことはわたし達は知っているが、彼女たちはどこまで知っているのか。カマをかけたのだろう。マキウチさんはブラックコーヒーを飲みながら、二人を一瞥している。オガワさんは七股だと!?と叫び、ササオカさんはあいつと付き合っておいてそういうことできるなんてサイコパスですよね、と吐き捨てた。まあそうだよね、友達には言えても、上司には言えないよね……。とはいえ、わたしは隣に座ってる上司に丸裸なぐらい知られてるんだけども。
「僕はカブラキさんがどういう女性か知らないので何とも言えませんけど、まあ六股かけるってのは普通の神経じゃないですね」
わたしもリリアちゃんがどういう子かは知らないが、あのボケナスの言動に深く傷つく乙女な子なのだろう。そういう子をもてあそぶのは許せぬ。わたしも一応被害者の立場だが、意外とダメージがないし……。
「そ、そんな奴に……俺は負けたのか……」
オガワさんがすごく肩を落としている。負けた、という言葉でピンと来た。もしかして、オガワさん、リリアちゃんのことが好きなんだ。そして一回告白なりしたけど、リリアちゃんに振られたとかかしら。
……たぶん、タイミングが悪かっただけだと思うけど、どうだろう。
「ちなみにその彼氏のことって、お二人以外の会社の方はご存知だったりするんですか」
「たぶん、知らないと思います。カブラキ、わたし以外の同期とあまり話さないし」
おそらくササオカさんの認識であってると思う。わたし自身、別れ話は母と仲の良かった友人にしか話さなかったもんな。
「まあ、そりゃ言いづらいですよねえ」
マキウチさんはそういうと、すっと手を挙げた。素早く、先ほど案内してくれた丸顔のお姉さんが来る。飲み物を頼みましょう、とまず二人に縦長のメニュー表を渡す。そのうえでさっさとアイスコーヒーとアイスカフェオレを一つずつ、と注文する。待ってください、カフェオレはわたしの方ですか。いや、構わないですけども。
二人はメニュー表を一瞥した後、オガワさんがアイスコーヒー、ササオカさんがアイスレモンティーを注文した。お姉さんは素早く伝票に書き付けて、かしこまりました、と一礼するとまた素早く去っていった。プロだ。プロがおられる。さすが一流ホテル。
「一応聞きますけど、仕事上でトラブルを抱えてる、なんてことは……」
「お……私が知る限りでは、一切ありません。そもそも彼女は普通の一般事務職員としての雇用ですから」
「わたしも、とくには……」
むしろそういうトラブル系は、このお二人の方がありそうな気がする。生真面目そうなオガワさんは、上との軋轢がありそうだし(ドラマでよく見る中間管理職の悲哀、とか)ササオカさんは、その美貌から嫉妬されて……とか。少なくとも、真面目でおとなしそうなリリアちゃんには、無縁の話だろう。
「じゃあやっぱり、付き合ってた男とのトラブルですかねえ」
言い方が白々しいですよ、マキウチさん。わたしは何も知りません、と言わんばかりにちびちびとデトックスウォーターを飲んだ。わたしとマキウチさんの白々しい様子には特に二人とも言及しなかった。気づかなかったのか、わざとか。こういう心理戦、苦手なんだけども。はやく終わってアフタヌーンティーセット食べたいです……。
「でも、お二人が知らないだけで、実はあるみたいですけどね、トラブル」
マキウチさんがそう言いだしてスマートフォンを二人に見せるのを、わたしはなるべく平静な顔で横見した。わたしも今知りましたが。なんですかそれは。
画面に映っているのは、メッセージアプリのスクショみたいだ。ずらっと白い吹き出しマークばかりが並んでる。その中の文字を、きちんと文章として認識した瞬間、そこにある憎悪がぶわっとわたしに伝わった。
「これは、カブラキさんと同僚の方お二人との会話です。お母様に送っていただきました」
直截的な言葉は少ないが、悪意は見て取れる。しかしわたしには、乙女に向かって電信柱はいくら何でもひどい、という頭の悪い感想しか出てこなかった。とはいえ、それ以外に言及するのはかえってわたしの人間性が疑われそうな気がする。いや疑うべきは投稿者の人間性なんだけど。マキウチさんの、マイトで事務所を吹っ飛ばしたいが優しく感じる日が来るとは思わなかった。
「内容はともかく、これ、誰だかわかりますか」
「……同期です」
ササオカさんの声は、震えていた。二人とも、血の気がない。けれども、すぐに逆に真っ赤になった。青筋が見える。漫画でよく見る怒りマークって、きちんと観察したうえでのデフォルメなんだなと妙なところに気が付いた。
