超常現象 あるいは怪物 ④

 中間テスト(夜明学園は二学期制である)も修学旅行も終わり、あとは夏休みを待つばかりとなった頃である。紀乃は突発で学校を休むことになった。理由は家族会議のためである。


 家族会議の議題は、紀乃の処遇だ。発端は三年生に進級のタイミングでこれまで干渉してこなかった紀乃の実父、泰政やすまさが親子で一緒に住むべきと主張し、紀乃をこれまで三歳からずっと暮らしてきた祖父母の家から、本来の実家である官舎に連れ帰ったことに起因する。


 泰政は警察官僚だ。現在警察庁の公安部に所属し、内偵のために全国津々浦々を渡り歩いてるらしい、と聞く。その仕事ゆえに身内すらまともに所在を掴めず、梓はいつもぼやいていた。紀乃も泰政の連絡先を知らない。唯一繋がる連絡先を持ち合わせてるのが、北海道に住む伯父である。どういう手段なのかは不明だが、泰政と緊急で連絡を取ろうと思ったら、伯父を経由する方法が確実だった。


 紀乃の処遇が問題になるのは、一緒に住むべきと主張しながらその実四ヶ月も娘を放置しているということである。月一で、金庫に生活費名目のある程度の現金を置くためだけに帰っていたようだが、紀乃はその場面に出くわしたことがない。


 この事態は「佐月による担任教師への密告」を経由して、祖父母と伯父にバレた。紀乃は一人暮らしの練習みたいなものと思って実はこの暮らしを楽しんでいた。そのため祖父母に報告しなかったのである。


 刑部からはほんまにええのか?と何度か聞かれたが、あまりに紀乃が順応したせいか段々何も言わなくなった。なお、実際はその裏で泰政のパソコンや家の電話を操る練習をして、なんとか外部の人間とコンタクトを取ろうとしていたらしい。バレた顛末を聞いて、「あの子に先越されてしもたな」と苦笑いしていたが、その後「このド阿呆、大目玉食らって反省せい!」と凄んできた。


 実際には紀乃へのお叱りは、密告を受けた担任からのもののみで、梓の怒りは泰政に向いていた。梓は「六歳で一人で寄席に行って木戸銭渡してみてくるような子だったんだから、この事態を報告しなかったのは諦めてる」と嘆息するのみだった。それを聞いた担任は絶句した。一人寄席見物事件の付添者だった刑部は、「おばば様申し訳ない、わしにこの時代の常識がなかったばかりに、あんな真似をさせてしもた」と手を合わせて謝っていた。張本人の紀乃は居心地悪いばかりである。


 激怒した梓の号令で、まず伯父が泰政に連絡を取り、家族会議をする旨を伝えた。泰政はあっさり、東京は無理だが大阪なら何とか、と返答をした。それを受けて伯父は、じゃあ大阪のこのホテルまで来い、と約束を取り付けた。梓の怒りは収まらず、大分に住む曽祖父・隆志たかしまで呼び寄せる事態となった。かなりの大騒動である。


 なお祖父はこの時、趣味で参加している落語サークルの旅行に出かけて不在であった。行き先が離島のため、便がなく出席を諦めたという。


 そんなこんなでホテルの前で行われた親子の邂逅は、事実上初めてまともに顔を合わせた、といってもいい機会だった。実際は母の法要を含む冠婚葬祭で会ってるはずだが、それでも初めて会う、と思うのはまともに会話をしたことがないからだ。


 泰政の方も紀乃の方をまともに見ず、梓と伯父の北河勝治きたがわかつはる、大分から来た隆志たちにしか挨拶をしなかった。勝治が「お前の娘だろ、紀乃に挨拶くらいしろ」と咎めたが、軽く会釈しただけであった。それを受けて、高級ホテルのラウンジと聞いて目いっぱいおしゃれしたことを微妙に後悔した。褒められたかったわけではないが、何か触れてくるかと思ったのだ。


