第23話 ダマスカスの虜囚

 ダマスカスまで命からがら逃げ延びたダレイオスは、マケドニア軍がダマスカスへと進軍中であるという報告に恐慌をきたしていた。

 今まで散々常識外な報告を聞かされてきたが、この報告はそのなかでも最大のものであった。

 マケドニア兵は不死身なのか――――?

 すでに敗走した兵から本営に置き去りにした家族や財宝の一切をマケドニアが接収したという報告は受けてはいた。

 それはマケドニアの田舎者にとっては想像すらできないほどの物量であったはずだ。

 これで少なくとも3日程度はマケドニア軍の足は止まるはずであるとダレイオスは読んでいた。

 なんとなればいかにマケドニア軍といえど疲弊困憊していることは確実であるし、莫大な財宝と糧食を前にしてこれを分配しないということは兵達の士気にかかわるからである。

 近代の国民軍と違い兵というものは自分の命に見合うだけの報酬を常に期待しているものであり、そのあたりの事情はマケドニア軍も変わりはないはずであった。

 それでなくとも都市攻略には周到な準備と資材が欠かせないものだ。

 野戦後の論功行賞もなく不眠不休でダマスカスを落としにかかるなど、よほど強固な覚悟とそれに相応しい報酬がなければ為しうることではなかった。

 ダレイオスはこのマケドニア軍の常軌を逸した進軍ぶりに、アレクサンドロスの自分に対する明確な殺意を幻視した。

 ――――アレクサンドロスはここで戦争を決着させてしまいたいのだ―――!

 そう考えればこの無謀な進軍ぶりにも納得がいく。

 今ダレイオスが戦死すればペルシャはその敗北から立ち直るための時間を大幅に奪われることになるのは確実だった。

 王の王たる後継者がすんなり決まることは考えにくいし、辺境の部族国家と意思疎通をはかっていくためには王の王といえどもそれなりの経験とコネを必要とするものなのだ。

 しかも後継者の最有力候補であった自分の息子がマケドニア軍に囚われの身となっている現状では、ダレイオスなかりせば大ペルシャは王位をめぐって内戦に突入する可能性すらあった。

 それはペルシャにとって政治的自殺以外の何物でもない。

 大ペルシャはその巨大さそのものが何にも代えがたい武器なのであって、分割されたペルシャなどマケドニアにとってさしたる脅威にはなりえないだろう。

 各太守たちが反目しあっている間にペルシャの中枢を蹂躙するマケドニア軍の様子が目に浮かぶようだ。

 さすがのダレイオスもマケドニアの強行軍がアレクサンドロスのパルメニオンに対する意趣返しであるなどとは想像すらつかなかった。

 ―――――王権が揺らげば忠誠も揺らぐのは当然だ。アレクサンドロスに知恵があれば離間工作を図るのは必至なのだが…………。

 ダマスカスにはペルシャ内の有力貴族の人質の大半が集められていた。

 マケドニア軍がこれを手中に収めたならば、人質を盾にペルシャ貴族の懐柔を図ることも可能である。

 場合によってはマケドニア軍の仕業に見せかけて彼らを皆殺しにしてしまうという選択肢がダレイオスの脳裏をよぎった。

 ――――いや、その必要もないことか。

 それをするにはアレクサンドロスはあまりに虚栄心が強すぎることをダレイオスは承知していた。

 これがもしフィリッポス二世が相手であれば、ダレイオスは躊躇なく人質を殺すことを選んだだろう。

 しかしアレクサンドロスには後世の歴史家に英雄として賞賛されたいという個人的な欲望が強すぎる。

 人質を盾にペルシャを裏切りマケドニアに仕えることを要求するのは彼の英雄たる矜持が許さないことは明らかだ。

 ならばわざわざ危険を犯してまで人質を殺す必要はない。

 なんといってもダレイオスの命令で人質が殺されたなどということが露見してはいかに王の王でも権威の失墜は免れないのだから。

 ――――それだけではない。彼らは武器になる。マケドニアを衰弱死させる静かなる毒に。

 ダレイオスの予想は正しかった。

 爛熟したペルシャの文化の担い手でもある有力貴族の子弟がマケドニア軍内に入り込むということは、マケドニアという国家にとって体内に入り込んだ強力すぎる異物と同義であった。

 事実、後年マケドニアはこの異物を取り込むのか排除するのかで国論を割ることになるのである。

 それは古来より、圧倒的少数の民族が多数の民族を支配しようとするときに直面する宿命的な問題であった。

 同化か純化か。伝統か進歩か。マケドニアという枠組みか新世界帝国という枠組みなのか。

 それを問われるにはいまだマケドニア王国には覚悟も経験も圧倒的に足りないものと言わざるをえない。

 問題はここまで正しい洞察をしていながら、ダレイオスがその結果を見る日まで生きていられるのかということになるのであった。




 マケドニア軍の宿泊する天幕のひとつでは悲嘆の声が満ち満ちていた。

 敵国であるはずのマケドニア軍の兵士ですら哀切の情をもよおさずにはいられないその天幕には、ダレイオスの妻子と母が虜囚の身となっていたのである。

「あの啼いている女どもは誰か………?」

 戦勝に沸いている筈の陣内においていかにも悲しげな女の嘆きが聞こえることにアレクサンドロスが疑問を抱いたのも無理はなかった。

「陛下、あれはダレイオスの妻子と母后たちにございます。さきほど陛下が兵士たちにダレイオスの弓と王者のマントを示されたことを聞き、ダレイオスがすでに戦死したものと嘆いているのでありましょう」

