乙さんは巻き込まれやすい為、昔から色んな不可解な事を経験してきた。そして何度も命がけのやりとりをし、生き残ってきた、と言う。その都度その都度、正しい選択をしてきた、とも

乙さんと共に異世界に巻き込まれて、乙さんと別の選択をした為、精神に異常を来し、後日、原因不明の奇病により死んだ人も、判断を誤った結果、戻れず、行方不明になった人もいた。と乙さんは淡々と語っていた。

乙さんは異世界に入る、つまり、この世ならざる事象、モノに出会った時に一番やってはいけない事はパニックに陥る事だといって居た、これをしてしまうと大抵は死あるいはそれ同然の精神異常になるという。

異世界の中の何かが脳に浸食する一番の隙だとの事

だから突然目の前に何かが現れても、無いはずの六本目の爪で腕を引き裂かれようとも、パニックにならないようにしなければならない、

異世界ではパニック=死なのだ、と

乙さんはどんな所へ連れて行こうとも基本的に普段とは変わらない。俺はそんな乙さんが隣にいるから、どんな心霊スポットにも行けた。俺はなめていて、そして自惚れていた。

俺はある時、心霊スポットに一人で行って、どうやら乙さんの言う異世界に紛れ混んでしまったらしく、足が5本ある大きな狗と出会ってしまった。始めは野良犬だと思って狂犬病にならないよう遠くに居たその狗に警戒していたが、尻尾ではない、躯体から伸び出た一つが足だと分かると俺はパニックを起し、気づいたら走り出していた。そして息が切れ、立ち止まる。振り返る、すると下の方で黒い影見えて、即座に下を向いてしまった。そこには真っ黒な目でこちらを見る。鼻先が犬の顔の様に歪に伸びた人の顔があった。そしてニタァと口角を挙げて不気味に笑っていた。

その後の記憶は無い、俺は気づいたら家の布団の中にいた。しかし服装は心霊スポットに行った時と同じで、隣には投げ出されたように携帯と財布が転がっていた。携帯で日付を確認する。

表示された日付は当日だった。その日から俺はどうやらお持ち帰りをしてしまったらしい。

初めに異常が起こったのは二日後だった。寝ている最中。夜中、3時53分ごろ、俺は目覚め、目が天井に釘付けになった。布団からでたらヤバイと何かが俺に警告する。

オギャア、ホギャア・・・

赤ちゃんの泣き声が天井から聞こえる。そして俺の見つめる先の天井に闇の中、全てを呑み込むような黒い四角形が俺の正面の天井に張り付いていた。俺はその黒い四角形を見つめる。

オギャア、ホギャア・・・

赤ちゃんの泣き声がだんだん、大きくなってくる。

黒い四角形が俺に近づいてくる。赤ちゃんの泣き声がもう耳を防ぎたいほどの大音量になって部屋の中に鳴り響き、黒い四角形が俺にのしかかった瞬間、俺は「うわっ」と声が漏れた、

その後、辺りは何事も無く静まり返っており、俺は布団を頭からかぶり、震える体を抱きかかえるようにして目を閉じた。

俺はそのころから、長時間続けて眠る事が出来なくなった。夜中何度も目が覚める。

まるで俺以外部屋に何かが辺りに居る様な気がした。気がしただけだ、と思う、実際に俺以外誰も居ない。しかし部屋の中に居ると猛烈に吐き気に襲われ、トイレで度々吐いた。俺はそれを会社でのストレスからのものだと思った。病院にも行った。不摂生が原因と言われた

次に不可解な事が起こったのは七日後だった夜中2時37分、俺の足元に赤い服の女の人が立っていた。項垂れ、長い髪が顔を隠しているが正面はこっちを向けている。

あまりにもリアルで、俺は見つめたまま、動く事が出来ず、玄関の鍵の閉め忘れを心配する。瞬きの瞬間、何事もなかったようにその女性は俺の足元から消えており、俺は意を決して布団から出て、玄関を確認するが鍵はちゃんと閉まっていた。

その日から部屋から出る時と入る時の鍵の戸締りが気になった。その為、遅刻してしまう事も度々あった。その都度、言訳を変えて、会社には伝えた。会社の方はそれを鵜呑みにしてくれた。申し訳に無い気持ちでいっぱいになり、仕事で返そうと思うが集中できない。そして俺は業務中でも吐き気が襲う事もあり、トイレに行く機会が増えた。


次は不可解な現象は来たのは、十日後だった。

それは寝付いた瞬間だった。目覚める俺、夢か現実か曖昧で朧げな視界の中、足元に禿げた爺が床に張り付くクモのような姿勢の四つん這いでこちらを見ていた。そして俺と少しばかり目が合うと、次の瞬間飛び掛かってきた。

