後編 二人ともお姉さん
空腹に理性を濁らせて、私は女子高生の家に招かれてしまった。
二十五歳の立派な成人済みの社会人がするべき行動ではない。
ないが――。
「お、親御さんは?」
「えー、それはこっちのセリフだよー。カホちゃんのお母さんとお父さんは?」
「……」
エネルギーが枯渇して思考力が著しく低下していたから、私の被害妄想なんじゃないかとも疑っていた。
だけど、やはり彼女――女子高生の織園さんはあきらかに私を年下扱いしている。
そうでなければ、ご飯をつくると言って家にあげることもなかったはずだ。完全に私を年下――小学生なのに留守番して、お腹を空かせている可哀想な子供と思っているに違いない。
家に入る前に、訂正するべきことはわかっていた。いや、今からでも遅くない。
「あ、あの、織園さんは勘違いしているみたいですけど、私は……」
「待っててね、すぐカレーつくるから」
「か、カレー?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと甘口だから」
「そうじゃなくて……」
カレーは煮込み料理だ。誰でも簡単につくれる手料理の代表的な面をしているが、あれは出来上がるまでに時間がかかって面倒である。
私も一人暮らしを始めて直ぐのころ、気の迷いで自炊しようとしてカレーに挑戦したことがあった。
けれどお腹が空いたしカレーでも作ろうか、と買っておいたカレールゥのパッケージで作り方を見ればしんありするまで炒めてさらに三十分は煮込めなどと書いてあった。
私は今空腹なのだ。それなのに今から野菜を切って、肉と炒めて、それからさらにそんな長時間待てるわけがない。
世の中の人間は、みんなカレーが食べたいと思ったらどうしているのか。
私は簡単だ。レトルトカレーなら電子レンジでも温めできて、数分である。
まさか、彼女も成人済みの私にお姉さん面までして、レトルトカレーか?
いや、これから一時間弱かけてカレーをちゃんとつくるつもりなのか?
どっちにしろ、私が本当にお腹を空かせた小学生であれば、満足できるものとは思えない。暴れるぞ。
ちなみに悲しいことに見た目通り苦手なので、辛さへの配慮はありがたいけど。
「……すみません、勘違いさせちゃったみたいなんですが」
帰ろう。帰っておにぎりを食べよう。女子高生の不慣れな手料理では一時間以上待たされる可能性もあるが待てる気はしないし、レトルトカレーであれば私だってつくれる。
「すぐできるからね。カホちゃんはそっちで座って待ってて」
「すぐってレトルトカレーくらい私でも……」
「ん? レトルトじゃないよー、ちゃんとお姉さんの手料理だから期待しててねん」
「いや、その忙しくて、そんな待つとか」
「だからすぐだって、ほらほら、そっちで座ってて。ほら、テレビ観てていいから」
そう言って、教育番組をつけられる。こいつ、ケンカ売っているんじゃないか。
レトルトじゃない、すぐにできるカレー? 寝ぼけたことを言うんじゃない。火の通っていない生の野菜なんか出されたら泣くぞ、私は。
しかし、ここまでされてすごすごと逃げ出すのもどうなのか。そこまで言うなら、そのカレーとやら食べて一言はっきり言ってやるべきではないか。
もちろん教育番組に興味のない私は、ぶしつけと思いながらも部屋をじろじろと見回してしまう。
ベッドがひとつ、多少ぬいぐるみや雑貨などの可愛らしいなにかも飾られているが、全体的に家具も少なく――おそらく一人暮らしではないだろうか。
高校生なのに?