 そう答えたのはプトレマイオスである。

 彼はアレクサンドロスの性格を熟知しており、彼がダレイオスの家族に対し王者としての温情を示すであろうことを正確に予測していた。

「余にダレイオスに対する個人的な恨みはない。王国の長としてアジアの支配権を争うところではあるが勝敗は天の決したもうところである。ただちに誤解を解き丁重に扱うよう差配せよ。………そうだな………レオンナトスあたりならよきにはからおう」

「…………御意」

 後年、プトレマイオスが記した歴史書によればダレイオスの家族たちに王の意を伝え保護したのはレオンナトスであったという。

 しかし現実にダレイオスの家族のもとへ向かったのはレオポントスというプトレマイオス配下の少年であった。

 独断でレオンナトスにパルメニオンの後を追わせた以上、プトレマイオスにはそうするほかに術がなかったのだ。

 そんな歴史の片隅を史書は黙して語らない。



 ダマスカスは地中海から80kmほど内陸に位置し、バラタ川の南岸に形成された古代でも有数の大都市である。

 わけても都市の南側に広がるグータと呼ばれる巨大なオアシスは後年エデンの園のモデルではないかともてはやされるほど肥沃で豊穣なものであった。

 乳と蜜の流れる土地、シリア地方を支配するためにダマスカスは絶対に必要な要衝であったのだ。

 またエジプトからバビロンを結ぶ中継地としても古来よりその重要度は高まりこそすれ低下することはありえなかった。

 そのダマスカスは憂愁の色に包まれていた。

「姉さま………私たちはこれからどうなってしまうのでしょう…………?」

 少女の脅えは取り残された人質たちの共通の思いであったと言ってよい。

 ペルシャにとってマケドニア王国などという国は狩猟と放牧をもっぱらにし、粗末な羊の毛皮を見に巻きつけただけの蛮族という認識しかない。

 かろうじてヘラス世界でもっとも戦の強い国という認識がある程度だ。

 もっとも確かにフィリッポス二世が国内改革に着手する以前は大多数のマケドニア国民がそのとおりの生活を送っていた。

 マケドニア王国の都市が整備され暮らしが豊かになり、法律や社会規範が整えられてからまだそれほどの時は経っていないのである。

 そんな連中がやってくるのにもかかわらず頼るべき王の王はいともあっさりと人質を置いて脱出を果たしていた。

 彼らは見捨てられた哀れな生贄にほかならなかった。

 静かに俯きながら微かに震えて姉の袖口を握り締める妹を、姉は優しく抱きしめた。

 傍目にも非常に美しい姉妹である。

 二人とも漆黒の艶やかな黒髪に黒曜石のような輝きある美しい瞳をしているが、受ける印象は正反対といってよいだろう。

 妹のほうは姉よりも頭ひとつは背が高いのだがやや丸顔で大きな瞳が気の弱そうな印象を与えており、また立ち振る舞いがその印象が正しいことを告げていた。

 逆に姉のほうは平均的な女性よりも低めの身長でありながら気の強そうなつり目勝ちな瞳と清冽な覇気が見るものの目を惹かずにはおかなかった。

 美しさだけなら好みにもよるが妹のほうが勝るかもしれない。

 しかし溢れんばかりの生気と存在感においては姉のほうが圧倒的に勝っていた。

 おそらく千人の人ごみに紛れていても姉の居所は一瞬にして明らかになることだろう。否が応にも勝手に目が吸い寄せられてしまうからだ。

 ………この姉妹の名を妹をアルトニス、姉をバルシネーと呼んだ。

 二人は勇将メムノンの人質としてハリカルナッソスの戦いよりこれまでダマスカスに人質として定住を強いられてきたのである。

「………アレクサンドロスがあの人の言うとおりの男なら心配はいらないと思うけどね………」

 あの愛すべき夫は言っていた。

 アレクサンドロスは正しく神の子なのだと。

 それは別にアレクサンドロスが真実神の子孫であるというわけではない。

 ただアレクサンドロスが現世での栄達ではなく、未来永劫歴史上において英雄として語り継がれることを望んでいるということであった。

 そうした意味においてアレクサンドロスは神と同様不死の存在となる可能性があることをメムノンは気づいていたのである。

「心配することはないわ、アルトニス。貴女は私が守るから」

 メムノンの言うとおりアレクサンドロスがその英雄願望によって無法を抑止したにせよ、前線の兵士にそれが行き渡る可能性はそれほど高いものではない。

 一部の兵の暴走により人質たちの全てではないにせよ何割かが殺され、あるいは陵辱され、あるいは奴隷として連れ去られる可能性は十分にあった。

 もしもその何割かに自分たちが含まれるような時は、命にかけても妹だけは守ってみせることをバルシネーは決意していた。

 バルシネーの危惧は当たっていた。

