菜知らず
あべせい
菜知らず
「あなた、またコロッケにソースを掛けるの?」
「いけないか? コロッケにソースは当たり前だろうッ。それに、おれは、このソースが大好きなンだ。キミと結婚する前から、このソースを使っている。キミよりもつきあいが長いンだ。悪く思うな」
「そういうことじゃなくて、あなた、なんにでもソースを掛けるでしょ。フライだけじゃない。カレーライスやオムライスはまだ許せるけれど、天ぷら、冷奴、魚の塩焼き。いちばん理解出来ないのは、朝のトーストよ」
「おまえは、ソースの味がわからないから、そういう無分別なことが言えるンだ。いいか、このソースは……」
夫の龍二はそう言って、食卓にある細長い円柱の形をしたソース瓶を手にとった。
結婚して7年目の夫婦。3才の娘がひとりいる。
「信州の老舗清酒メーカーが、年間500本限定で作っている特別なソースだ」
すると、妻の草絵が、指を折りながら、
「その話、これで12回目だわ」
「まだ12回か。まだ言い足りないな」
「いいわよ。ソースとして使うのは勿体ないというのでしょ。そのまま、ご飯にかけて食べてもおいしい、って。でも、そのソース、250㏄で、3千円は高くない?」
「高い!? 高い、って、どういうことだ。おまえの香水は高くないのか。わずか、30㏄の小瓶でいくらする?」
「それは……比較するのが間違っているわ。香水とソースじゃ……」
しかし、草絵はそのまま押し黙った。言われてみると、もっともだと考えたからだ。
香水も高級ソースも、2人にとっては、いわばどちらも趣味の範疇に入る買い物だ。
「ご馳走さま」
夫の龍二は、箸を置くと同時に起ちあがった。
2人の仕事の関係で、この家の夕食は、午後8時から始まる。といっても、保育園から連れて帰った娘の里実はすでに食べ終え、いまはリビングでテレビを見ている。あと1時間もすれば、寝かせつけなければならない。
「あなた、待って」
「なんだ?」
「デザートはいいの?」
「スーパーで買って来たプリンだろう?」
「そうだけど……」
「甘さがしつこくて。この前、食べて、後味が悪かったから」
「でも、里実の好物なンだもの……」
「だったら、おれの分も里実に食べさせればいい。おれは……」
「おれは、なに?」
「おれは、寝る」
「もう?」
夫はこのところ、不機嫌になると、すぐに寝室に行く。しかし、寝るわけではない。
草絵は、夫がベッドに横になったまま、あれこれ考え事をしているさまを想像した。
結婚生活7年は、いろいろな意味で、ひと区切りなのかも知れない。草絵は最近、とみにそう思うようになった。
龍二はそのまま2階の寝室に入ったが、「おれは……」の後に言いたかったのは、
「おまえの手作りのデザートが食べたい」だった。
龍二は眠れないことを承知でベッドに入った。すると、こんな食生活でいいのか。つい考えてしまう。
龍二と草絵の食生活を振り返ると、朝はトーストに牛乳、好みでコーヒー、昼はそれぞれ職場ですます。夕食は、草絵が駅から帰る途中のスーパーで買ってくる惣菜がほとんど。
2人は土曜と日曜が休みだが、土曜の夕食は、親子3人で近くのファミレスに行ってすます。
週の日曜日だけ、親子3人でスーパーに出かけ、食材を仕入れて手作りの夕食となるが、ここでもいろいろと問題が起きる。
まず、どちらが台所に立つかだ。
結婚した当初は、妻の草絵が率先して台所に立ち、その都度工夫を凝らして夕食を作っていた。