まさか制服を着ているだけで彼女も立派な社会人なのだろうか。いや、高校生でもないのに制服姿で外をうろついている時点で立派な社会人ではない気もするが。
なにかしら、事情もあろうのだろう。
昨日今日越してきた隣人を詮索するつもりも、関わるつもりもない。だから本当なら、こうやって家に招かれて、手料理をご馳走されるなんてのも――相手が高校生でなくたって、私の本意ではないのだ。
今からでも帰るべきか。
ただでさえ一人暮らしの女子高生の家に、正体を偽って上がり込んでいるようで罪悪感がある。実際には、一方的に勘違いされているだけだけど。
「……におい」
キッチンから良いにおいがしてきた。なにかを炒めているみたいだ。つい誘われるように立ちあがってキッチンへ向かうと、制服にエプロンをつけた織園さんが鼻歌交じりにフライパンをふるっていた。
「あれ、カホちゃんどうしたの?」
「……なにをしているんですか?」
「今はね、ニンニクとお肉を炒めてて。それで――」
ピーと電子音がして、彼女は電子レンジからタッパを取りだした。熱そうに見えるが、素知らぬ顔で素手のまま。
「みじん切りにして温めたタマネギとにんじんを入れまるんだよ」
「……え? 野菜をレンジで温めて? なんで? これから炒めるのに?」
「こうするとね、炒める時間がずっと短縮できるの」
そう説明しながらも、織園さんは手を止めず、黒い大きなスプーンみたいなものでタッパーの中身をフライパンに移していった。慣れた手つきで、細かに切られたタマネギとにんじんはすべて綺麗にプライパンへと落ちていく。
十年近く前の記憶。私は家庭科の時間で簡単な炒め物でも中身をまき散らして班のメンバーからひんしゅくを買っていた。当時の私と織園さんは同い年くらいだろうか。別に料理ができなくて困ったことなど――いや、食材だけ買いためて、自炊で済ませていれば私の食生活はもっとマシなものだったはずだ。それなのに。
「で、ここにトマト缶入れてー、ちょっと煮込んでカレー粉を入れたら完成っと!」
「完成!? 嘘ですよね、だってまだそんな三十分もたっていないのに」
「んー? キーマカレーだからね、煮込み時間も必要ないし、こんなもんじゃないかなー?」
「そんなっ! そんな簡単にカレーができるわけ……」
「ほーら、お米も炊きたてだよー。あとは卵黄と粉チーズではいできあがりー」
信じがたいことでがあるが、こうしてたしかに目の前にはできあがったカレーがある。
キーマカレー。
もちろん、私だってそれくらいしっている。キーマなカレーだ。うん、名前以外はよく知らない。
「さ、どうぞどうぞ」
「……い、いいんですか? 本当に?」
「もちろん!」
私と織園さんは、クッションの上に座り、ローテーブル越しに向かい合って座っている。
満面の笑みが正面にあるのは気になったが――まだ私が外見はこうだけれど、成人済み二十五歳という話をしていない――目の前にあるカレーの魔力には逆らえなかった。
「いっ、いただきます」
私が嘘をついたわけじゃない。
そう言い聞かせて一瞬、私はもう我慢もできずカレーに手を付けた。
「あふっ、んぐっ!」
炊けたばかりのお米がまとっている湯気とねっとりしたカレーのルウが口の中でじゅわりと転がった。舌に感じるはずの熱さを越えて、早く味わいたいという欲求が口を動かす。
「んっんっ!!」
まだ口の中が熱さから回復せず、水を飲みたいという気持ちもあったのに、私は無意識に次のスプーンを口へと放り込んでいた。
挽肉のうま味と甘いタマネギとにんじんがスパイスで彩られ広がっていく。
キーマカレーの水気のなさが、お米に味が染みないのでという見た目の直感とはまるで違った。すべての具材が米一粒と変わらぬ大きさで、口の中で完璧にカレーと混ざり合っていく。
これがキーマカレー!?
あんな短時間でできた料理が、こんなに美味しいのか!?
