第20話 歴史の真実
「陛下!!」
アレクサンドロスと轡を並べていたヘファイスティオンとプトレマイオスが期せずして振り返る。
見たところ出血の量はそれほど多くはないようである。
動脈が傷ついていないというのは不幸中の幸いというほかはない。
しかし槍が突き刺さったという事実を鑑みれば、アレクサンドロスの体力が今後加速度的に減っていくであろうことは想像に難くなかった。
激昂するヘファイスティオンとは対照的にプトレマイオスの表情から血の気が失せ背筋が凍る。
――――まずい。
マケドニア軍はアレクサンドロスの常軌を逸したカリスマを糧にかろうじて戦意を維持している。
そのカリスマに傷がつけばどれだけ士気を維持できるかははなはだ疑わしいと言わざるをえなかった。
もしもこのままアレクサンドロスが負傷で戦場を離れるようなことがあれば、マケドニア軍は比喩ではなく異郷の土と化す運命を免れまい。
「………余の歩みを止めたければ槍をもってではなく心をもって押しとどめてみせよ。雑兵ごときの槍が英雄の野心を阻むことなど出来ぬ」
アレクサンドロスが獅子吼したのはそのときである。
重傷と言ってもよい負傷も彼にとっては英雄叙事詩のほんの些細なエッセンスにすぎなかった。
むしろ難事に陥れば難事に陥るほど自らを奮い立たせるのが稀代の英雄たるアレクサンドロスという男なのであった。
負傷した国王が一歩も引かずに死戦する軍の弱かろうはずがない。
一時は衝力を失ったかに思えたマケドニア軍は再び不死隊の重厚な布陣を押し戻しつつあったのである。
―――――ありえぬ。
ダレイオスは目の前の現実に目がくらむ思いであった。
こんなことはありえない、ありえてはならない。
確かにこれまでの戦史でもスパルタのレオニダス王のように勇敢に死戦した王は数多くいた。
しかしそれはほとんどが祖国滅亡に際しての防衛戦においてのものであり、亡国を前にした王の義務というべき戦いでもあった。
ところがアレクサンドロスは違う。
彼のマケドニア王国はいまだ国土の開発の途上にあり、無理に戦をしなくても十分に王国を発展させる余地のある新進気鋭の国家である。
確かに小アジア世界に食指を伸ばすのはヘラスへの対抗策としても有効なものだが、国家経営上決して必須というわけではない。
むしろ内政をこそ充実させることが、歴史の浅いマケドニアにとって国家百年の大計であるかもしれなかった。
それを選択しなかったのはアレクサンドロスの飽くなき名誉欲である。
彼にとって自らの名声を歴史に刻印することはマケドニアという国家の歴史より遥かに優先すべきことなのだ。
もしも力及ばず敗れるようなことあらば、マケドニアという国家も王と運命をともにして滅ぶべきであるとすら考えていた。
彼にとって人生とは神が紡ぎだす大いなる叙事詩において、死の瞬間まで英雄を演じきることにほかならなかった。
ダレイオスにはそうしたアレクサンドロスの価値観そのものが理解できない。
ペルシャという世界最大の国家を指導する人間として彼は自らの責任を正しく自覚するものであった。
ゆえにアレクサンドロスの無謀な苛烈さがいやがうえにも不気味に感じられてならなかったのである。
ダレイオスと違い、アレクサンドロスには妻も子もいない。
為政者としては決定的な障害をもつ弟以外に王国を継承すべき人間がいないという事実を考えれば、彼の死後王位をめぐる争いが勃発することは確実であった。
もちろんヘラス諸国もマケドニアの内訌を見て黙ってはいないであろうし、大ペルシャとしても座してそれを見守るつもりはなかった。
高い確率でマケドニア王国が滅亡することは誰の目にも明らかだ。
もしアレクサンドロスがこの戦いを生きながらえたとしてもその未来は決して明るいものではない。
この遠征のためにアレクサンドロスが背負った借金は莫大なもので、王室の直轄領や財宝はそのほとんどが借金の抵当にいれられていた。
なんら得るものなく敗走すれば、本国にたどり着けたとしても破産は免れないだろう。
結果として形骸化した王室はマケドニア王国に不和と無秩序の種となって祖国に仇名す存在となり不名誉な死を迎えることになる。
これだけの事実を前にしてなお槍を振るう男が、もうすぐ近くまで迫っていた。
人馬の怒号がダレイオスの耳にも、はっきりと大地を揺らす津波のような轟きとともに聞こえていた。
アレクサンドロス率いるヘタイロイの精鋭たちは、いまやダレイオス本陣の中枢へとその爪を立てようとしていたのである。