カレーにはじまり、ビーフステーキ、エビフライ、ハンバーグ、オムライスといった洋食の定番のほか、味噌汁、玉子焼き、肉じゃが、キンピラ、ひじき、炒り豆腐などの和食も、草絵は要領よく、てきぱきと動いて、おいしく仕上げていた。
しかし、娘の里実が生まれると、市販されている粉ミルクと離乳食を使うようになった。夫婦の夕食についても、すぐに食べることができるレトルトパックやパック入りの惣菜を、スーパーで粉ミルクなどと一緒に買って、すますようにした。
龍二も草絵も、ともに役所に勤めている。龍二は地元の役所だが、草絵は隣接する隣街の役所だ。草絵は出産の前後1年間、産休をとった。
龍二がベッドで食生活について考えを巡らせている頃、ひとり食卓に残された草絵も、食生活について考えていた。
娘の里実は顔の見えるところで、テレビを見ている。
夫の龍二が、あの高級ソースを使いだしたのは、いつ頃だっただろうか。
娘の里実が1才の誕生日を迎えたとき、連休を使ってレンタカーを借り、親子で信州に旅行した。
龍二は、前もってインターネットで調べておいた老舗酒造メーカーを訪ねた。その酒造会社では、蔵出しの酒を試飲させるほか、即売もしていた。
そのとき、龍二は、即売している日本酒と一緒に、横に並んでいた瓶入りソースを、真っ先に手に取った。それが、彼お気に入りのソースだった。
瓶には、「菜(さい)知らず」と表記されたラベルが貼ってあり、そのネーミングに龍二は強く引かれた。
販売員は、尋ねる草絵に対して、10年前に開発されたソースで、地元の食材をふんだんに用いていて、どんな料理にも合うように工夫されている、と説明した。
龍二は5本を買い求め、旅の間、旅館で出された料理にも使った。結婚する前は、ネットで購入していたが、旅行すると決めたとき、実際のメーカーを訪ねて、直に手に入れようと計画したという。
彼にとっては、大好きなソースと3年ぶりの再会になったわけだ。
龍二は懐かしい味を再び口にして、
「こんなうまいソースは世界中どこを探してもない」
と、絶賛した。
草絵も少し味見したが、
「別に。おいしいけれど、ふつうの中濃ソースね」
そう言い、彼女にとっては格別の味ではなかった。
しかし、龍二は、
「これがあれば、おかずはいらない。『菜知らず』は、総菜がいらないという意味で付けたのだな」
と言って、ひとり悦に入った。
旅から帰ると、食卓に大威張りで「菜知らず」を置き、欠かさず使うようになった。それ以来、定期的にネットで、「菜知らず」を購入している。
草絵は、龍二が結婚前から愛用していたソースを、結婚3年目で再び使いだした意味を考えた。
食事が物足りないのだろうか。つきあっているときは、食にはあまりこだわらないひとだと思っていた。デート中の食事でも、何を食べるか、どこで食べるかは、いつも草絵が任されていた。
草絵自身は、逆に、食にはこだわりがあった。おいしくない物はいくら栄養価が高くても、食べる気がしない。草絵にとって食事は、美味であることが絶対条件だった。
このため、調味料には、お金を惜しまない。多少高くても、迷わず手に入れる。台所には、調味料の瓶が専用のケースにずらりと並んでいる。
冷蔵庫に入れてあるマヨネーズなどを含めると、その数は100以上になる。
龍二には内緒だが、スーパーで買って来た総菜には、草絵なりの判断で、数種の調味料を加え、独自の味付けを施してから食卓に出してきた。
それでも龍二には、不満なのだろう。スーパーで買う総菜は、種類が限られている。店では「百種類の総菜が揃っています」と宣伝しているが、好みもあり、毎日のことになると、組み合わせを変えて、1週間日替わりの献立にするのが、精一杯。
