あなたの故郷に無い山

佐伯啓児

00:正解の回答

夜中に不意に目が覚めた。

見慣れない部屋と周囲に転がった空き缶、そして酒の匂いで同僚の家に集まって昨晩から宅飲みしていたことを思い出す。

炭酸の抜けたソーダで喉の渇きは中途半端に癒え、更なる水を求めて起き上がるかどうか悩んでいると玄関から声が聞こえた気がした。

緩やかではあるが風も入ってきているようだ。

念のため施錠されているかどうか確認しようと立ち上がる。

ついでに水も飲もうとのろのろと蠢いて1DKを仕切る扉を開けると正面に共用廊下が見えていた。

どれほど酔っぱらっていようと一人くらいは玄関の開閉程度できるはずだろう。

それが見事と言えるほどに、扉の内側が見えなくなるほど完全に開け放たれていた。

扉の外側は今頃アパートの外壁にぴったりくっついていることだろう。


「「■■さん」」


声が聞こえる。

聞き間違いではない。

喉を震わせず、口の中だけで囁くように発音している。


「「■■さん」」



玄関の向こう側、扉の両側に誰かが立っている。

室内から見えないギリギリの位置で、壁に吸い寄せられているとしか言えない場所で二人同時に名前を呼んでいる。

性別や年齢はわからない。わかりたくもなかった。

異常事態に全身の毛が逆立っていて、喉が締め付けられたように声が出せない。


「「■■さん」」


またもや名前が呼ばれる。

かろうじてそれは自分の名前ではないことだけが聞き取れた。

それ以上聞きたくなくてよろめきつつ後ずさる。

日常に戻りたかった。

酒臭い部屋に戻って寝転がり、床で寝たせいで嫌な夢を見たんだと己に言い聞かせたかった。

寝室の扉のドアノブを握る。


「「■■さん」」


寝室に体を滑りこませて音を立てないよう気を付けつつ速やかに扉をとじた。

何事もなかったかのような酔っ払いどもの寝姿が広がっている。

ずるずると座り込んでようやく自分が呼吸を止めていたことを思い出した。

深呼吸して自分の寝ていた辺りまで這って寝転がる。

息苦しさを忘れてなけなしのタオルケットを頭から被って目を閉じた。

静寂の中で思考だけが駆けていく。

もしかすると呼ばれている名前と全く当てはまらない自分が、玄関の二人の前に現れたことで『何も起こらなかった』のではないか。

例えばこの部屋の主が仮に「小林」だとして、他の寝こけている2人は「大森」と「佐々木」で自分が「渡辺」とする。

他の誰かが玄関に向かえば、囁く例の2人は「まあいいか、大森でも」「佐々木でもいいんじゃないか」と妥協して3人となって去っていく。

そんな奇妙な考えが過る。あれはこの部屋の主の名前を呼んでいるのではないかと思いたくない。


「「    」」


微かに呼びかける声が聞こえてくる。

聞こえるはずがないと己に言い聞かせる。

もっと酒が残っていれば飲んだくれて眠りにつけたのに。

掠るはずもない夜風が肌を撫でたところで意識を失ったらしい。

両手に空き缶を持った同僚に足で揺さぶられ起こされた。


「いつまで寝てんだ!起きてさっさと片付け!」


寝たまま部屋を見渡す。ほかの2人は紙ごみを袋に詰めたり窓を開けるなどしている。

気まずさを誤魔化そうとキッチンへ出た瞬間に昨夜の異常事態を思い出した。


「あ、あのさ……朝……玄関開いてなかった?」


「玄関?ちゃんと鍵もチェーンもかかってたけど?」


何事もなかったかのような玄関を見つめる。

クリーム色の塗装が施された扉は昨夜見えなかった。


「タオルケット頭まで被ってたし寝ぼけてたんじゃないの?」


つまるところそれは昨夜のアレが現実であることを示している。

片付けを済ませてそそくさと帰宅すると安心感から深いため息が漏れる。

月曜日にはなんてことない顔で再び同僚に会うこととなるのだろう。

もう二度と同僚の家には行くまい。ましてや酒を飲んで泊まるなど。