国力において圧倒的に相手を凌駕していた。
兵数において相手に倍する以上の圧倒的多数を揃えて望んだはずであった。
知略において完全に相手を翻弄し、その術中に獲物を捕らえた。いや、まさに捕らえている。
政治、外交、軍事、行政、そのすべてにおいてダレイオスが王としてアレクサンドロスに劣るものはない。
にもかかわらず、ダレイオスの死命に手をかけようとしているのは愚かで無知で野蛮な小国の若き王アレクサンドロスにほかならなかった。
初めてダレイオスはアレクサンドロスという男に原初的な恐怖を抱いた。
それは己の理解の及ばぬ超常現象を前にした人間が、本能的に感じる思いに似ていた。
打ち鳴らされる剣戟の音はさきほどよりダレイオスに迫っているように感じられた。
――――このままでは終われぬ。
生まれて初めてダレイオスは自らが死ぬことではなく、敗北を許容することに恐怖していた。
見た目ほどにマケドニア軍に余裕があるわけではない。
確かに優勢に不死隊を圧迫してはいるが所詮は無勢の悲しさである。
一人また一人とヘタイロイの精鋭がペルシャ兵の槍にかかっていくのは避けるべくもなかった。
さすがのアレクサンドロスも戦意こそ失せてはいないが疲労の色は隠しきれない様子で長い騎槍をあきらめ剣に武器を切り替えていた。
「…………こりゃまずい………かもな」
「陛下の運に期待するほかありませんね………」
オレもエウメネスもどうにか命ながらえていたが、それは奇跡的な偶然の結果であるということをオレは十分に承知していた。
ヘタイロイの精鋭として明らかにオレ以上の武勇を誇るものたちがすでに数多く命を落としていたからだ。
かろうじてオレたちが生き延びる可能性が高いとすれば、それは手柄に固執せずお互いのフォローを心がけているということか。
さすがに王の親衛隊である不死隊は手強い。
歩兵としての防御力はヘラスの密集歩兵に勝るとも劣らないほどだ。
ヘラス歩兵ほどの密集度をもたないことを考えればその強さは世界最強といっても過言ではなかった。
ようやくダレイオスの本陣を前にして狂喜したのはよかったが、その短い距離をつめるのが実のところ至難の業だったのである。
親衛隊長に直卒された不死隊は巨大な巌のごとく厚くしぶとく頑強であった。
しかも後方で控えていた辺境兵三万がもう指呼の距離に迫ろうとしていた。
さきほどオレとエウメネスが危機感を募らせていたのはこの存在のためである。
軍隊としての成熟度はいささか心もとないが、現在の膠着状況を打破するためには十分な兵力であるといわざるをえない。
彼らが戦線に加入する前にダレイオスを捉えることが出来なければ万事休すだ。
突出したヘタイロイたちとともにアレクサンドロスは滅び、同時にオレの命もまたこの異郷に果てることになる。
「………どちくしょう………聞いてねえぞ、こんな話………!!」
史書にいわく、アレクサンドロスが本陣へ突撃をかけるとダレイオスは味方を見捨ててたちまち戦場を逃げ出した、とあるがひどい誤解であった。
ここまで肉薄されてなお不死隊の戦意は旺盛であり、ダレイオスが逃亡する気配は微塵も感じられない。
未来とのチャンネルが切れた感覚が感じられない以上、これが史実であるはずだった。
確かにダレイオスのこれまでの戦歴を考えれば、彼が臆病であることはありえない。
こうして優勢に推移している戦場で多少危険が迫ったくらいで逃げ出すほうがどうかしていた。
もしもダレイオスが逃げ出すことがあるとすれば、それは彼が真実戦の負けを覚悟した瞬間となるだろう。
…………もう一手……ペゼタイロイの一個大隊でもあれば話は違ったんだろうけどな。
おそらくもう一押し別の圧力があれば、マケドニア軍はダレイオスの本陣への突入を達成することができる。
それは必ずしもペルシャ軍の全面壊走を意味しないが、ダレイオスが史実同様味方を捨てて逃亡する可能性は高かった。
ダレイオスが逃亡すれば戦意の薄い辺境兵は実質的な戦力的価値を失うであろうし、史実どおりの勝利を収めることもそれほど難しいことではない。
しかしいくら考えてみてもそんな魔法のつぼから湧き出るような都合のよい戦力は思いつくものではなかった。
そのころプトレマイオスも全くレオンナトスと同様の結論に至っていた。
アレクサンドロスの側近でそうした戦況分析を行える人間はそれほど多くはない。
現にヘファイスティオンもクレイトスも、ただアレクサンドロスとともに剣を振るうことに集中している。