俺は「わっ」と顔を逸らし、腕で防御すると体に衝撃は無く、爺は消えていた。

俺は眠れない連日とそれにより積み重なった疲労で目を閉じるが一時間以内に目覚めてしまう。隣に小さな蜘蛛が這っており、俺はそれを勢いよく潰す。後日、マンションの住人と出会い苦情を言われる。夜中、うるさいと、暴れた覚えは全くなく、俺は、すいませんと平謝りをした。俺はいつか大家から電話が来て、出ていけと言われる気がした。でも明日には仕事がある。引っ越す予定は無い、俺の部屋はゴミで埋め尽くされ、腐臭がする。しかし、仕事がある、俺は布団に潜る


そして一番最近起こったのは十一日後だ

夜中、何度目かの目覚め、また一時間も寝てない、と鈍く重苦しい頭を抱えていると、ドンドンドンと三回、誰かがドアを強く叩いてきた。

俺はびくっと震えあがり、そして夜中の突然の訪問者にかマンションの住人か酔っ払いが来たと思い、警戒し、俺は体を起こし、玄関に向かう。こんな状態でも危機感が残っておりチェーンを掛け、のぞき穴から外を見る。そこには電灯の明かりに照らされた白明るい廊下が広がっていた。

俺は誰も居ない事に安心した。しかし確かにドアは叩かれた。その事実を確認する暇は無い、明日は仕事だ、眠れなくても寝なければと思い、俺は布団に包まった。いつの間にか朝日が差していた。いつも通り寝た気がしない

煩わしい・・・消えてしまえばいい

俺は朝日が差すカーテンを一気閉め、出社の準備をした、そして俺は出社した、動きたく無い、疲労感が俺の歩みを遅くする。しかしこれ以上は迷惑を掛ける訳には行かないという使命感だけで俺は職場の椅子についた。その日、上司に会議室に呼ばれた。連日のミスがたたり、上司は俺を本当に心配していた。大丈夫かと、それに対し俺は申し訳ありませんと答えた。そして最近あまり眠れてなくてと事実と言い訳をした。上司は病院に行けと俺を午後から早退させてくれた。医者には通った。意味がない、俺には帰る場所が無く、公園で時間を潰す、そして日が沈んだ頃、諦めて自室に戻る事にした


帰宅してドアノブに手を掛けた時、思い出した。この廊下の電灯は一か月前から壊れてついていない事を、俺は暗い廊下の中、ドアノブに手を掛け、呆然と立ち尽くした。

俺は限界を悟り、乙さんに電話をした。そして頼み込んで部屋来て居残ってもらえる事になった。乙さんは終始嫌そうだったが、俺の必死の懇願に折れて渋々承諾した。

乙さんは俺の部屋に来て、俺と部屋の様子を見ると、色々と悟ったようで、家事とか、ゴミ出しとか、色々、世話を焼いてくれた。

随分と鏡を見ていなかった、酷く憔悴した顔をしていたのだろう


そして俺は乙さんが作ってくれた飯を食い、乙さんと雑談をしながら、寝る時間になったので布団を敷き、電気を消し、横になった。乙さんは未だ寝ない様で端の壁に背をつけ静かに座っていた。

なにも無い匂いと言うのが随分久しぶりだった。

布団の匂いもしない、それが俺を安心させた。


俺は積み重なる疲労の中、布団に身を潜らせる

そして今度現れるまで間、後何日ぐらい乙さんは俺の部屋にいてくれるだろうと、考え、いつのまにか意識を失った。


時刻は3時11分だった、3回目の中途覚醒、何かが俺を警告し俺は布団から出ずに足元を見る。赤い服の女が立っていた。俺は乙さんが居た方向を見る。そこには濃い闇が広がっていた。

俺はさっきまで乙さんと一緒に居たのが夢だと思った。本当は乙さんに電話なんてしておらず、今日も変わらず一人で過ごしていたと、俺は足元を見る。長い髪で顔を隠した赤い女がこっちをじっと見ていた。

乙さんが居ると安心しきっていた俺は一人だけの状況になった状況に汗が滲むのが分かるが、何も滴らない、見つめる俺の視界の中、暗闇で赤い女の体が前後に揺れ始めた。

あの女は前回は立っているだけで消えていった。しかし今回は異なっている。

その様相はまるで其処に居る様で、俺は乙さんが居たと思って、鍵の確認をしていない事に気づく

揺れる赤い女は本当に其処に居た。

俺は女から目を離す事は出来ない、一度でも目を逸らすと襲ってくると思った。俺は今迄の女性関係を思い出すが、こんな女全く知らない、こんな赤い服を好んで着る人物など全くいなかった。いつ恨みを買ったのか分からない・・・

