第22話 誰が為の勝利
ダレイオス王が味方を捨てて戦場を離脱し、いまだ力を残していたはずのペルシャ軍右翼が戦意を失った時点で勝敗は決していた。
しかしそれは決して戦闘そのものの終了を意味するものではない。
大ペルシャにはまだまだ十分な余剰戦力が存在する以上出来る限りの戦力を消耗させておかなくてはならないことは明らかであったし、何よりアレクサンドロスはダレイオスをここで討ち取っておくことを諦めたわけではないからだった。
有能で戦意ある王のいるかぎりペルシャは必ずや再起することであろう。
アレクサンドロスはダレイオスの有能を認めたわけではないが、少なくとも大ペルシャの象徴としての価値は認めていた。
古来よりどれほど戦場で勝利をおさめようとも主将たる王を討ち取られた国家は負けなのだ。
「ダレイオスを逃がすな!褒美は思いのままぞ!」
パルメニオンに歩兵の掃討をまかせ、騎兵戦力を分離したアレクサンドロスは闇に落ちかけたイッソスの原野を北へと疾駆していった。
斥候のもたらした情報にダレイオスは驚愕の色を露にしていた。
空の輝きが完全に星と月ばかりになった今も、全くマケドニア軍の追撃が緩む気配はない。
日没後も戦闘行動を継続するというのはこの時代の軍隊の能力を大きく超えるものなのは常識である。
そもそもマケドニア軍は兵数に倍するペルシャ軍を相手にもてる能力以上の奮戦をしたはずであって、本来立っているのも困難な消耗を受けているはずであった。
今のマケドニア軍はアレクサンドロスの狂気が乗り移っているだけで明らかに行動限界点を超えており、もしもここで強力な反撃を受ければたちまち朽木を倒すように崩れ去るのは明白だった。
――――だがその戦力が余にはない―――!
今ここにあの精強なバクトリア騎兵が五百だけでよい、いてくれれば今からでもイッソスの戦いは大逆転だ。
それもむなしい無いものねだりに過ぎないことをダレイオスはもちろん承知していたのだが。
―――――この屈辱、この無念をはらすまで余は死なぬ!
今は見栄えはどうあれ生きて逃げ延びることが先決であった。
弓もマントも脱ぎ捨てて身を守る盾すら捨て去ったダレイオスは無言のままに迫りくるマケドニア軍を睨みつけた。
わだかまる黒々とした闇のなかに小さな影が揺れているのが見て取れる。
いつの間にか大分接近を許していたものらしい。
「戦車をことさらゆっくりと走らせよ。決して捨てて逃げることは許さぬ」
ダレイオスは長年の従者に冷たく言い捨てて新たな戦車へと乗り込んだ。
姑息な手段であることは十分承知している。
しかし生きてアレクサンドロスに復讐を遂げるまでは、なりふりを構うつもりはダレイオスにはなかった。
ダレイオスに付き従う親衛部隊およそ三百。
さらに周辺には指揮系統から離れた千を超える雑軍がひしめいている。
もし仮にダレイオスが己の命を賭けて徹底抗戦を呼びかければ実のところ今からでも抗戦は可能であった。
勝率はそう高いものにはならないであろうが、それでも五分にはどうにか手が届くであろう。
なんといってもペルシャ軍にはろくに戦ってもいない体力十分な兵が数多く存在するのである。
しかしダレイオスには五分の勝算に命を賭けることはできなかった。
せめて八分以上の勝算を手にしなくてはとうてい命がけの行動に移ることは出来ない。
それがダレイオスの長所でもあり、現在では決定的な短所なのであった。
マケドニア軍の追撃はさらに深夜にまで及んだ。
ペルシャ軍は騎兵だけでも一万以上を失い、行方不明者を含めればその損害は実に三万に達しようとしていた。
もちろんこの数字に自力で行動できる負傷者の数は含まれていない。
十万余を誇ったペルシャ軍は事実上イッソスの地において壊滅したのである。
歴戦の上級指揮官もその多くが壮絶な戦死を遂げており、いかにペルシャが大国であるとはいえ再び同様の戦力を整えるのは至難の技であると言えた。
わけてもグラニコス以来の騎兵指揮官であるアルサメス、さらにはエジプト太守であるサウアケスの戦死は今後の戦局にも大きな影を落とさざるをえないだろう。
また追撃の途上に見捨てられていたダレイオスの家族や食料、褒美として与えられるはずであった財宝はマケドニア軍を狂喜させるに十分なものであった。
その額は実に総額で三千タラントに及んだという。