後に王となるプトレマイオスだからこそ、過酷な戦場で剣を振るいながらもそうした思考をめぐらすことが可能なのだ。
しかし不利な要素しか見当たらない戦況は確実にプトレマイオスの集中力を奪っていた。
死角から突き上げるように繰り出された槍の一撃に、プトレマイオスは気づくことすら出来ずにいたのである。
「………くそ、痛え………」
悪友の珍しく余裕のない苦渋の声にプトレマイオスが気づいたとき、そこには槍を打ち払うことでバランスを崩して落馬しているレオンナトスがいた。
レオンナトスに自分の命を救われたことに気づくまでにはさらに数瞬の時間が必要であった。
「プトレマイオス!早くレオンナトスを拾ってください!!」
エウメネスが絶叫する声にようやく身体が反応する。
馬を失ったレオンナトスを放っておいては彼が雑兵の手にかかるのは時間の問題であるからだ。
「早くつかまれ!レオンナトス!」
時間がなかった。
エウメネスがたった一人で支えてくれているが、レオンナトスとプトレマイオスの分までの相手をこなすのは至難の業だ。
文官であるエウメネスだが、その武勇には武官であるプトレマイオスでも賛嘆の念を禁じえない。
レオンナトスには悪いがもし立場が逆であったなら今ごろは三人そろって討ち死にを余儀なくされていたであろう。
弱弱しく差し伸べられた手を力任せに引き上げる。
「グッ」とレオンナトスが声にならぬ悲鳴を上げた気がするが躊躇しているような余裕はどこにもなかった。
そして馬上にレオンナトスを引き上げると同時にエウメネスを狙っていた雑兵の頭に剣を一撃する。
「助かりました」
「いや、助けられたのはこっちさ」
いつのまにかエウメネスもレオンナトスも全身に軽傷を抱えていた。
エウメネスの秀麗な顔にまで及んだ無数の刀創は、すでに満身創痍と表現してよいだろう。
それは戦に余裕があるならば、後方に下げて治療を受けさせるべきほどのものであった。
そんな状態で、言ってはなんだがレオンナトス程度の腕であんな無茶をすれば十中八九まで助からないのは明らかである。
悪友とはいえ格下同然に扱ってきたレオンナトスにここまでされる理由がプトレマイオスには思いつかなかった。
「………どうしてあんな無茶をした?………死ぬぞ?」
「死ぬ気は毛頭ないよ。還ることをあきらめていないから無茶をするのさ」
おそらく還る場所をプトレマイオスには理解できまいと苦笑しながらオレは口の端を歪めた。
ここでプトレマイオスが死ねば歴史の歪みは修正不能だ。
それにどうやらオレはそんな理由とは別にこの男を殺したくないらしい。
実際計算高いが人としての甘さを捨てきれない男でもあるプトレマイオスは、レオンナトスにとって好ましい人物であった。
この先を生き延びていくためには、マケドニア軍中にあって数少ない理解者であること男を死なせるわけにはいかないのも確かであったが。
……………生きる………生き延びてオレは…………
未来に還るという希望がなくなったわけではない。
しかしこの古代マケドニア世界を生き延びていくという現実もまた、オレのなかで大きな領域を占めていることにオレは気づいた。
いつの間にかこの世界の人間関係があの未来の人間関係の比重を超えようとしていたのだ。
決してよい傾向ではない、が心はむしろ逆に晴れ晴れとしていた。
「…………お前という男を見誤っていたようだ」
目の前でプトレマイオスが神妙な表情で頭を下げているが、何をどう見誤っていたのか想像もできない。
またへんな勘違いをしていなければいいのだが。
「…………どうやら勝ったか」
アレクサンドロスの神がかり的な武勇も結局不死隊の組織力には及ばなかったようである。
もはや完全にマケドニア軍の進撃は停止していた。
かろうじて不死隊との間で均衡を保ってはいるが、それも所詮は辺境兵が到着するまでの悪あがきにすぎない。
先ほど感じた理由のない恐怖を振り払うようにことさらダレイオスは声を上げて嗤った。
「こうなることはわかっていた。わからなかった貴様が愚かなのだ、アレクサンドロス」
もしも神がいたならばダレイオスはそのえこひいきぶりを呪い、悪魔にすらその魂を売ったであろう。
ペルディッカスの側撃により全面後退を開始したペルシャ軍右翼に対し、パルメニオン率いるマケドニア軍左翼が後先を考えぬ全面攻勢に打って出たのはまさにその瞬間であったのだから。
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