第21話 決着

「いったい何が起こったというのだ?」

 ダレイオスが思わず絶叫したのも無理はない。

 アレクサンドロスの死をも恐れぬ無謀ぶりはいささか度が過ぎているきらいもあるが、まだなんとか予測の範疇内ではあった。

 だからこそ不死隊の精鋭はマケドニアの鋭鋒を受け止めダレイオスをここまで守りきってきたのである。

 しかしまさかパルメニオン率いるマケドニア軍左翼にペルシャ軍右翼を破られるというのは全く想定だにしていない事態というほかはなかった。

 マケドニア軍が密集歩兵をバックボーンにして騎兵による一点突破を図るのは戦理にかなっている。

 指揮統制の行き届いた歩兵の集団というものは、たとえ戦力的に劣勢であろうとも崩れるまでには時間のかかるものだからだ。

 ましてそれがヘラスを代表するマケドニア密集歩兵となれば持久を期待するには十分な戦力であるはずであった。

 兵数において圧倒的に劣るマケドニア軍がとるべき戦術は、防御力に優れた密集歩兵に持久させている間にダレイオス率いるペルシャ本陣を陥れる以外にはない。

 ダレイオスはそれを正確に洞察していた。

 そして戦闘はほぼダレイオスの考えていたとおりに推移してきたのである。

 少なくともここまでの間は。

 それが崩されようとしている。

 アレクサンドロスを意識するあまり、注意を怠っていた宿将の手によって。

「パルメニオンめ!奴こそがフィリッポスの武の源泉であると知っていながら………余としたことが読みを誤ったわ!!」

 マケドニア先代王フィリッポス二世は、頻繁に戦場に立つ人間ではあったがアレクサンドロスのように最前線指揮を執ることは数えるほどであったと言う。

 彼は王たるの役目が優れた兵士であることではないと信じていたし、亡き兄の息子から政権を簒奪した王としては、とうてい己を必要以上に危険にさらすことはできなかった。

 そもそもマケドニア王国自体、イリュリア王国やヘラスに圧迫され存続すら危ぶまれていた小国であった時代である。

 国王の死は国家の滅亡に直結しかねない以上無理は禁物であったのだ。

 何より彼には戦場において全幅の信頼を寄せることのできる腹心にして親友がいた。

 まるで一塊の巌のような巨大な存在感。

 身長180センチを超える長大な体躯に相応しい苛烈かつ鋭敏な闘志。

 そして粘り強く柔軟な指揮力を持つ六歳年長の幼馴染はフィリッポスの宝であった。

 寡黙だが面倒見のよいパルメニオンは時としてフィリッポスの兄であり、また時として教師であり戦友でもあった。

 少年のころより気心の知れた二人が誰もが笑うであろう大望を認め合うまでそう時間はかからなかった。

 二人の出会いなくしてマケドニアの急成長はありえなかったと言ってもよい。

 宿敵イリュリアを打ち破った時も、フォキスを苦戦の末に制圧した時も、フィリッポスの傍らには必ずパルメニオンがいた。

 フィリッポスは当代随一の戦略指揮官であり、パルメニオンはそれを理解し応用することのできる最も有能な戦術指揮官であった。

 二人の強力なコンビネーションは瞬く間にマケドニアをヘラスでも有数の大国へと押し上げていった。

 そしてついに念願の小アジア進出のため、先遣隊を送り出した時も何の心配もなく全権を託して任せられる人物は当然パルメニオン以外には考えられなかった。

 同等の宿将のなかにアンティゴノスがいるが、彼は信用はできても信頼するにはフィリッポスを持ってしても危険すぎる人物であったのだ。

 フィリッポスにとってその死の瞬間までパルメニオンはかけがえのない右腕であった。



 潮が満ち引きを繰り返すように、戦にも満ち引きが存在する。

 それは目に見えるものでも理論で割り切れるものでもないが、戦場で長く生き抜いてきた人間は誰もがその存在を承知していた。

 そしてその流れを読むことができるのは、ごく一部の選ばれた人間にしか出来ないのだということも。

 勝利を確信した途端ペルディッカスの逆襲を受け、無理せず後退して軍を再編しようとするアミュンタスを、パルメニオンは安堵とわずかな憐憫とともに見つめていた。

 アミュンタスは確かに優秀な戦術指揮官であるが、所詮それは一部の戦域に限った戦術指揮官の域を一歩たりとも出るものではなかったのだ。

 もしも彼が後方のアレクサンドロスと不死隊との戦いを意識していたとするならば、ここで引くことを選択するはずはなかったからである。