お二人は我々に挨拶すると、千円札を一枚むき身でマキウチさんに差し出し、お釣りは結構ですので、と言い残して並んで去っていった。見ようによっては息の合ったカップルなんだけど、違うよな……。あれ、殺し屋だよな……。そして二人そろって、飲み物が来る前に行ってしまったことに気づいた。
「ど、どうしましょう……」
「落ち着きたまえ、こういう時はプロにお願いするんだよ」
そう言って、注文を受けてくれたお姉さんをマキウチさんは呼び止めた。実は、さっきの二人、急用で帰ってしまったんですよ、とりあえず飲み物をキャンセルしてください、ただ、お金はもう先にこちらで受け取ってしまったので、同じ代金程度で、お持たせ用のお菓子とかおすすめないですか、と流れるように説明した。手馴れている。
そしてここで、そうか、マキウチさんは仮にも公務員だから、職務上あれを猫ばばするわけにはいかないんだな、ということに思い至った。真面目なのか、不真面目なのか、時たまわからないな……。
お姉さんはすべてを察し、取り急ぎドリンクはキャンセルします、お菓子の件はお会計の時にご案内しますと言って一礼した。入れ替わりに、我々のドリンクの方が来た。今度はウェイターさんだ。細身の若い男の人がやってくる。割と男前。
「アイスコーヒーと、アイスカフェオレです」
そう言ってウェイターさんが中身が入ったグラスを、ほれぼれするような動きでコースターに乗せてゆく。銀の入れ物に入ったミルクとガムシロップがわたしとマキウチさんの間に置かれた。そして貝殻型のクッキー二枚とガナッシュがのった、花型の小さなお皿がグラスの斜め後ろあたりに置かれる。かわいい。
「こちら、平日限定の茶菓子でございます」
やったぜ。まずはカフェオレを味わって、クッキーを一口。さくさくとした触感と、バターの風味が口に広がり、大変美味である。一流ホテルすごい。
「とりあえずあの件はあの二人が暴れるとして、君の元カレはどうしたもんかね。八つ裂きにする?」
「気持ち的にはそうしたいですが……」
「まあ、そうしてもいいと思うよ、俺は。キジョウさんには悪いけど、なかなかの糞野郎だもんね」
マキウチさんはガナッシュを口に放り込んだ。思ったよりビターチョコだね、と感想を述べた後、で、メインのアフタヌーンティーなんだけどさ、と言い出した。
「まあ、一流ホテルだから、だろうなとは思ったんだけど、これ一つで二人分なんだよね。そうなると、俺と一つのティースタンドをつつくわけになるけど、大丈夫?」
……大丈夫も何も、どうしようもないのでは……?と思ったところで、マキウチさんなりに気を遣ったのだろうか。だとしても、アフタヌーンティーセット食べたいし、ホテルのお姉さんたちなら一人一つに分けてくれるだろうけど、でも洗い物増やすわけだし、ということをコンマ数秒の間考えて、大丈夫です、と答えた。
「ふーん?」
そう言った時のマキウチさんの顔は、残念ながら見れなかった。気づいた時にはもう、手を挙げてあの丸顔のお姉さんを呼び止めていたからだ。アフタヌーンティーセットを二人分、と注文する。
「お飲み物はどうされますか?アフタヌーンティーセットですと、この中からお好きなだけお選びいただけます」
お姉さんは別のメニュー表を差し出してくれた。どうやら、アフタヌーンティーセット及びビュッフェの時のドリンクメニューらしい。ハーブティーやブレンドティーもラインナップに含まれている。
わたしはバラとイチゴのブレンドティーを、マキウチさんはカモミールティーを頼んだ。お持ちいたしますのでお待ちください、とお姉さんは恭しく頭を下げて去ってゆく。
「といいますか、あのスクショは一体何なんですか、わたしも初耳ですよ」
「安心したまえ、俺も今日の朝ヨシカワさんから送り付けられたんだよ。女同士は怖いねえ」
マキウチさんいわく、どうやらリリアちゃんのお母さんが、ヨシカワさんに送ってきたらしい。ついでにこっち方面も探ってくれ、追加案件になるかもしれないから、と一言添えて。ヨシカワさん、殺し屋としては正しいのかもしれないけど、人としてはなかなかひどいな。
「君は学生時代とか、やっぱりこういうことあった?」
「あいにく、あまり経験は持ち合わせてません……」
「まあ、だろうね、君は陰口言われてうぐぐってなって、怒るタイミング逃す子だよ。せいぜいお母さんに泣きつくのが関の山だろうね」