 普段は明るく豪快な勝治と、きっぷのいいおかみさんキャラの梓がそれを見て荒れ狂った。それを眺めてる紀乃の方が冷静な心持ちだった。何せすぐ隣でもっと怒った顔をしている人がいる。生身なら指の関節がボキボキとなりそうな手の動かし方をして、刑部が泰政を睨みつけているのだった。


 「ほんまにお前、あれの娘か?」


 「あの、それはどういう意味で……?」


 「あれと違って礼儀正しいと褒めとるんじゃ。そうなったのはおじじ様達のおかげじゃろうがな。そういう意味じゃ、ほんまにおじじ様たちの息子かね?」


 紀乃はおじじ様たちに似とるけどなあ、と付け足された。確かに紀乃のことを親代わりで育てたのは祖父母と、数年前に結婚するまで祖父母の家に住んでいた勝治である。それは裏を返せば泰政を育てた人たちが紀乃を育てた、ということでもある。刑部の嫌味混じりの疑問は当然と言えた。おまけに紀乃の親族に対して敬称を使う刑部が、紀乃の父に向ってあれ呼ばわりである。


 「残念ながら、あいつは紀乃の親父で、盛房もりふさたちの息子だし、俺の孫だ」


 渋い顔で隆志が近づいてきた。十年前でもなかなかの高齢だったが、百歳近くなった現在でも矍鑠かくしゃくとしている。なお、盛房とは紀乃の祖父のことである。


 「ひいじいちゃん、急にごめんね?」


 「ガキが気にすんな。泰政のバカが悪い。こんな年になって孫の説教するとは思わんかったけどな」


 「私もまさかこんな年になって甥の説教に呼び出されるとは思わなかった」


 「おう、彰隆あきたか。お前も災難だな」


 隆志の後ろから長身の老父(と言っても隆志より若いのだが)が現れた。紀乃から見て大伯父にあたる、三笠彰隆みかさあきたかである。隆志一人では心配だと、同行してきたのだ。年齢は七十半ばのはずだが、それを思えば若々しい見た目であった。さすがに髪の毛は総白髪だが、量は豊かで、禿げ上がる心配はしばらくしなくてよさそうだ。


 彰隆はため息をついて、まずは梓さんと勝治に挨拶に行かないと、と般若面のような二人のもとへ向かった。彰隆が挨拶に行くと、二人の顔は毘沙門天くらいにはなった。


 「刑ちゃんもご苦労だなあ」


 「大じじ様たちが来るよりは楽よ。身体がないもの」


 初めて出会った時こそじじい呼ばわりだったが、今では大じじ様、という呼び方で敬っている。隆志の方は、年若い幽霊を刑ちゃんと呼び、気楽に接している。そりゃ確かに、とガハハと笑った後、隆志は真面目な顔になった。


 「しかしそうやって言われちまうと、泰政は本当に盛房に似てねえんだよな。かといって梓ちゃんに似てるわけじゃねえしな」


 「でも今、彰隆おじさんとお父さんが並んでるの見たら、ちょっと似てるなーって思ったかも」


 むしろ紀乃はここまで身内にボロボロに言われる父を見て、本当にこの家の人なんだろうか?とか、実はわたし、誰とも血がつながってない?などとあらぬ方向に思考が走っていた。なので伯父と甥にあたる二人がどこか似た面差しなのに安堵したのだ。生真面目さが顔ににじみ出て、似通った印象にしているのだろうか。


 親父に似ないで伯父さんに似るのも変な話だがな、と隆志は苦笑いをした。


「立ち話もなんだし、中に入ろう」


 勝治の号令で全員ホテルに入った。お通夜というほど静かでは無いが、結婚式というほどにこやかではない。居心地の悪さを感じながら、紀乃はホテルに足を踏み入れた。


 本題の前に、説教(糾弾会ともいう)をするため、紀乃とそのお守りとして梓は会場たるラウンジではなく、いったん隣にある喫茶室に入ることになった。


 刑部はあちらの会議のぞいてこようか、と言ったが断った。父親が絞られてるところを、師匠に報告されるのはさすがに嫌だな、と思ったのだ。一体何を言われるのか、想像するだけでげんなりする。