そうすると1ヵ月、4回同じ献立が出ることになる。確かに、これでは飽きる。飽きるから、大好きなソースで自分好みの味付けする。
龍二の気持ちが、朧げながら理解できるような気がした。
「お袋の味」ということばがある。草絵の母は、津軽で健在だ。母から教わった郷土料理も知っている。しかし、草絵は一度も作ったことがない。龍二の口に合わないと思うからだ。
龍二の母は、10数年前に亡くなっている。龍二も口には出さないが、忘れられない母親の手料理があるに違いない。
里実はどうなる。このままでは、里実の「お袋の味」は、スーパーの総菜になってしまう。草絵は調味料を加え、独自の味付けをしているつもりだが、そんなに変えられるものじゃない。里実がかわいそう……。草絵はそう思うと、テレビを見て無邪気に笑っている娘に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
なんとか、しなければ……。
明日から、夕食は手作りするか。ひとりで毎日は無理だから、龍二と交替で。たいへんなのは、献立だ。献立さえ決まれば、それなりに段取りを組んで、食材を買って作ることは、さほど難しくない。
その献立はどのようにして決めればいいか。インターネットで、手持ちの食材を入力すれば、その食材でできる献立を即座に教えてくれる、便利なサイトがある。こうしたサイトを利用するか。
明日の夕食は、とにかくわたしが作ろう。そして、夫の反応を見てみよう。それが2人で話し合うきっかけにもなるだろう。
翌日、草絵は昼頃、勤務先から龍二にメールした。
「今夜の夕食はわたしが作ります。里実のお迎え、お願いします」
夕食作りと里実の送迎は、毎週2人交替で行っている。里実の送迎を1週間すれば、翌週は夕食の担当になる。
今週の夕食は、龍二の担当だが、週末の金曜でもあり、うまくいかなくても龍二は許してくれるだろう。
退勤が少し遅くなったが、草絵は最寄り駅を降りると、いつものスーパーに立ち寄った。
献立は、昨晩寝ながら考えた。失敗が少なく、負担の少ないもの。そうして出した夕食のメニューは……。
草絵は、野菜売り場から肉売り場へ進み、10数分で必要なものを店内用のバスケットに入れた。
レジに行こうとして調味料が並ぶ通路に入ると、やはり調味料の棚が気になる。何か新しい商品が出ていないか。
調味料の棚を立ち止まって眺めていたときだった。
「すいません」
「エッ」
草絵が声のしたほうに顔を向けると、草絵より5、6才は若い男性が、草絵を見て、緊張した面持ちで立っている。
店の制服を着ているから、店員なのだろうが、草絵には相手に記憶がない。
彼の胸に、「川居」と記された名札が付いている。
草絵は、彼の仕事の邪魔をしているのだろう、と思い、
「ごめんなさい」
と言い、その場から少し離れた。
すると、川居は、
「そうじゃないンです」
「エッ」
川居は周囲に視線を走らせてから、
「ぼく、いつも、貴方がお店に来られるのを楽しみにしています」
「まァ」
草絵は、胸がドキンとするのを感じた。
鼓動が急に早くなる。川居は、眉も眼も涼しい好男子だ。
「いつも、総菜を買っておられます。でも、きょうは、数種類の野菜にポークとビーフをお買いになった。独身のお方かと思っていたのですが、ご家庭がおありなのですか?」
「エッ……」
草絵はどう返事をすればいいのか、わからなくなった。
頭のなかが真っ白だ。正直に言えばいい。簡単なことだ。しかし、彼女の心のなかでは、それじゃ……という気持ちが強く沸き起こった。
どうして?