「あはっ、すごい食べっぷりだね。カホちゃん大きくなるよー」
「お、大きく!? 私が!?」
「うんうん。五年もしたら、カホちゃんもあたしみたいに立派なお姉さんになれるよ」
五年後の私はもう、三十歳だけど。
――でも考えて見れば、ずいぶんとろくな食事を取ってこなかった。今更ではあるが、これからでもちゃんとした食事を取れば、まだ十分巻き返しのチャンスはある!?
「って、そうじゃなくて!」
カレーを瞬く間に胃へ収めてから、ようやく私のまともな判断能力が戻ってきていた。
「その、さっきから織園さんは勘違いしていると思うんですけど……」
「もー、カホちゃんってば、さっきからずっとそんなしゃべり方でお利口さんなんだねー。でもあたしのことはお姉ちゃんでいいんだよー? ミトンお姉ちゃんの方がいいかなー」
「じゃ、じゃなくてですね」
「うんうん。あたしもわかるよ。お留守番ばっかりで、カホちゃんも自分でしっかりしなきゃってがんばっているんだよね。でもね、お隣さん同士だから、これからはカホちゃんが一人で困っているときは、いつでもあたしのこと頼ってね。美味しいご飯、すぐにつくるから」
織園さんは、いつの間にか私の頭をなでていた。
年下がなにを――と思えば、彼女の表情はどこか寂しげで、私にお姉さんぶる様子とは違っていた。寂しいのは自分の方なのではないのか。
「……えっと、まあ、その、たまにはお願いして良いですか」
私は彼女よりずっと年上で、本当は私の方がお姉さんなのだ。
だから、そんな顔をしたら、嘘でも元気づけようとするのが、大人なのではないか。
「うんっ! 遠慮しないでいつでもいいからね! そうだっ、デザートにいいのあるよっ」
まぶしいくらいの笑顔を浮かべた織園さん――姉と呼ぶつもりはないが、まあ年下の知り合いとしてミトンさんくらいには呼んでも良いか――はパタパタと冷蔵庫へ走って行く。
子供だな、と私も微笑む。
――って、そうだよ、子供相手に私はなにをしているんだ。
ご飯をつくらせて、デザートまで!? お金、払えば良いのかな。そうだよ、材料代はせめて。でもそもそも女子高生の家に上がり込んでご飯ご馳走されている社会人って――捕まる!?
馴染みの警察官の「やっちゃっちゃいましたねー」と言うにやつき顔が浮かぶ。
待って、そもそも私が本当に小学生だったら、捕まるのはミトンさんだよね!?
ご近所同士だし、もし同年代であれば誰かの目についても問題にはならないと思う。しかし実年齢であれば私が、見た目であればミトンさんがなんらかの罪に問われるのではないか、そんな気がしてならない。
やっぱり、ご馳走になるのは今回切りにしよう。
そう思うのだけれど、
「はーい、プリンだよー! ね、今度は、カホちゃんなに食べたい? お姉さんが得意な料理は、たとえばねー」
美味しい食事への欲求と彼女の楽しそうな顔、そこに出されたプリンが重なって、今の私には正直なことを言い出すことなんてできなかった。
……まあ、同性だしセーフだよ。
こうして、しばらく成人済み二十五歳社会人の私は、女子高生に手料理をご馳走される日々を過ごすことになるのだけれど。
お腹いっぱい食べて大きくなったら実年齢がバレてしまうかもしれない!! それまでにちゃんと本当は二十五歳で私の方がお姉さんだって言わないと!!
――そんな日が、いつに来るのかは不明である。
―――――――――――――――
最後まで読んでいただきありがとうございます。
不定期更新の長編にしようと思って準備していたんですがいつまでも準備が終わらず短編として投稿させていただきました。
折を見て続きを書ければ……という気持ちはあるのですが、しばらく先になると思いますので短編として完結です。
あっさりとしていますが、レビューでの評価や、感想を伝えていただけますと大変嬉しいです!
飯をつくる女子高生と小学生女児じゃない私 最宮みはや @mihayasaimiya
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