マケドニアで背負ったアレクサンドロスの借金額が七十タラントであるというからそれがいかに巨額なものであるかがわかるであろう。
開戦から終始補給に悩まされ続けてきたマケドニア軍がこれで一息つけることは明らかであった。
見たことのない財宝に目の色を変える部下たちを尻目に、戦いの狂気から覚めたアレクサンドロスは不機嫌を隠そうともせず言い放った。
「ただちに兵を率いてダマスカスに侵攻せよ。万が一にも再起の暇など与えるな、パルメニオンよ」
静かな驚愕がマケドニア陣中にさざめく波のように広がった。
このイッソスの戦いの勲功第一はパルメニオンであることは衆目の一致するところである。
彼の頑強な抵抗と戦機を捉えた逆撃がなければマケドニア軍の勝利はなかったのは間違いない。
もちろん五分の一以下の兵力でペルシャ軍の最精鋭部隊を突破したアレクサンドロスの戦術指揮能力と武勇は並外れたものだが、それでもやはりパルメニオンの一押しがなければ突破は挫折していたに違いなかった。
その勲功第一の宿将に、ねぎらいの言葉をかけるどころかただちに新たな戦を下命したのだから驚かないほうがどうかしていた。
しかもパルメニオンの指揮する兵の大半は歩兵である。
機動力にものをいわせ一点突破を図る彼らと違い、歩兵はひたすら走り、槍を叩き、盾を押す肉弾戦を強いられる兵種であった。
その疲労たるや立っていることさえ苦痛に感じられるほどであるはずだった。
にもかかわらずあえてパルメニオンに追撃を命じるアレクサンドロスに諸将は明白な悪意を感じずにはいられなかった。
たまらず父に代わって自らが名乗り出ようとするフィロータスをパルメニオンはひとにらみするだけで抑えつけた。
パルメニオンはアレクサンドロスの憤りをほぼ正確に洞察していた。
先刻からペイトンやクラテロスといったマケドニア軍の上級指揮官たちが自分の勇戦を称揚し、礼を述べていくたびに急速にアレクサンドロスの機嫌が悪化していくことに気づいていたからだ。
アレクサンドロスにとって、このイッソスこそは自らの英雄譚の晴れ舞台であるはずだった。
だからこそ勝利のために命を張り、無謀にも敵の眼前にその身体をさらした。
にもかかわらず横から手柄を部下にかっさらわれて穏やかでいれようはずもない。
しかもアレクサンドロスの意識のなかでこのイッソスの勝利を決めたのはあくまでも自分の手によるものなのだ。
ある意味でそれは正しい。
部下の栄誉は主君の栄誉であり、パルメニオンの活躍も戦場を俯瞰して見ればアレクサンドロスのための助攻にすぎないのだから。
しかしアレクサンドロスは決して主君としての栄誉に満足できぬ男であった。
彼にとって重視すべきは主君としての名声ではなくただアレクサンドロス個人の栄誉であるからだ。
……………惜しい……これが一将、いや王太子であったならばマケドニアはどんなにか幸運であったろうに…………。
パルメニオンは不慮の死を遂げた親友の不幸を思わずにはいられなかった。
亡きフィリッポスがアレクサンドロスの英雄願望を特に危険視していたことをパルメニオンは知っている。
なんとなれば国王とはたとえ汚名に塗れても国家の利益を優先させねばならないからだ。
フィリッポスが陰謀家として知られ、笑顔で短剣を突き刺す男などと呼ばれたのはまさにそれを実践してきたからだった。
しかしことここにいたってアレクサンドロスを引きずり落とすという選択肢はパルメニオンにはない。
もしもここでパルメニオンがアレクサンドロスに叛旗を翻せばたちまちマケドニアは小アジアを追われ泥沼の争いの果てに遂には滅びを迎えるであろう。
ペルシャ軍を打ち破ったとはいえマケドニア軍は敵中に孤立しているようなものだし、ヘラスはいまだマケドニアに心服しているというにはほど遠い。
それにアレクサンドロスが勝っているからおとなしく従ってはいるが、内心では反感を覚えている貴族たちもマケドニアには数多いのである。
何よりアレクサンドロスにそうした反アレクサンドロス勢力を懐柔あるいは分断できるだけの政治力がなかった。
だからこそ今ここでアレクサンドロスを見捨てることはパルメニオンには出来なかった。
これがペルシャ戦役が始まる前であればパルメニオンも別の選択肢を選んでいたかも知れない。
しかし不幸にしてフィリッポス二世の存命中に、すでにペルシャへの侵攻作戦は発動されてしまっていた。