こんなすてきな青年から、声をかけられるのは初めてだ。浮付いた気持ちでもいい。一つくらい、龍二に内緒の秘密を持ちたい。人妻が恋をするのは、タブーなのか。いや、そんなことはない。プラトニックラブに徹すれば、問題はないはず。
「ご家庭をお持ちでしたら、ぼくは引き下がります。その程度の分別は持ち合わせているつもりです」
川居は、草絵のバスケットのなかを覗いている。一人分にしては多過ぎる。数日分と言ってもいいが、同じポークの厚切りが3枚あるのは、どう考えてもおかしいだろう。
「きょうは仲間と自宅でパーティをするものだから……」
「そうだったンですか。じゃ、まだ、5分早いけれど……」
川居は、手に持っていたシールを、草絵のバスケットにあるポークとビーフのパックに次々と貼りつけた。
それは、タイムセール「4割引き」のシール。
「ありがとう」
草絵は、スーパーで店員と仲良くなるメリットを味わった。
川居は、シールを貼り終えると、草絵に顔を寄せ、彼女の瞳を間近に見ながら、
「また、お話させてください。お来しになるのを楽しみしています。いま以上に親しくなることができましたら、お嬢さんのパーティに招待してください」
「ええ……」
草絵は、頭のなかがボーッとなるのを感じる。
「お嬢さん」なンて呼ばれるのは、何年ぶりだろうか。
この半年、龍二と夫婦らしいことはしていない。食生活も大切だが、性生活も大切だ。わたしには、まだ女性の魅力が……。
川居は、
「お嬢さん、またお会いします」
そう言って、さわやかな笑顔を残して立ち去った。
草絵は、呼び止めることもできず、ただ彼の後ろ姿を見送っていた。
彼はスーパーのどの部署で働いているのだろう。名前は「川居」だが、下の名前は? 住まいは? 年齢は? 恋人は?
いろんな疑問が一度に湧いてきて、胸が熱くなった。龍二と出会ったときと、よく似ている。草絵は、8年前のときめきを、再び取り戻していた。
帰宅すると、草絵は、驚くほどのスピードで、ポークピカタを作った。さらに野菜サラダに目玉焼き、コーンスープも。
龍二はテキパキした草絵の動きを見て、驚いている。帰宅直後の、いつものぐったりしたようすがない。まるで、疲れを知らない時計のように、生き生きとしている。
イイ女だ。龍二は、妻に見惚れ、これまで見失っていた快い感情に浸った。
「おいしいよ」
「ママ、とっても、オイチイ」
食卓を囲み、夫も娘も、草絵の手料理に満足している。草絵は、スーパーでの川居との出会いは内緒にしようと固く心に誓った。
こんどは、月曜日に行こう。
「あなた、明後日の日曜は買い物をやめて、家で過ごしましょうよ。わたし、とっておきのデザートを作るから」
「うれしいけれど。来週の夕食はおまえの担当だろう。こんな調子で続けたら、バテてしまうぞ」
「いいの。わたし、元気のもとを見つけたから」
「元気のもと? なンだ、それ?」
「内緒。妻の秘密……」
草絵はそう言ってニッと笑い、呆気にとられた夫の眼を覗いた。
「秘密はいいが、体には気をつけてくれ。おまえの代わりはいないンだから」
龍二のやさしいことばに、草絵はちょっぴり罪の意識を感じた。
その夜、草絵は龍二に抱かれながら、目を閉じた。
こんなこと、半年ぶり……。龍二に何があったのだろう。わたしと同じようなことが職場であったのだろうか。でも、わたしは許す。わたしと同じようなことだったら、危険はないもの……。アッ、アア……。
草絵は、押し寄せるひときわ大きな快感に身をよじらせながら、川居に会える日のことを思った。
何か、話題を作っていこう。数分間、楽しめる話題。そうだッ、龍二のソース「菜知らず」の話をしてみよう。
でも、こんなこと、いつまで続くかしら。いまは、来週も、その次の週も夕食はわたしが作るつもりで、いるけれど……。
そのとき、不意に、ソースの「菜知らず」は「妻知らず」から名付けたのではないか。
そうだ。そうに違いない。女房がいなくても、このソースさえあれば、食事に不安はない。そういう意味で、開発者は名付けたに違いない。
すると、夫が急にいとおしくなり、草絵は龍二の体の下から両手を回し、夫の体をギュッと強く引き寄せた。
そして……。わたしの秘密は、「妻知らず」じゃなくて、「夫知らず」だけれど、まァいいか。
夫知らずの秘密が行き詰まれば、家事代行サービスもある時代だ。夕食はそうしたところに、頼めばいい。
(了)
菜知らず あべせい @abesei
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