8 握りしめた手

 目が覚めたとき、瑞希は病院のベッドの上にいた。

 傍らに座る一也は、たぶん一睡もしていないとわかった。奇妙に無表情で、瑞希の手を固く握って離さない。

 子どもの頃の瑞希はよく入院したから、それは何度も目にした光景だった。

「……瑞希」

 でも何度見ても慣れない。胸が痛くて、泣きたいくらいに哀しかった。

 瑞希はからからに乾いた喉に息を通して、呆れたように言う。

「大丈夫だってば」

 入院している瑞希の方が、一也を励ます。それも、幼い日からの習慣だった。

「一也。……手、離して。痛いよ」

 彼は瑞希の知る誰よりスーツが似合って、不遜な顔をして世の中を渡り歩いている。でも昔から瑞希が病気にかかっただけで、明日世界が終わるみたいな顔をするのだ。

 瑞希が怪我をしているのもあったのだろう。一也は一瞬自分が痛そうな顔をして、瑞希の手を握る力を緩める。それでも手を離してはくれなかったけれど。

 一也は少しだけ落ち着きを取り戻して、ぽつぽつと話し始める。

「自転車に跳ね飛ばされて、腕に怪我をした。五針縫ったんだ。背中にも打撲がある。こめかみの辺りを切って出血したが、脳には異常はないそうだ」

 瑞希は思ったほどひどくはない状況を聞いて、うん、とうなずく。

「いつ退院できる?」

 一也は一息分だけ黙って答える。

「退院自体は、今夜問題なければ明日にでも」

「由奈さん、大丈夫? 茉優ちゃんは?」

「……お前は」

 一也は目をとがらせると、瑞希を見下ろして怒った。

「縫ったんだぞ。意識もなくした! 傷だって残るかもしれない!」

 一也は瑞希の手を握っていない方の手で、焦燥のままに自分の髪を乱した。

「何度呼んでも、起きなくて……もしお前があのまま起きなかったら、俺は」

 仕事中はなでつけている前髪が下りて、一也の表情を普段より幼く見せていた。

 一也は独り言のように、ぽつりとつぶやく。

「俺は……」

 ……くしゃくしゃになった前髪からのぞいた一也の目は、何も見ていないみたいに空虚だった。

 瑞希は気づかれないように息を呑んで、無理やり声を上げる。

「その分だと、暴力をふるう元気はなかったみたいだね」

「今から振るってきてもいい」

「……一也。弁護士がそんなこと言っちゃだめだよ」

 瑞希はため息をついて、少しの間黙りこくった。

 灯りの落ちた夜の病棟で、二人の間にしんとした静寂が落ちた。

 瑞希はその静寂の中で、ここのところずっと考えていたことをどう打ち明けようかと思っていた。

 一也はそんな瑞希を、また心配そうに見下ろして問う。

「瑞希、痛むのか? 痛み止めを……それとも」

 一也はそっと瑞希の頭に触れて言う。

「もう、今すぐ家に帰るか?」

 一也はそう告げてから、声を和らげて続ける。

「そうだな、それがいい。具合が悪かったら、医師をすぐに呼んでやるから。怪我が治るまで看護師だってつけてやるから。瑞希、帰ろう」

 瑞希は一也を見上げて、一度うつむいた。

 きっかけの一言を告げるのは、少し勇気が必要だったから。

「……一人で帰って」

 瑞希の放ったその言葉を聞いたとき、一也の瞳が揺れた。

 傷ついたような一也の瞳を、瑞希は自分も傷つきながら見返す。

「寝てないんでしょ。危ないよ、一也の方こそ事故に遭ったらどうするの。私は明日自分で帰るから、一也は今夜中に帰って」

 瑞希は正論を口にしながら、子どものわがままのように言った。

 それで、と瑞希は勢いに任せて告げる。

「あと、私は来年から家を出て下宿するから」

「……下宿?」

 一也は信じられないことを聞いたように、すぐに否定の言葉を返した。

「近い大学がいくらでもあるだろう? 迎えの車をつけてやったっていい。……お前が、一人でなんて」

「一也が一人になりたくないだけでしょ!」

 瑞希は哀しみを呑み込んで、酷い一言を吐き出す。

 一人になりたくないのは瑞希だって同じことなのに、言葉が止まらなかった。

「いい加減現実を見て。私はもう子どもじゃない。子どもが欲しいなら、他に家族を作りなよ」

「瑞希、何言って……」

「奥さんだって作りなよ。できるでしょ?」

 言っているうちに涙があふれてきて、瑞希は顔を手で覆った。

 一也が結婚する。それを思い描いただけで、胸がつぶれそうな自分がいる。

 瑞希はしゃくりあげながら言う。

「手、邪魔……離し、て」

「瑞希、いい。事故で傷ついてるんだ。泣いていい。怒ったっていい」

 一也は瑞希の頭を抱きしめて、優しく言った。泣いている瑞希を、一也はよくそうやって全部を受け入れてきた。

「お前がやりたいことなら、きっといつか叶えてやる。でも今はよく眠るんだ……」

 一也は繰り返し瑞希の頭を撫でて、彼女を宥めた。

 それでも一也は、瑞希が眠りに落ちるまで、その手だけは離さなかった。

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