 梓は喫茶室に入る時はまだ冷静な顔だったが、お冷が運ばれてきたあたりから眉が吊り上がりだした。そして飲み物が運ばれたあたりで、仁王像のような顔つきになった。


 「ほんっとうに我が息子ながら信じられない。いくらね、忙しくて会ってないからって、四か月も娘を放置するって何?自分に娘がいること忘れてるんじゃないの?」


 「忘れてたら、こんなことにはなってないんじゃないかな……」


 ラウンジで食事をする予定なので、飲み物だけを注文した。梓はアイスカフェオレ、紀乃はメロンフロートだ。紀乃はちびちびと飲みながら、祖母の剣幕に慄いていた。梓はそれもそうか、と納得して落ち着いたが、すぐまた眉を釣りあげた。活火山みたい、と心の内で思いながらそれを紀乃は眺めた。


 「もう本当にありえない。いっそ紀乃、うちの子になる?十五歳になったら、本人の意思だけでいいみたいだし」


 「むしろそれは私が赤ちゃんの時にやってても良かったんじゃかな……?」


 「あんたが赤ちゃんの時はまだ梨紗さん生きてたわよ!」


 「お前自分の歳勘定せい。わしと会った時が御母堂の三回忌だったんじゃろ」


 異口同音という言葉が脳裏に浮かんだ。厳密に言えば違うのだろうが。梓からのいくらなんでも母親の亡くなった年は覚えてなさいよ、という軽い失望と、刑部のなんでわしの方が覚えとるんじゃいと言う呆れというダブルパンチで紀乃は打ちひしがれた。そう真っ向から言われてしまえばしおしおと縮こまるしかない。梓はそういえばもうすぐ十三回忌なのよね、どうしよう、と普段の調子で呟いていた。それを聞いてああ刑部さんともう十年の付き合いなのか、と紀乃は考えていた。


 母・梨紗については、断片的な話しかこれまで聞いていない。多分父がもう少し身近にいたなら、馴れ初めの詳細など聞けたのだろうが、そうではなかったのであまり聞く機会がなかった。そのうえ、遺影がピンボケで、それ以外の写真が一枚もアルバムに挟まっていないのである。朗らかな祖父母と伯父が嫁いびりのような真似をするとは思いたくないが、母のことは我が家のタブーなのでは、と子供心に思うには十分だった。


 けれども梨紗さん、と梓から母の名前が出たので思い切って聞くことにした。本当は、もっと早く済ますべきだったと思うが。


 「あのさ、今さらだけど……おばあちゃん、お母さんってどんな人だった?」


 そう聞いたら、やはりあんたなんで今まで聞かなかったのよ!こっちは準備してたのよ!と梓に目を剝かれた。ごもっともでうなだれるしかなかった。今更過ぎるじゃろう、何で聞かんね、と刑部からも呆れられた。梓はため息をつき、まあ遺影のこととかあって聞きづらかったとは思うし、わたしたちもちゃんと話さなかったしね、と表情を緩めた。


 「そうねえ、よく笑う明るい子だったわ。梨紗さん、早くにお母さん亡くしてるから、わたしのことお母さんができたみたいで嬉しい、って言ってくれてねえ。いい子がお嫁さんに来てくれたわ、って思ってたんだけどねえ」


 後半は涙目だった。わたしも娘ができたみたいで嬉しかった、レシピ教えたり、一緒にドレス選んだりするの楽しかったわ、とハンカチで目尻を抑えている。梓自身は息子三人の母だから、娘との交流というのは経験したくてもできないことだ。泣きながらも口元には笑みが浮かんでいたので、梨紗との思い出は梓にとってとて楽しいものだったらしい。早く聞いておけばよかったと後悔した。