 血相を変えたマケドニア兵が欲望に瞳をたぎらせて広間へと押し寄せたのはそれから間もなくのことだったのである。




 さすがに疲労の極にあったせいだろう。

 移動に手間のかかる輿での行軍であったにもかかわらずオレとエウメネスの到着はパルメニオン指揮下の歩兵とさほど変わらぬ時間となった。

 これが半日レベルで遅れていたらせっかくダマスカスまで足を運んだ意味がなくなるところだ。

 そういった意味でダマスカス進駐が遅れたのは僥倖であった。

 しかしそれはあくまでも政略的な意味でのものであって、一般兵士たちにはあずかりしらぬところである。

 無理な転進命令、睡眠不足、前日からの戦闘での疲労が重なって彼らのストレスはすでに限界を大きく超えていた。

 戦場のストレスは理性をあっさりと駆逐する。

 ダマスカスに点在する莫大な財宝と見たこともない美しい衣装を身に纏ったパルシャ貴族を前にして彼らが暴走するのはむしろ当然であったと言っていい。

 それでもそれが軍全体の暴走に繋がらなかったのはひとえにパルメニオンの指揮力によるものであろう。

 これが個人的武勇に特化したクレイトスやヘファイスティオンの軍であればこうはいかない。

 ダマスカスに存在した金は五千タラントにおよびさらに銀もまた五百ポンドを大きく超えようといているが、どうにか大過なく接収を完了しそうだというときに事件は起きた。

「人質の貴族が匿われていた離宮に傭兵が向かっただと?」

 マケドニア軍に参加している一部のヘラス傭兵がどうやら火事場泥棒を働くべくパルメニオンの部隊に紛れ込んでいたらしい。

 虐殺を恐れたのか人質たちの姿は懸命の捜索にもかかわらずなかなか見つけられずにいた。

 どうやらよりにもよって最も見つかってはならない相手に一番初めに見つけられてしまったものらしかった。

「………いかんな。彼らに無体を働けば陛下がご立腹なされるだろう」

 そうつぶやきながらもエウメネスの足はすでに離宮へと向かっている。

 アレクサンドロスにとって金銀財宝の価値はさほどに大きいものではない。

 軍を維持するのに必要なのはわかっているだろうが、ただその程度のものであった。

 そもそも戦場というものは粗食と不衛生を強いられるものであって、戦場を好むアレクサンドロスが王族らしい贅沢に価値を置いていないのは明らかだ。

 ならば何に価値を置いているか―――。

 それは名誉であり名声であった。

 その名声に傷をつけられることをアレクサンドロスが許すはずがない。

 もしもこのままペルシャ貴族の人質たちが虐殺されるようなことがあれば、責任者であるパルメニオンが詰め腹を切らされる恐れすらあった。

 静かな決意とともにいまだ血の気の戻らぬ蒼白な顔色のままエウメネスは離宮へ向かって騎上の人となったのである。

「お待ちくださいエウメネス様!レオンナトス様お早く!」

「そんなこと言われたってオレは利き腕を骨折して……ってげふぅっ!」

 ヒエロニュモスに無理やり馬上に引き上げられて鞍に尾てい骨をしたたか打ち付けて悶絶しているオレがいた。

 そんな場所にけが人を連れて行くなよ、常識的に考えて…………。


 コリントス同盟に加盟している都合上、マケドニア軍にはおよそ三千人のヘラス傭兵部隊が参加していたがその大半は小アジアでの一攫千金を狙ったならず者に近いものたちであった。

 そもそもまともな神経の持ち主ならペルシャを相手に戦争を挑もうとすら考えない。

 正規の訓練を受けたまっとうな部隊がマケドニア軍に参加したがらないのはむしろ当然の結果であったのである。

 そんな無謀な戦争に参加した彼らにとって戦争で奴隷を得て売り払うこと、敵の財産を奪い略奪の限りを尽くすことは人間が呼吸をすることのように当然のことであった。

 戦力としてはいまひとつ当てにならないが、戦後には必ずと言っていいほど軍紀を乱す彼らの存在はマケドニア軍にとっても頭の痛い問題であった。

 いっそいなくなってほしいところなのだがヘラス世界がペルシャ戦に参加しているという事実は政治的には絶対に必要なことなのだ。

 アレクサンドロス自身もマケドニアに激しく抵抗した都市に対して略奪をけしかけたことはあるが、それは決して物欲にかられてのものではない。

 アレクサンドロスの胸中など推し量れるはずもない彼らにとって、離宮に存在するペルシャ貴族たちはパルメニオンらによって一早く押さえられてしまった財宝を補填するに十分な獲物であった。

 その獲物をまさか丁重に保護しなければならないなど、彼らには想像することすらできなかったのである。

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