第95話 貴族は子どもたちを愛している。
振り返った先にいたのは、お説教を受けて疲労困憊の王宮魔術師だ。
桜色の瞳はどんより濁り、地面に落ちた桜の花弁の色合いになっている。
「師匠、せっかくの良い空気なのに邪魔しないで下さいよ……」
「ルング、師を見捨てて吸う空気は、美味しいですか?」
地の底から溢れ出た様な低い声。
師はこちらを、恨みがましく睨みつけている。
……だが、そんな師匠に恨まれるいわれなどない。
なぜなら、公爵様には事実しか伝えていないからだ。
実際、師匠の無茶振りで何回か死にかけたし。
姉も何度か泣きかけていたし。
つまり、今の師匠は完全な逆恨みのはずなのだ。
しかし、恨み骨髄の師匠を目の前にして「師匠を見捨てて吸う空気は最高に美味い」とは、流石に口にできなかった。
我ながら命は惜しい。
そんなくたびれた師の背後では、公爵様が微笑んでいる。
アンスによく似た紅の瞳は、
……公爵様は――
この結果――俺と息子が友人となることを、
先刻のやり取り。
アンファング村についての陳情を終えた後の、室内でのやり取りを思い出す。
「私のお願いというのはね、ルング君」
公爵様の声色が真剣な、だが確かな温かみを帯びる。
「長男のアンスカイト――アンスと1度会って欲しいんだ。
アンスと接して、君さえ良ければ仲良くして欲しい。
勿論……友だちになるかどうかはお任せするよ。
合う合わないはあるだろうしね。
……でも、その心配はないかな。
アンスは私の自慢の息子だからね。絶対に友だちになりたくなるはずさ」
切実な色に輝く瞳。
先程まで威厳に満ちていた公爵様は、別人かと思う程の温かさで自身の息子のことを絶賛する。
「……どうして、俺と息子さんを?」
心中に生まれた疑問を、そのままぶつける。
俺と公爵様の息子を引き合わせる意味とは何か。
……人脈作りの為だろうか?
師の言が正しければ、公爵様は
魔術師派遣という恩を俺に売れた以上、既に繋がりはできたと言っていい。
こちらも、領民を思いやる公爵様の姿に、好意を抱いている。
俺と彼の息子が友人関係になるのなら、その結びつきは更に強固なものになるだろう。
公爵様はしかし、思案する俺を見て、安心させるように微笑む。
「ああ……そんなに考え込まないでいいよ。
簡単な話だ。
父親として、アンス――私の息子に、友人が少ないことが心配なのさ。
すごく良い子なのにね」
「……良い子なら、俺でなくともすぐに友だちを作れそうですが」
言外に「俺でなくてもいいのでは?」と尋ねる。
俺と師匠への対応を見る限り、公爵様は領民思いであり、身内には厳しそうだ。
そんな公爵様が、ここまで自慢げに話す息子。
断言はできないが、本当に良い子である可能性は高いように思える。
しかしそれなら――
……友だちなどすぐにできそうなのに。
わざわざ遠い地にあるアンファング村の村民に、頼む必要があるのだろうか。
素朴な疑問に対して、公爵様の笑顔に苦いものが混じる。
「これは私の責任でもあるのだが……アンスは、真面目過ぎてね。
公爵家の跡継ぎに指名して以来、自分のための幸せや娯楽といったものを、全て排除しようとしているんだ。
『天才の姉以上に頑張らないと。そうじゃないと領民たちを守れない』ってね。
そんな気質だからこそ――」
公爵様はチラリと、未だに正座している師匠を見下ろす。
「
『領民のために在りたい』という心優しいあの子の方が、魔術にしか興味の無いこの子よりずっと良い領主になってくれると思うから。
我ながら公爵として、賢明な決断をしたと思うよ」
公爵様は何故か自嘲の笑みを浮かべる。
その口調も発言とは裏腹にどこか弱々しく、切なさを感じさせるものだ。
そんな公爵様に、俺は躊躇なく賛成する。
「ええ。公爵様の判断は大正解だと思います」
……師匠なんかが跡継ぎになれば、公爵領の崩壊が目に見えている。
「ルング⁉ 敬愛する私をもっと持ち上げてくださいよ!」
「師匠……俺は10歳ですよ? 敬愛なんて言葉知りませんよ。
罵倒しろって意味ですか?
ずっと正座させられてる師匠を、罵倒すればいいんですか?」
「なんで罵倒を知っていて、敬愛を知らないんですか!
