超常現象 あるいは怪物 ⑪
話していると、なぜか乙宮姫子から今日はしなかったはずの、「この世の臭いもの欲張りセット」の臭いが届いた。鼻をつまんだが、物理的なにおいではないせいか、さして効果はない。恐る恐る目線を動かして、臭いの発生源を探した。乙宮姫子の隣に立った、若い男性教師だ。やや長めに整えた茶髪にラフに着こなしたスーツ姿は、教師というより何となく、水商売の人のように見える。華やかな顔立ちも相まって余計にそう思えた。
この人も女子生徒に人気があるらしい。媚びたような声で何人もの女子生徒が、その教師に挨拶をしていく。それににこやかに答えている様子は、女性に好意を持たれることに大変慣れているという印象を受けた。
なんだろう、胡散臭い。紀乃は率直に思った。悪臭を漂わせている(紀乃にしか認知できないが)せいで、余計にそう感じるのかもしれない。
「一美先生と全然違いますね」
担任の山内の顔を思い浮かべながら紀乃はそう述べた。比較したのは単に若い男性教師の実例として彼しか思いつかなかっただけである。しかし刑部から、恐るべき事実が告げられた。
「……紀乃、あの教師は設楽の親父じゃぞ」
「えっ!?嘘!?」
思わず叫んでしまった。恐る恐るちらりと校門のほうを見る。距離があることもあり、聞こえてはいないようだ。そしてまじまじと設楽教師の顔と、もう一度設楽青年の顔を見る。親子というが、顔だちはあまり似ていない。
高校生の息子がいるなら、あの教師は三十は間違いなく超えていることになる。若々しい、と感心するより、余計胡散臭いと感じてしまう。それに自分の息子と同年代の女子相手にして、にやついているのは気持ち悪い。悪感情を抱いた途端、余計に臭いがきつくなった。げんなりしてもう帰ろう、と思った時である。
「……こんなところで何してるんだお前」
後ろから声をかけられ悲鳴が出そうになった。振り返ると、山内が訝しむように紀乃のことを見ていた。学校ではスーツしか見たことがないので、私服の山内は新鮮だった。チェックのシャツにチノパンというラフな格好がよく似合っている。原宿辺りを歩いたらスカウトされそうだとこっそり考えた。紀乃は知り合いだったことに安堵しつつ、それはこっちのセリフですよ一美先生!と思わず言い返した。
山内を一美先生、と呼ぶ理由は単純だ。かつてもう一人山内先生がいたから、区別のためである。今は「山内先生」は彼一人しかいないのだが、わざわざ改めるまでもなかろうと考えそのまま「一美先生」と呼び続けている。
「別に、買い物だよ」
山内がマイバッグを見ろと言わんばかりに眼前に突き付けてくる。少し歩いたところにあるスーパーの朝市に行くつもりらしい。お前こそなんでこんなところにいるんだと問い詰められた。
さすがに乙宮姫子の顔を見に来ました、とは言えない。言ったらどういうつもりだ、と叱られるのが目に見えている。散歩と言った以上、これ以上の長居は難しかろうと判断した。しかし意外にも、山内は時計を見ながらまだ時間があるな、と話を続けた。
「開店時間まで、お前と立ち話して時間つぶすか」
「人を暇つぶしに使わないでくださいよ」
口を尖らせたが、実際話しているほうが気がまぎれる。ついでに山内から、乙宮姫子のことを聞き出したかった。あの顔からして、何か知っているのは間違いない。しかしどう切り出そう、と考えていると、山内の顔がみるみるあの時のように青くなった。目線を追うと乙宮姫子がいる。
「先生、顔色悪いですけど大丈夫ですか」
聞いたが無視された。心配してるのにひどい、と口を尖らせてみる。しかしやり取りを見ていた刑部から、「その不細工な顔はやめ」と頬をつねられる羽目になった。山内が乙宮姫子を見たままなのをいいことに、コソコソと刑部と話し合う。
「一美先生、乙宮姫子と何があったんでしょう」
「うーん。言うた通り、あれは元は関西の方にある神社の出じゃ。高校から東京に来たみたいじゃから、中学の時に接点があったんかね?でも紀乃の先生、わしより若いじゃろ?」
「お言葉ですが、わたし師匠の歳知らないんですけど」
指摘したところ、刑部は「しもた、ひんとを与えてしまった」と口元に手を当てて顔を背けた。過去は聞けずとも、年齢は何度か聞いたことがある。けれども子どもの頃ははぐらかされ、中学生になって改めて聞いたところ「お前がわしの年追い越した時に教えてやる」と言われて、結局教えて貰っていない。とりあえず今年二十五歳になった山内よりは年上らしい。なので年を追い越すのに、今から十年以上かかることは確定した。
微妙に話がずれてしまったが、刑部の指摘は、たしかに気になるところだ。浅からぬ因縁があるのは確かだろうが、二人の始まりはどこなのだろう。
「先生、新任だと思ったんですけど違ったのかな」
山内の年齢は、一年生の時に自己紹介で本人が話していたから間違いない。その時に二十三歳だ、と言っていたので、てっきり新米教師だとばかり思っていた。新人に担任をいきなり任せるのかどうかは脇に置くとして。
「情報取った時にそこも拾っとけばよかったな。ただ、味噌っかすだから昔っからいじめられとったみたいじゃ。今もじゃけど」
味噌っかす、という辛辣な評価に、口の中が苦くなった。この師匠、本当に遠慮がない。そして悲しいことに、その評価は正しい。たまに設楽青年のことが好きらしい女子が睨んでいくくらいで、ほとんどの生徒は乙宮姫子をまるでいない物のように扱っているから。
「師匠って本当に遠慮ないですね……」