……リリアちゃんを傷つける奴らと同類扱いされなかっただけましだと思おう。そっちの方が傷つくもん。しかしながら、マキウチさんの言った内容は、中学時代のほろ苦い経験そのものなのだが、この人タイムマシンで見てきたんだろうか。そんなわけないんだろうけど。
わたしのアイスカフェオレのグラスが空になったころ、お楽しみのアフタヌーンティーセットが、カートに乗ってやってきた。茶葉とお菓子の香しい匂いが徐々に近づいてくる。ああ、すでに幸せです。
「こちら、当ホテル自慢のアフタヌーンティーセットです」
多分、いっしょにいたのが友人だったら、きゃあぐらい言ったかもしれない。感嘆の声しか出ない。すべてが完璧だ。このまま取っておきたいほどに。ふわっと匂う、バラの匂い。ああ、わたしの頼んだブレンドティーが、白いポットから注がれているのだ。マキウチさんの頼んだカモミールティーも、強烈ではないが優しい香りを届けてくる。
「いいねえ、写真撮りたくなるねこれは」
颯爽とマキウチさんはスマホを取り出して、シャッターを切っていた。おお、わたしも撮らねば。わーきれい。まるでルビーを溶かしたようなジャム、細かな砂糖細工がのった焼き菓子、瑞々しい緑色のレタスと鮮やかなピンクの対比が美しいサンドウィッチ……。天にも上る気持ちってこういう感じなのかしら。
「綺麗なもん見てテンション上げてるところで暗い話して悪いんだけどさあ、カブラキリリアが目を覚まさないらしい。思いのほか深く切ったみたいでね」
……ジェットコースターでいっきに降下した気分だ。苦手だから学生時代からとんと乗ってないんだけども。無事に目を覚ましてくれ。あなたが命を差し出しても、あなたを傷つけたやつには何も響かないんだぜ。むしろ金と権力をちらつかせる方が響くんだなあと退職の時に思い知った。バックに弁護士さんつけて乗り込んだ時の社長の顔は見ものだった。
「……それはあの二人はご存じなんでしょうか」
「朝お母様が会社に連絡したらしいから、知ってるんじゃないかな。自殺したくなる気持ちは止めないけど、残された人間は辛いから、あんまりよろしくないよね」
……まさかとは思うが、マキウチさんの妹さん、自殺?その遠い目は、何を想ってるんだろうか。
「とりあえずこれ食べ終わったら手土産渡しに向こうの会社行くけど……」
とマキウチさんが言ったところで、わたしの携帯が震えだした。基本電車通勤なのでマナーモードにしているのだが、電話が鳴る用事がわからない。まさか母が倒れた?と思ったが、発信番号は携帯電話だ。出るべきか出ざるべきか迷ったところで、マキウチさんが貸してと言いながら私の手から取り上げて切断ボタンを押した。
打ち上げられた魚のごとくわたしが口をパクパクさせていると、マキウチさんがそれは無視していい電話だから気にしなくていいと言って、一番下の段からサンドウィッチをとって食べだした。やっぱ一流のとこは単純な食べ物でもうまいね、と感心なさっていた。いや違う。
「あれさ、ヨシカワさんの携帯。とりあえずこれ食ってる間は無視していいよ」
いや、そういわれても気になります。まさにそういう顔をしていたのだろうが、君はいい加減ブラック企業勤めの癖をやめたまえよとスコーンにクリームとジャムをたっぷり塗っているマキウチさんにそう言われると、胸に響くものがある。俺が無視していいって言ってんだから無視していいんだよ、というので私も従ってサンドウィッチから食べだした。うん、美味である。具材はレタスとサーモンだ。美味しい。
「そうそう、うまいもん食って美味しい、幸せって感じでいいんだよ」
脚を組んで半分に割ったスコーンにクリームを塗る姿が妙に様になっている。わたしも倣って、プレーンをとって半分に割り、クリームとジャムをたっぷり塗って口に運んだ。美味しい。クリームは、かたさ的にはバターと生クリームの中間ぐらい。ほのかな甘みがあって美味しい。先ほどルビーを溶かしたようだと思ったジャムはイチゴ味だ。幸せなり。
もう一つはクルミ入りで、こちらも美味しかった。
「まあ、おおかたカブラキリリアの件だと思うんだけど……ああ、いい加減とるか、うっとおしいね」