未曾有の大戦を乗り切るための君主として、アレクサンドロス以外の候補者はマケドニアに存在しなかったのだ。
「…………陛下の仰せのままに」
己の名誉、この程度の不遇などとるに足らない。
マケドニアの未来のためならば己の命ですら差し出すことをためらうつもりはなかった。
パルメニオンにとって大切なのは世界に冠たるマケドニアの将来を誓い合った亡き親友との約束があるのみなのだから。
「…………ていうかそれでオレたちにも行けと?」
骨折ですよ?重傷ですよ?普通療養に専念させるだろ、常識的に考えて………。
「ダマスカスにどれほど財宝がうなっているか見当もつきません。しかもペルシャの大貴族たちの人質がダマスカスに集められているという情報もあります。
武張ったパルメニオン様の軍だけにダマスカスの占領を任せるのはあまりにも危険が大きすぎるのですよ」
ヒエロニュモスの熱弁もわからなくはないが今の状況ではジャパニーズビジネスマンでも働けないぞ。
「他の人間には無理だということさ。人間あきらめが肝心だよ」
そういって寝台から身を起こしたのはエウメネスである。
傷は浅かったが失血で気を失ったのはつい半日ほど前の話だ。
血の気を失った白皙の頬には乾いた血がいまだにこびりついている状態であった。
とうてい動いてよい身体ではない。
意識を失ったエウメネスを前にオレがどれほど取り乱してしまったか今思い出すのも恥ずかしかった。
というか絶対ネタにされることは確実である。
泣いて助けを呼んだとかマジで記憶から消去したい。
「………私もこんな無理をさせるのは不本意なのですが………ダマスカスに存在する財宝をパルメニオン様が隠匿するのではないか、という憶測もございまして……」
実際マケドニアの人間にとってはお目にかかったことのない大金であることは疑いなかった。
おそらくはその資金とパルメニオンの武が結びつくことを恐れている勢力が存在するということだろうか。
ペルディッカスあたりがその筆頭なのかもしれない。
パルメニオンをライバル視し新たなマケドニア軍のトップに立ちたいという野心を露にしているのは素人のオレにも透けて見えていた。
………馬鹿らしい、あの不器用な御仁にそんな真似ができるなら今頃アレクサンドロスは墓の下だ。
「陛下の側近で派閥的に中立が期待できるのは正直レオンナトス様以外には考えられません。これはプトレマイオス様たっての願いなのです」
………そう思うならお前が行けよ、プトレマイオス………
プトレマイオスの懸念ももっともなものであることはわかった。
軍における主導権を握りたいペルディッカスやヘファイスティオンら若手将校たちではいつパルメニオンに冤罪をでっちあげられるかわかったものではない。
今軍部内でそんな対立が発生することは異郷にいるマケドニア軍にとっては致命傷になりかねなかった。
パルメニオンの地位を保全するためにも彼の潔白を保障する人間が絶対に必要なのだ。
自分がその矢面にたつことだけはきっぱり拒否するあたりが実にプトレマイオスらしい処世術であった。
「ペルシャ貴族をマケドニアに寝返らせるためにもダマスカスの人質は慎重に扱わねばならない。物資の差配と捕虜の保護を滞りなく行うにはレオンナトスだけでは不足だよ」
まかり間違ってマケドニア軍が捕虜を虐殺するようなことがあればペルシャ貴族たちは最後までマケドニアに抗うであろう。
しかもいまだ敵国の婦女子を戦利品として考える兵士は相当数にのぼることが予想されていた。
「お二人のために輿を用意させております。心苦しいですがどうかお早く………」
………まさか古代まできて過労死の心配をすることになろうとはな。
疲れきった身体に鞭打ってオレとエウメネスは輿上の人となった。
経験からいってこれから一週間はほとんど休息もとれぬ日々が続くことは目に見えていた。
いや、物資の量を考えればある程度ペルシャ人の力を借りなくては半月以上かかってしまうやも。
そんなことを考えながら不規則に揺れる輿の上で疲労の極に達していたオレはたちまち気だるいまどろみに身を委ねた。
今日この時こそが歴史の、否、人生の分岐点であったことに気づかぬままに。
もっともそのことに気づくのは、まだまだずっと先の話になるのだが……。
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