「言うてじゃ、どうせ敵だもの。遠慮なんかするかよ」
ふんと思い切り鼻で笑われた。今は顔を布で隠しているので目でしか表情はうかがえない。けれどもその目元が何よりもその感情を雄弁に語っている。刑部にとって、時を経て代替わりを幾度したとて、乙宮とその周りは『敵』なのだ。
紀乃とて別に遠慮しているわけではない。あの黒々とした化け物の姿に見えた乙宮姫子が何者なのか測りかねているだけだ。そもそも人間があんな風に見えたり、人から臭いを感じたのは初めてだった。おまけに今は、別の人間からも臭いを検知してしまう。
「皆さん、もう始業時間ですよ。早くしないと閉めますからね」
唇を噛んで何とか吐き気を押さえ込んだ。気持ち悪い。全身の毛が逆立ったような心持ちだ。
設楽教師が生徒を促しているのだ。別に口調は普通だし、穏やかな呼びかけは教師として模範的だろう。けれどもその奥に、何やら得体の知れないものを抱えていると思えて仕方がない。おまけに「この世の臭いもの欲張りセット」の臭いが更にきつくなった。
「紀乃、なんねどうした」
よほど顔色が悪かったらしい。心配そうに顔をのぞかれ、紀乃は泣きたくなった。ここで吐いたら負けだ、と思うが気持ち悪くて仕方ない。血が出るかと思うほど強く噛んでいるのを見て、刑部は可哀想に、生身の身体ではやっかいじゃ、と優しく背中をさすってきた。
「まあ先生の前でゲボ吐く訳にはいかんもんな。気晴らしになりゃいいが、わしの袖貸してやる」
その顔で平然とゲボという言葉を使うなと文句を言いたかったが、口を開けば何か出そうなのでつぐんだままでいた。刑部が手を引っ込めて着物の袖を紀乃に突き出してきた。幽霊に匂いはないと思うけどなあ、と思いつつ近寄ると、ほのかに甘い匂いがした。
「……蓮の花の匂いがする」
「ほんまに鼻がおかしくなっとらんか。大丈夫かね」
「でも本当にしますよ。甘ーい、いい匂い。落ち着く……」
もし幻だとしても、あの教師や乙宮姫子から放たれた臭いを思えば遥かにマシである。蓮の花の匂いは、夏休みに曽祖父の家に行く度に嗅いでいて馴染みがある。それもあって紀乃の気分はだいぶ落ち着いた。
けれども刑部からすれば、本当に大丈夫なのかと心配の材料が増えたらしい。病院に行って治るかしら、とまで言われてしまった。行くとしても、何科にかかればいいのだろうか。脳のエラーということで脳神経に関わるところだろうか、と考えていた時だった。
「まさか、その臭いというのは紀乃しかわからんもの?本当に漂っているわけではないのか」
物凄く訝しむように言われ、紀乃の方が面食らった。幻覚ならぬ幻臭だとは思っていなかったらしい。化け物みたいに見えた、と言った時に一緒に言ったので、てっきり通じているものと思った。
「師匠、くさやの臭いは町なかでしたら、そこそこ騒ぎですよ?」
「うん……。さっき、洗わんかった靴下くらい臭うって言ったじゃろ。こんな所まで臭うくらいならそりゃ嫌われるわと思って。ほんまに臭うもんじゃと」
そしたらもっと露骨に罵倒されると思う。けれども刑部から見たら、素通りしていると思っていた生徒たち全員、一様に侮蔑の目線を乙宮姫子に向けていたらしい。臭いに気を取られたせいか、かえってその冷たい目線には気づかなかった。
話をするさなか、ふわりとヒノキの香りがした。振り返ると、山内が立っていた。
「……先生ヒノキ風呂に入りました?」
「あいにくそんな高尚なことはしない」
「紀乃、ほんまに大丈夫か?」
何言ってんだこいつ、と呆れた顔の山内に対し、刑部は心配そうに顔を覗き込んでいる。どうしたんかねえ、と困った顔をされたが、紀乃も困る。病院に行く前にひいじいちゃんに聞こうかな、と考えた。
『人間の本質をそれで捉えた気になるなよ。しないはずのものを感じとるやつは、大抵そうやって驕って痛い目を見る』
山内が大変嫌そうな顔で指を動かして紀乃に説教をしてきた。
そんな長文を手話と指文字でやるくらいなら喋ったらいいのに。それに、バレてるんだけどな。
山内は、今度は口に出して、話があるからあの店に行こうと言い出した。指差されたのは、こじんまりとしたカフェだった。
紀乃としては時間もあるし問題なかった。とりあえず梓にどう送るか悩んで、一美先生にあったので勉強教えてもらう、とメッセージを送っておいた。山内は一年生の頃から紀乃の担任なので、梓もよく知っている。
送る最中、刑部が声をかけてきた。山内はそっぽを向いている。
「先生、なんて?」
「しないはずのものを感じとるからって、人間の本質を捉えた気になるな、と」
「ふうん?でもそこまで大袈裟に考えんでも、そいつがクズかどうかがわかるくらいに捉えればいいんじゃないかしら。紀乃がゲボ吐くほど悪臭させた乙宮姫子は救いようのないクズ、と。それに生憎、蓮の花に例えられるほど綺麗な人間じゃないからな、わしは」
面の良さは同等としてもいいが、と付け加えるあたりが不遜である。潔白ではない、と言うだけで済ませられないあたり、存外悪い気はしていないのだと察した。ふふん、と胸を張っているところからも見て取れる。
「でも先生、今だにわしのことが怖いんじゃね。二年も見たら慣れたかと思ったのに。手ぇ振ってあげようかしら」
だから言ったのに先生。どうせ面白がられるだけだから、さっさと見えるって言った方がいいって。
くすくす笑う師匠を見て、紀乃はこっそり思った。
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