 不可視の戦機を見ることが出来たとすれば、今まさにこのときこそがペルシャ軍の勝機に他ならなかった。

「………すまんな、アミュンタス。あと半刻粘れば貴様の勝ちだった」

 まさにあと半刻、あと半刻あればアレクサンドロス率いるヘタイロイは攻勢の限界に達するか、あるいは辺境兵に捕捉されるに至ったであろう。

 そうなればもはやパルメニオンとアミュンタスの死闘など取るに足らぬものでしかない。

 あくまでも戦場の主役はアレクサンドロスとダレイオスという世界を代表する君主にこそあるからだ。

 所詮パルメニオン達は主役を彩るための徒花にほかならなかった。

 そのことにパルメニオンだけが気づきアミュンタスは気づけなかったのである。

「ブッフォン!大隊を率いてわずかでもいいから時間を稼げ!なに、兵はいるのだ。一気に退いてから押し戻すぞ!」

 アミュンタスは土地と兵を犠牲にして逆襲の時間を得るつもりでいた。

 冷静に考えてもパルメニオンの逆撃もがそう長く続くものでないのは明らかだ。

 遅滞戦闘で多少の兵を失おうとも十分な兵力が自分にはあり、最終的な勝者が自分であるという確信をアミュンタスは失ってはいなかった。

 ただ、パルメニオンほどの男ともあろうものが、こんな後先を考えぬ全力出撃に打って出た理由がわからぬことだけが不審であった。

「所詮は悪あがきだぞ、パルメニオン………!」

 それでも敗走することが度し難いという事実に変わりはない。

 まして戦力的に優位に立っていたはずの現状では特にそうだ。

 報復を誓うアミュンタスの耳に逆襲の主力であるべき兵たちの悲鳴が届いたのはまさにそのときであった。

 アミュンタスは眼前の光景に目を疑った。

 それはアミュンタスの勝利の確信を打ち砕くのに十分なものであったのである。




 怒涛の勢いで劣勢下にあったはずのマケドニア軍左翼がヘラス傭兵を蹴散らして本陣へと突進する様子は不死隊の精鋭にも深刻な心理的衝撃を与えずにはおかなかった。

 兵ですらそうなのだから指揮官が受けたダメージはとうてい計り知れぬものというほかはない。

 まさか兵数に勝る精鋭のヘラス傭兵がマケドニア重装歩兵に突破されるなどありえる話ではなかったからだ。

 歩兵という兵科は騎兵と違ってよほどのことがないかぎり数の力がものをいう。

 密集歩兵同士の戦いでは特にその傾向が強い。

 ここまで戦線を拮抗させてきただけでもマケドニア歩兵の精強さはおそるべきもので、よもや逆撃突破を図るなど夢想だにできなかったのはむしろ当然であった。

「いかん!陛下を落とし参らせよ!!」

 不死隊の指揮官であるトラメトロンはここにいたってダレイオスの身の安全を優先せざるをえなかった。

 負ければ全てが終わるマケドニアと違い、ペルシャにはまだまだ十分な余力が残されている以上ここでダレイオスに命を落とすリスクを負わせるわけにはいかなかったのである。

 それにアレクサンドロスの進撃を食い止めるのもそろそろ限界が近づいていた。

 いかに精鋭の不死隊といえども敗北しつつあるなかで士気を保つのは至難の技であるからだった。

 双方が限界ぎりぎりで戦っていたからこそ、想定外の事態に不死隊は瓦解せざるをえなかった。

「こんな、こんな馬鹿な話があるかっ!」

 妄念にも似た勝利への確信がダレイオスの戦場離脱の決断を遅らせていた。

 ヘラス傭兵はまだ全面的な敗走に及んだわけではない。

 彼らはしたたかに逆襲の準備を整えていた。

 しかもパルメニオンの逆撃は疲労の極にあるマケドニア軍最後の悪あがきというべきもので、いったん限界を超えれば二度と立ち上がることすら出来ぬのは確実であった。

 ダレイオスの捉える戦理によればそれは明らかなのだが、現実にアレクサンドロスはダレイオスを指呼の間に捉えようとしており、パルメニオンは無人の野を行くごとくペルシャ軍本陣を目指している。

 結果不死隊の精鋭は動揺を隠せず、アレクサンドロスのさらなる侵入を許してしまうという悪循環が出来上がっていた。

 何よりもアレクサンドロスを視界に捉えたダレイオス自身が激しい動揺を抑えることが出来なかった。

「そこを動くな! ダレイオス!!」

 少年のような甲高い声が戦場に木霊する。

 …………余は負けてはいない。今日はたまたま運が悪かっただけのことに過ぎぬ。本来余は勝つはずであったのだ!