なお、ここまででマキウチさんの携帯は一切なっていない。バイブも鳴らないモードなのかと思ったが、電源を落としていたらしい。というのは、わたしの携帯が机の上でブルブル鳴るのを見て、マキウチさんが自分のスマホを取り出して再起動の動作をしていたからだ。そして私の携帯のバイブが鳴りやんだのと同時に、マキウチさんが電話をかける。動作に時間がかからなかったあたり、履歴の上の方にあったのか、すぐかけれるように設定してあったのか。
「ヨシカワさん、何回もかけないでくださいよ。……そういうこと言うのほんとやめてくださいね。え?……ああ、どうもあれ送ったの、今日話聞いたのとは別の同僚かららしいですよ。ええ、話の途中で帰っちゃったんで、とりあえず飯食ってから会社の方に出向こうかなあと……ああ、じゃあそれはそれでついでにやっておきますね。はい、じゃあ、お土産になんかクッキーでも買っておきますよ。じゃあ、そういうことで」
生憎わたしの耳には喋っているマキウチさんの声しか聞こえなかった。とりあえず途中でまたヨシカワさんがなんかいらんこと言ったんだろうな、というのと、おそらく追加ミッションが下されたことはわかったが、いったい何なんだろう。どっちにしろ二人あてにお菓子を渡すミッションがあるわけだけども。
「とりあえずゆっくり味わいな。めったに来れるところじゃないし」
わたしがのろのろ食べているのを気遣ってくれたのだろうが、さっきのリリアちゃんの件でのどが通らないだけです……。しかしそうはいっていられない。スコーンの段を食べ終えたので、次は洋菓子へ……と思ったら、またしてもカートを引いたお兄さんがやってきて、なにやらグラタン皿とパンをサーブしだした。
「こちら、平日限定の温製料理です」
出来立てのミートグラタンに、小さめのクロワッサンとクイニーアマンが目の前に現れた。グラタンは湯気が立ち上り、チーズのおこげができている。わあ、おいしそう……。じゃねえ。
しかしこれを食べなければ先には進まない。やけどしないように気を付けながら、まずは一口。トマトの酸味とチーズの相性が良すぎる。マリアージュという言葉を使いたい。
「まあ、お察しの通りあの二人から追加聴取しなきゃなんだけどー。どうも向こうは向こうでごたごたしてるっぽいね。まあ社員が自殺未遂なんて、まともな会社ならすわ労働問題かって考えるだろうからねえ」
なるほど、やっぱり前職はブラックだったんだなとカモミールティーを飲み終えて追加したアイスレモンコーヒー(レモンシロップで水出しアイスコーヒーを割ったものらしい)を飲みながらスマホを弄るマキウチさんを眺めて思った。わたしの同僚が会社の屋上から飛び降り(運よく花壇がクッションになって骨折で済んだ)した時も、単なるノイローゼでしょうで乗り切ろうとしてたもんな。
嫌な気分ついでに前職場に関してこっそり調べたら、どうやら私の退職後に入社した地主かなんかの坊ちゃんが病んでしまい、それで親が訴えた結果、わたしや飛び降りた同僚やらもろもろの余罪がボロボロと明るみになって、ヤバいことになってるらしい。ざまあ。
「まあ、君の元職場みたいなとこもないわけじゃないけどね。ただ少なくともカブラキリリアは職場を選ぶ目がキジョウさんよりあるわけだ。二回もババひくってさ、君くじ運ゼロだろ」
確かに宝くじやらくじ引きで当たったことないですけど!まあ、ババひいたおかげで元カレを徹底制裁できるんだからそれはラッキーかな、と考えたところでさらにマキウチさんは追い打ちをかけていく。
「それでさあ、なんてこというんですかとか言えないあたりがもうキジョウさんはね、ほんと君は感情が後から来るな」
やめてくださいわたしのライフポイントはゼロです。泣いていいかな……。割と本気で涙目になりかけたところで、マキウチさんがレモンコーヒーうまいね、うちで作ろうかなあとのんびりした声で言い出した。うぐぐ。
もそもそと食べることに集中した。小さめのクロワッサンをまず一口大にちぎって食べる。美味しい。芳醇なバターの風味が広がる。よし、切り替えるぞ。まだ仕事は終わってないんだもの。
「そういうところは、君の美点だよね」
……どういうところだろう。聞こうと思ったら、さっさと食いたまえと促されてしまった。ああ、多分もう聞きそびれたままで、ずっと言う機会はしばらくなさそうだな。早くても今日の夕方まで、聞けそうにない。レモンの輪切りをかじりながら、にらみつけるように自分のスマホを操作するマキウチさんを眺めてそう思った。
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