9 離れた時間
瑞希は結局、無理やりその日のうちに一也を帰して、自分は翌日に一人で退院の手続きを取った。
それで瑞希が向かったのは、一也と二人で暮らすマンションではなかった。
由奈のアパートの玄関で、瑞希は頭を下げて、訴えるように由奈に言った。
「ごめんなさい。少しの間だけでいいので、ここに置いてください。家事も何でも、自分でしますから」
包帯で巻いたままの腕でこんなことを言うのは卑怯だと、瑞希もわかっていた。
由奈はそんなずるい子どもの瑞希を、今まで受け入れてくれた。自分と違ってそういう優しい人だから、一也だって惹かれるんだとうらやましくもあった。
由奈は今回も瑞希のわがままを受け止めてくれた。気が済むまでいていいと言って、一言付け加えた。
「一也さんに、私の家に来ているということだけは伝えていい?」
瑞希は一也に知らせるのは気が進まなかったが、仕方ないとうなずいた。以前、何も言わずに瑞希が一泊だけ外泊したとき、一也は事もあろうに警察に届けたのだから。
そこから始まった由奈の家での生活は、心に穴が空いたような日々だった。
姉のような由奈と、妹のような茉優と暮らしているのに、一也に投げつけた言葉の一つ一つが気になった。一人でいる一也がどうしているのか、そればかりが頭を占めた。
由奈は瑞希に、一也と何があったのか訊ねたりはしなかった。実際、瑞希だってあんな少しの喧嘩で家を飛び出してきた理由を、自分で整理できずにいた。
――子どもを作ればいいでしょ。奥さんだって作ればいい。
でもそう一也に投げつけた言葉は、瑞希の中でずきずきと痛んだ。
自分だって、恋人をみつけたらいい。家族だって、これから作ったらいいじゃん。
……そんなことを考えるだけで空しくなるのは、一也と二人だけで過ごした時間が長すぎたのかもしれない。
心の中がからっぽでも、時間は流れていく。意外なことに、一也と会わずに一か月が過ぎようとしていた。
それは由奈のおかげだった。由奈ははっきりと、瑞希から一也を遠ざけてくれた。
一度だけ、瑞希が由奈のアパートに来た日の夜に、由奈が一也と電話しているのを聞いた。
「少し、距離を置いたらどうですか。瑞希ちゃんは生まれたての赤ちゃんじゃないんですから。身の回りのこともちゃんとできますし、これから大学にだって行くんでしょう?」
電話口の向こうの一也の声は聞こえなかったが、由奈を困らせるほどの調子で言葉を投げているのは察しがついた。
「連れ戻す……って、そんなことをしても意味がないでしょう? 瑞希ちゃんが自分の意思で出てきたなら、自分の意思で戻るまで待たないと。私にはわからない? ……そうかもしれないです。でも瑞希ちゃんは、今はわからない他人の方を選んでいるんです」
由奈は大人しい、口数の少ない人のように感じていたが、さすが弁護士らしく堂々と一也と言い合っていた。
由奈は一也に、大人の正しさをもって諭した。
「大事だったら、もう手を離してあげたらどうですか。……私には、一也さんのせいで瑞希ちゃんが苦しんでいるように見えますよ」
瑞希はその言葉を、居間に続く薄い扉の向こうで聞いた。
由奈さんは正しい。でも……と言葉にはできずに、由奈に心で言い返す。
……でも私、そうやって一也と暮らしてきた日々が、愛おしくて仕方ないんです。
瑞希は壁に背を預けて、行き場のない気持ちのかたまりを心で繰り返していた。
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