7 子どもの矜持

 母親の姿が見えなくなるのと同時に、茉優はきゅっと瑞希の手を握り締める。瑞希は茉優と目を合わせて、その手をしっかり握ってやった。

「茉優ちゃんも、少し私と休憩して待っていよう?」

 頷く茉優に瑞希はほっとして、二人で座れそうなところを探す。

 ちょこちょこと歩く茉優の足取りはまだ危ういけど、一生懸命なその様子が微笑ましかった。瑞希が結んだ髪も歩みに合わせて上下に揺れて、瑞希はつい顔を綻ばせる。

 けど、一也に構われている茉優を見ていると、時々うらやましくなるときがある。……そういうところ、自分はまだ子どもなのだと思う。

「どうしたの? おなかいたいの?」

 はっとして瑞希が振り返ると、茉優は心配そうに瑞希を見上げていた。

 ベンチを探すうち、いつの間にか公園の裏側まで来ていた。

 そこには人はほとんどいなかった。通りの方から聞こえてくる縁日の声が、漂うように時折耳に入ってくるだけ。

「あそこに座ろっか」

 瑞希は先にベンチに座って、茉優を膝の上に乗せながら言う。

 ふいに瑞希の口から、ぽろっと小さな子どもの本音が出た。

「……茉優ちゃんがうらやましいなって思うこと、あるんだ」

 小さいけど、膝の上に乗ると茉優はそれなりに重い。けど何度も抱っこしてきた重みはむしろ心地よいくらいで、瑞希は苦笑いしながら言葉を続けた。

「私、体は大きくなっても、気持ちはまだ子どもだもん」

 瑞希は茉優に話すというより、独り言のようにつぶやく。 

「……甘えたいよ」

 目を閉じて見えるのは、一也しかいない。両親の姿はもう思い出せない。

 瑞希が泣きたいような気持ちで目を開くと、ぽんぽんと頭を叩かれた。

「みずきちゃん、よしよし」

 茉優は一生懸命手を伸ばして、瑞希の頭をなでなでしていた。

「いいこ、いいこ。まゆはみずきちゃん、だいすきだよ」

 茉優がくれたのは、どこまでも心地よい言葉だった。

「いたいの、とんでけ!」

 茉優の力いっぱいのおまじないに、瑞希は思わず頬を緩めて笑っていた。

「うん。……ほんと、飛んでっちゃいそう」

 茉優がお腹の中で一緒に遊ぶ相手を欲しがっていたから、瑞希はちょっと早く生まれてきただけなのかもしれない。

 根拠なんて全然ないけど、そうだったら素敵だと心から思う。

「だから私、茉優ちゃんがとっても好きなんだね」

 茉優は瑞希が笑ったことに顔を輝かせて、ぱぁっと笑う。

「えへへ、まゆもすき!」

 言葉はまだ拙いけど、ちゃんと気持ちは通じてる気がして嬉しかった。

 瑞希はすっかり元気になった気持ちで、茉優に言う。

「そろそろ表に戻ろうか」

「おじちゃん、おむかえにくる?」

「きっとすぐ来るよ。行こう」

 そうして、二人でまた手をつないで歩き始めた。瑞希には同じ道でも、先ほどよりずっと明るく見えた。

「あ」

 瑞希は遠くから自転車が走ってくるのに気づいて、茉優を引き寄せる。

「茉優ちゃん、こっち」

 通り過ぎた自転車が無灯火であることに、危ないなと顔をしかめる。

 ……けど、そんなことを考えたせいで、次の反応が遅れてしまった。

 振り返った目前にまで別の二台、狭い感覚で並走してきたことに気づいて、瑞希は思わず立ちすくんだ。

 瑞希はとっさに屈みこんで、茉優の全身を抱きしめるようにして庇う。

「……っつ!」

 腕に焼け付くような痛みが通り過ぎて、瑞希は地面に叩き詰められた。けれどどうにか背中から倒れて、腕の中に茉優だけは包んでいた。

「あ!」

 数歩向こうでブレーキがかかって、辺りに声が集まって来る。

「みずきちゃん! みずきちゃん!」

 瑞希はこめかみも切ったらしく、血で目がよく見えなかった。

 茉優の声が聞こえるから、茉優は無事だ。それだけは安心する。

 でも、痛い、苦しい。誰か助けて。

「……瑞希! どいてくれ!」

 そのとき、一番側に来てほしい人の声が聞こえた。

 一也の声だ。そう思った途端、こんな状況だというのに瑞希はかすかに頬を緩めた。

「瑞希、みずき!」

 忙しなく腕や額に触れる手、何度もぬくもりを感じたその手を、瑞希がまちがえるはずもない。

 周りでいろんな声が聞こえるけれど、瑞希はその手のぬくもりだけを追う。

 一也が来てくれたら、きっと大丈夫。

 そう思ったら、意識はだんだんと薄れていく。

「誰が瑞希にこんな……!」

 ふいに一也が爆発しそうな怒りの声をもらして、瑞希の中の感情の弦が弾かれる。

「……や」

「瑞希! 痛いか、待ってろ。すぐ……!」

 瑞希は弱弱しく、自分のものではないような細い声でつぶやく。

「……かず、や。だめ……」

「瑞希?」

 瑞希は見えない視界で手を伸ばして、一也に告げた。

「まゆ、ちゃんの……前で、暴力、だけは、だめ……だから、ね……」

 ……暴力を目にしていっぱい傷ついて来た茉優ちゃんだけは、庇わなきゃ。

 それだけ言うのが精一杯だった。

 瑞希は深い水底に落ちるように、痛みと熱さの中に意識を手放したのだった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る