 「泰政も梨紗さんと結婚してから表情が明るくなったしね。でもきっと、いちばん嬉しかったのは、紀乃が産まれたことだと思う。二人ともすごく笑顔だったのよ」


 「そうなんだ……」


 じゃあなんで娘を放ったらかしにするんじゃ、と横で刑部が苦い顔をしていた。確かにそれはそうである。


 「でも梨紗さんが突然……泰政もそれで仕事人間になったんでしょうけど……。梨紗さんが生きてたら、もう少し家庭を省みたと思うとね、本当にどうしてって思うわ」


 そうなると間違いなく刑部とは出会ってないので、人間の巡り合わせ(幽霊含む)というのは、運命という名の歯車の噛み合いなのだと思わされた。刑部の方も「お前の御母堂には会ってみたかったが、そうなるとそもそもお前とわしは出会っとらんものな。難しいのう」と呟いている。全く同じことを考えていたことに驚きつつ、出会い自体が無くなることを惜しいと思っているのが少し嬉しかった。母には悪いが。


 すると、紀乃のスマートフォンが着信を知らせた。誰だろう、と思えば担任の山内一美やまうちかずみからである。緊急用として通達された携帯電話の番号がディスプレイに出ている。えー、ちゃんと休みの連絡入れたよね、と思いつつ梓に断りを入れて電話に出た。


 「一美先生、何かありましたか?」


 「今、お前がどこにいるか知ってるが、あえて言う。石田が屋上から転落した。今病院に運ばれて治療を受けてる。東京駅まで来たら迎えに行く、今すぐ戻れないか」


 「えっ何言って、えっえっ」


 山内の声は全体的に震えていたが、最後だけは力強かった。今から東京に戻る。何時間かかるだろう。


 紀乃は話を聞きながら、新幹線って切符いくらだっけ、わたしいくらお金財布に入れてたっけ、ということを考えていた。顔色が尋常ではなくなってるのか、梓からなに?と聞かれている。けれども説明したくても、状況を呑み込めず言葉が出ない。


 「紀乃、息を吸え」


 息を吸い込むと、少し落ち着いてきた。背中にかすかなぬくもりを感じた。刑部が背中をさすってくれているのだ。紀乃は、今すぐにでも東京に戻りたいじゃろ、と思考を先読みされた。そう、可能なら今すぐに行きたい。どこでもドアがほしい。駅と言わず佐月が運ばれた病院まで一足で行きたい。でもそれは無理だ。じゃあ何をしなければいけない。


 山内は紀乃の返事を待っている。まずここに、わかりました、と返事をした。また乗ったら連絡してくれ、と山内の電話は切れた。ふう、ともう一度息を吸う。かばんを漁って財布を出す。一万円札が三枚中にあった。さらに用心で封筒に入れた五万円がある。十分足りる。


 「おばあちゃんごめん、今先生から連絡あって、さ、さっちゃんが……」


 そこで詰まった。だって信じたくない。嘘だと言ってほしかった。けれども明らかに山内の声は冗談の声じゃなかった。そもそも山内はそんな笑えない冗談を飛ばすような人間じゃない。


 けれども説明している時間さえ惜しく、わたし行かないと、とジュース代分の千円札だけむき身で渡した。後はとにかく一番早く東京まで戻るにはどうしたらよいか、ということしか頭になかった。


 背中に待ちなさい、という梓の声が刺さったが、振り返らなかった。ホテルから大阪駅は目の前、迷いようもない。さすがに駅の中でもたついたが、それでも新幹線のマークがある方を目印に走って行けばよいと思いついたらスムーズだった。学割が利くという理由で持ってこさせられた学生証を係員に見せ、代金を支払う。急ぐように切符と領収書を受け取り、東京行ののぞみに飛び乗った。

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