そう決意してシャワーを浴びた。


憂鬱2倍増しの月曜日は否が応でもやってくる。

同僚は涼しい顔で出勤して仕事をこなしていたが昼過ぎに小用に立ってから席に戻ってこない。

トイレを見に行くと施錠はされておらず中は無人であった。窓は換気用でとてもじゃないが人が通れる大きさではない。

当然ながら大騒ぎとなった。

小さいながらも会社中の車のドライブレコーダーや監視カメラを見返したが会社から出る同僚は映っておらず、

警察沙汰となったがそのまま見つかったという報告はなかった。

形ばかりの事情聴取の際に巡査が漏らした言葉が気になるが、

何よりも同僚が座っていた椅子、デスク、ロッカー、果てはPCまでもが処分されたことが何よりも不気味だった。

同僚がいた痕跡を一切残さないという徹底した意志を感じる。

「まだ使えるだろう」が口癖で倹約家な社長にしては思い切った、というより狂ったとしか言いようがない判断だ。

ここにいてはいけない。そう直感した。

すぐさま社長へと辞職願を提出するも面談が設けられ引き延ばしにかけられる。

理由らしい理由も曖昧なため、「若いのは根性が足り居ない」だの「もっと苦労したほうがいいんだから」だの宣っている。

遂には「お前のようなぼんやりした奴を雇ってくれる会社は他に無いんだから」という言葉が浴びせかけられる。

もう本当の理由を告げて立ち去る方が良い。一分一秒が惜しい。


「あの、ですね。この前いなくなった……あの人の机の跡が嫌で嫌で……タイルカーペットが日焼けしてなくて濃い灰色なのが気持ち悪いんです」


自分の膝の辺りを見つめながら吐露する。途端に面談室が静かになった。

社長の顔を恐る恐る見上げると、ゴルフ焼けでこんがりした顔が腑抜けたようになっている。

しばらくぶりにあった厳格な親戚が認知症になって子供のようになっていた時の感覚が思い出される。


「お前も……そう思うか……」


ぽっかり開いた口から掠れた声が漏れ出てくる。


「なんかさぁ……気味悪いんだよ……俺だっておかしいってわかってんだ。だけどああでもしないと……取り返しがつかない気がして――」


最後まで聞いていられなかった。

自分のロッカーまで走り、カバンを掴む。自分のデスクの引き出しに入っている細々した私物を詰め込むと出口まで走った。

小さい会社だからそれほど距離は無い。開け放たれたままの面談室にはいまだに社長が呆けたように座っているのだろう。

汚れのないタイルカーペットを視界の隅にも入れたくなかった。

外に出ると経理の沢田さんが肩をほぐしながらこちらに歩いてきていた。

夕方の郵便物をポストに投函しに行っていたのだろう。


「あら、どうしたの?社長は――」


「残ってるもの全部処分してもらっていいんで!もう辞めるんで!」


沢田さんの横を通り抜け、駅までのなだらかな坂を駆け上がり列車に飛び込んだ。

今にもどこからか名前を囁くように呼ばれるのではという恐怖でおかしくなりそうだった。

最寄り駅に着くころには汗も引いて寒いくらいだったがコンビニに寄って度数の強い酒を手に取る。

事情聴取の時に聞いた言葉が蘇って離れない。


「なんだかねぇ……わけわかんないんだけど……ご両親も同じ時間に居なくなってるみたいなんだよね。会社と、パート先のスーパーから」


酔っぱらって自宅の布団に包まってようやく退職した清々しい気分が湧いてきた。

助かった。あの奇妙な夜から初めて感じる安堵でいっぱいになる。

大人になって初めて涙を流した。

きっと同僚は見つからないのだろう。

あの社長も正気を取り戻せないだろうが最早知ったことではない。

明日には仕事を探そう。今よりマシな会社に入ろう。

そう決意して2本目の酒を開けた。

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