嘘つき! 卑怯者! 人でなし! ルング!」
……人の名前を悪口と並べないで欲しい。
そして、俺を罵倒するのは構わないが、公爵様もこの場にいるということを、師はちゃんと理解した方が良いと思う。
公爵様は実の娘を冷え冷えとした目で見下ろすと、再び俺に意識を戻す。
「だがね……ルング君。
私はアンスに、公爵の役割をこなすだけの人生なんて望んでいないんだ。
それだけの人生で、終わって欲しくないんだ。
アンスは私よりも、様々な才能に満ち溢れていて、真っ直ぐだ。
それに比べて私が君たちの年の頃なんて、遊んでばかりだった。
授業をサボって昼寝をしたり。
屋敷を抜け出して、友人と街に繰り出したりね。
それは確かに良くないことだが……良い思い出だよ」
公爵様は遠い昔を噛みしめる。
その目には、純粋な輝きが灯っていた。
元少年は瞬いて続ける。
「私は確かにアンスに公爵を継いでほしいが――
……同時にアンス自身に幸せになって欲しいのさ。
春の花の香りを。
夏の風の心地よさを。
秋の景色の美しさを。
冬の夜の静けさを。
味わって欲しい。
この世界を好きになって、世界で生きる人を好きになって欲しい。
最初から全てを切り捨てるのではなく、色々な経験をして、自分の意志で幸せを掴み取って欲しい。
……私の
威厳はすっかり鳴りを潜め、優しさに満ちた顔になっている。
今ここにいるのは、貴族の公爵ではなく、ただの1人の父親だった。
「だから無理に友だちには、ならなくていい。
ただ君との出会いで、アンスに経験を積んで欲しいんだ。
……どうやら息子は、君を意識しているみたいだからね」
……なぜ俺を――
と聞こうとして、思い止まる。
特別家庭教師枠を得ている同い年。
魔術を扱う者として、意識しないはずがない。
「だから、君はいつも通りで良い。
ありのままの君で、息子と接して欲しい。
ひょっとすると、息子が君に勝負を挑むなんてことも、あるかもしれないよ?」
……公爵様からすれば、軽い冗談なのかもしれないが。
もしそうなるのなら、俺は喜び勇んで勝負を受けるだろう。
陳情のついでに魔術まで見られるなんて、万々歳だ。
決意を固めて、公爵様に返事をする。
「……分かりました。是非、息子さん――アンスカイト様と会わせてください」
こうして俺は、公爵様のお願いを聞く運びとなったのだった。
……結局、公爵様の掌の上だったってことか。
友人となった、紅の少年を見つめる。
手合わせを通じて、彼の人柄を理解して。
この少年が、懸命な努力家であることを知ってしまったら――
……そんなの、好きになるに決まっている。
公爵様は娘の背後で、俺に勝ち誇った笑みを浮かべている。
……少し悔しい気持ちはあるが。
折角公爵様が用意してくれた機会だ。
遠慮なく、アンスと仲良くさせてもらおうじゃないか。
「さて、アンス」
師はどうにか俺への恨みを振り払い、実の弟に優しく語りかける。
「はい、姉上!」
元気の良い少年の返事。
その瞳は、姉への憧れで強烈な光を放っている。
……盲目過ぎないか?
友人としては少し心配になるが、アンスはどうやらかなり師匠――姉のことを尊敬しているらしい。
弟に
……師の実態を知っていると、違和感しかない。
「貴方の申請した
師の言葉に、輝いていたアンスの表情が固まり、悲しそうな表情へと一変する。
……ああ、そうか。
この時、初めて気付く。
アンスも、特別家庭教師枠を申請していたのか。
この穏やかそうな少年が、俺に勝負を挑んだ理由。
そこには、自分が受けられていない特別家庭教師枠への固執があったのかもしれない。
更に言えば、彼にとって憧れの姉に、俺は師事しているわけだし。
様々な羨望の入り混じった結果が、あの手合わせだったのだろう。
しかし、そんな少年の物悲しい表情は――
「私が担当になったので、よろしくお願いします」
「えっ⁉」
師の発言で再び一変する。
急な話に、キョトンと紅の目を丸くする少年。
紅の少年――弟に向かって、黒のローブを靡かせ、王宮魔術師は告げる。
「私がアンス――アンスカイト・フォン・アオスビルドゥング様の特別家庭教師を承りました。
王宮魔術師レーリン・フォン・アオスビルドゥングです。
よろしくお願いしますね」
バサリと優雅に一礼する王宮魔術師。
その姿は正に貴族の中の貴族。
魔術師の中の魔術師。
……師匠、やればできるじゃないか。
師匠のその言葉を聞いて、1対の紅の宝石が再び涙に沈む。
しかしそれは、決して悲しみの涙ではなく――
「ええ⁉ 何で⁉ アンス⁉ どうしたんですか⁉」
それなのに、先程の雅な仕草が嘘のように、弟を泣かせた王宮魔術師は慌てふためいている。
……どうしてこれだけ好かれていて、泣いている理由が分からないんだ?
申請していた特別家庭教師枠。
それも憧れの姉から、指導してもらえる。
おそらくアンスは今、天にも昇る気持ちのはずだ。
新たな友人の喜びが涙から伝わると共に、師の鈍感さに引く。
本当に涙の理由を理解していないのだとしたら、人でなしにも程がある。
「師匠……処刑ものですね。
とりあえず、介錯はしてあげますから。水の魔術で良いですか?」
「ふざけてる場合じゃないです! アンス? 大丈夫ですか?」
……とりあえず、アンスがこんな大人にならないように頑張ろう。
青天の下、俺の決意は固まり、師匠の焦りは公爵邸全体に響き渡ったのだった。
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