俺はストーカーに襲われたと思うが、どうにも出来ないと悟る。触れらる、触れないのにも関わらずどうしようも出来ないと、身体が動かない・・・そいつは変わらずそこにいる

赤い服の女の揺れが大きくなる。

時間は差し迫っていた。思考で埋め尽くされる脳内、対応方法が思いつかない、体に力が入らない。動けない、

赤い服の女が前のめりの状態で止まった。次は一歩踏み出してくる。そう思った瞬間、一瞬で脳が空になった

そしてあぁ、終わった、と思ったその時

「何か見える?」

暗闇の中からはっきりとした声が聞えた。俺はその声で思い出した、乙さんが今日、この部屋に来ていた事を。夢ではなかった。でも俺は答える事が出来ずに赤い服の女を見つめる

「お前が起きているのは分かっていた。様子がおかしいが何かいるのか?」

俺は答える事が出来ない、

口を開いたら女が口から入ってきそうでぐっと閉ざす。女は立ち止まったまま動かないが未だ其処に居た。

乙さんは無言の俺を無視して続ける。

「何が見えたにせよ、何が居たにせよ、これだけは頭の隅にでも置いとけ」

そして、乙さんの声は一段階低く、重くなった

「まずはどんな状況でも一旦は冷静になる事、そして次に状況の把握、それが困難か、これ以上少しでも考えたらやばいといった場合なら、そんな時は理不尽に怒れ」

理不尽に怒れ、なにか命令されたように感じ、俺は女を見る。するとこの状況に内からふつふつ力強いものがこみ上がってきた。脳内で言葉が湧いてくる。

何でいるんだ、なにもんだ、てめえ

更に暗闇の中から声が続く

「異常なモノ、尋常ならざるモノ、そして、他人にしろ、決して遅れをとるな、存在そのものに理不尽な謂れの無い怒りの感情を滾らせろ、そしてその思いは心の中で留まって置け、お前が見たモノはお前しか知らない。誰にも分からない、ただ依然としていろ」

その声の主は闇に染まって見る事は出来なかったが確かにそこに居た。そして言った。

「お前の知らない世界があるのを知っているだろう・・・」

闇の中、聞こえて来る乙さん声は鐘楼が響くように闇の中ゴーンと動かない俺の身に響いた


額に血液がこみ上げ熱くなった俺は赤い服の女を睨む。もうそこには何もいなくなっていた。暗闇の中の声は締めくくる

「それぐらいならお前でも出来るだろう・・・」

それを最後に部屋の中は静まり帰っていた。そして俺は目を閉じた。次に起きた時はけたたましい目覚ましの音がなっており、乙さんが強烈一撃を目覚ましにお見舞いしている場面だった。

久々に数時間連続して寝る事が出来た。

結局、乙さんに泊まってもらったのは1日だけだった。

その日から俺は寝ている最中、夢かどうか定かでない不可思議な現象に出くわすと俺は怒りの感情を向けるようにした。

始めは眠りを妨げやがってと睡眠妨害についてで始まり、次に何でいるんだ、と存在に対して、理不尽な怒りを相手にぶつけた、大体はこのパターン、それをしている内にいつの間にか相手は消え去っていた。

そうしていくうちに俺の睡眠は改善されて普通に眠る事ができた。

会社の反応も徐々に戻っていって、いつも通りになった

俺は無事に職場復帰を果たし、乙さんに現状報告と感謝を伝える為に呼び出した。そして居酒屋で話題が例の対応方法になった

「あの方法、かなり効果的でした。これも乙さんの経験則からですか」

乙さんはつまみの枝豆を食べながら答える

「恐怖という感情は過大妄想を生む時が或る。それに支配されるより前に怒りの感情で埋め尽くせば、恐怖の感情が湧く暇がないからな」

「でも、乙さんが怒ってたり、怒鳴ったりしている所今迄、見た事ないですよ、あっ、もしかして心の中でかなり怒っていたりしてるんですか」

俺は少し小馬鹿にした。酒の勢いの所為で、本心からではない。そんな俺に対し乙さんは意も介さず枝豆を口に放る

「いや、それを使っていたのはかなり前の方だからな」

「じゃあ、今は?」

「ただの事象として観察している」

そういえば乙さんが異常なモノや出来事に出会った時、一切視線を逸らさず、じっと見ている。そんな光景をよく見る。俺はあの睨みつけるような表情の理由に合点がいった。

「お前が見たのは軽い方だ」そして乙さんは枝豆を摘まむ

俺はあの野良犬からドアのノックまでの事を思い返す。あれで軽い方なのか、そして死人や行方不明者を今迄見送って来た乙さんを前にし、俺は死んでいない事を自覚した

「・・・俺にも出来ない事は多々あるが、これが或るもの限界かな・・・」

そう言うと乙さんは枝豆を二粒放り込みトイレに去っていった

正直、意味が分からなかった、そんな訳が分かっているかどうか分からない事をを乙さんは時々言う人だった。でも、今もあの経験は俺にとっては貴重な物で、二度と経験したくないものだが、刻まれた。それから俺は不可思議現象に出会うと、もう限界だとなった時、畏怖するより怒りを覚える様になった。その結果、俺はある程度の耐性を持てるようになった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

乙さんと俺 @Nantouka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る