 その運が悪かった、という事実がどれほど重いものかダレイオスは理解していない。

 アレクサンドロスはその運と不屈の意志によって常に相手を組み伏せてきた人間であるからだ。

 しかしそれを認めることはダレイオスが築き上げてきた人生そのものの否定と同義であることも確かであった。

 これまで戦う前に勝ちを決めてきたダレイオスには、戦いが始まったあとで負けを勝ちにひっくり返す存在という規格外の存在を決して認めるつもりはなかった。

「どけどけ! 余がダレイオスの首を撥ねるのを邪魔するな!」

 しかしダレイオスが勝利に執着していられたのもそこまでであった。

 アレクサンドロスの獅子吼がごく至近で発せらてなお、戦いを継続する意志をダレイオスは維持することが出来なかったのである。

 それでも素直にアレクサンドロスの勝利を認めることだけは出来なかった。

「おのれパルメニオンなかりせば今ごろ勝利の美酒に酔っていたのは余のほうであったろうに!!」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 獣に見紛うばかりの咆哮があがった。

 赫怒したアレクサンドロスの姿がそこにあった。

 ダレイオスは意識せずしてアレクサンドロスのもっとも痛い部分をついたのである。

 このダレイオスの捨て台詞がパルメニオンの未来にもたらすであろう暗雲はあまりにも深かった。

 富よりも権力よりもただ英雄たるの栄光のみを求めるアレクサンドロスにとって、ダレイオスの言葉は英雄はアレクサンドロスではなくパルメニオンであると言われたに等しいものである。

 それはアレクサンドロスにとってある意味戦場での敗北以上に受け入れがたいものであった。

「つ、次に戦場で会うときが貴様の最後だぞ、小僧!」

「ダレイオスを逃がすな!地の果てまで追って余の前に引きずり出すのだ!」

 言葉にならぬどす黒い感情が胸を占めていくのをアレクサンドロスは自覚した。

 しかしその感情は時を置かずしてダレイオスへの怒りという激情に巧妙にすりかえられていった。

 英雄たるもの部下に嫉妬すべきではないという矜持が無意識に講じた防御手段ともいうべきものであった。

 アレクサンドロスはごく当然のように確信していた。

 ダレイオスめ、余に負けたことを認めたくないばかりに負け惜しみを言いおって…………!

 そう、ダレイオスは本陣にまで迫られた余に恐れをなして逃げ出したのだ。

 所詮は英雄たる余と正々堂々雌雄を決する度量などあの男にはなかっただけのこと。

 決してパルメニオンの進撃を恐れたわけではない――――。

 パルメニオンの功績は所詮戦場の片隅での出来事にすぎないのだ―――。

 ダレイオスの逃走と時を同じくして、ペルシャの大軍はついに全面潰走を始めたのだった。




「………た、助かった…………!」

 今度ばかりは本気で死を覚悟した。

 張り詰めた精神の糸が切れるとともに激痛が全身をかけぬける。

 ややもすれば遠のきかける意識をかろうじてオレはつなぎとめていた。

 ここで意識を失えば、せっかく助かった命まで失いかねない。

 ダレイオスの逃亡とともにペルシャ軍の全面的な崩壊が始まっていた。

 辺境兵は真っ先に壊乱していたし、かろうじて組織を維持していたヘラス傭兵部隊も遂に逃走に移りつつあった。

 パルメニオンの反撃があと10分、いやあと5分遅れていたならばオレたちの命はなかったかもしれない。

 落馬のはずみでオレは右肩を脱臼しており、もはや戦力にはなれずにいた。

 そのためプトレマイオスとエウメネスに加わる負担はオレをかばう分を含めると、もはや限界に達しようとしていたのである。

 足手まといな自分を今日ほど不甲斐なく思ったことはない。

 後から後から湧いて出るペルシャ兵に対して圧倒的に兵数が少なすぎる。

 少し離れた場所で戦いを継続するアレクサンドロスの周りからも、明らかにマケドニア兵の数が減っていた。

 ここまでなのか?歴史は変わってしまったのか?

 ………そう思っていたいつのまにから勝手に敵が崩れていた。

 狐につままれたような思いとはこのことであろうか。

 どうやらパルメニオンの逆撃に不死隊が動揺したらしいと気づいたのはそれからしばらく経ってのことであった。

「今回もなんとか生き延びましたね…………」

 そう言ったエウメネスが顔を蒼白にしたままがくりと馬上で身体を九の字して蹲った。

 いったいいつの間に負ったものか、背中から流れ落ちた大量の出血が馬の鞍をみるみる赤く染め上げようとしていた。

「エウメネス!!」

 気がつけば悲鳴をあげてオレはぐったりと力なく項垂れるエウメネスの背中にとりすがっていた。

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