第19話 英雄の瑕瑾
「な、なんだ!?」
さきほど味方の軽装歩兵がかけぬけていった荒野を、千名ほどのマケドニア兵団が声ひとつあげずにもう目の前まで迫っていた。
マケドニア軍左翼を半包囲していたペルシャ軍は全く無防備な状態でマケドニア軍重装歩兵の一団の強力無比な一撃を受けてしまい蚕食される葉のように壊乱した。
兵数に劣り、戦列も薄いマケドニア軍がまさか予備を隠し持っていて逆撃してくるなどということはペルシャ将兵の想像の埒外にあったのだ。
「………これはいったいなんの手妻だ?パルメニオン!」
パルメニオンほどではないにしろ、ペルディッカスが戦術指揮官として有能なことは疑いなかった。
実に無駄のない機動でヘラス重装歩兵の側面に食らいつき数倍する敵中を我が物顔で押し進んでいく様はその証明と言える。
これによりペルシャ軍右翼は一時的にマケドニア軍によって逆に半包囲されることとなった。
数に倍する勢力が半数以下の勢力に半包囲されるなど戦史にも稀な出来事と言えた。
もともと密集歩兵というものは運動性に乏しい兵科である。
わずか千名ばかりの小勢とはいえ油断がもたらした破滅と言う名の毒はペルシャ軍全体に少なからぬ衝撃を与えずにはおかなかった。
……信じられない。
アミュンタスは混乱していた。
あの練度を見れば彼らがマケドニア軍の最精鋭部隊であることは知れる。
ということはパルメニオンは決戦戦力を温存したままペルシャの圧力を撥ね退けていたということになる。
容易くそんなことができるほど、自分の攻撃は安いものではない、ないはずだ。
密集歩兵の戦いは消耗戦であり神経戦でもある。
絶え間ない戦列の補充と時間と共に低下していく士気の鼓舞、そして進退に伴う戦列の調整に敵の隙を見逃さずつけこむこと。
分厚い戦列をぶつけあう密集歩兵にはそうした煩雑な指揮が必要不可欠であった。
一瞬の閃きと直感で兵を進退させる騎兵に対し、冷徹な判断力によって極めて合理的に兵を運用するのが歩兵だとも言えるであろう。
そのため歩兵同士の戦いは消耗戦に陥りやすく、一旦劣勢に転じるとそこから挽回するのは至難の技と言えた。
先ほどまでのマケドニアの戦いぶりからは想像もできないことだが、どうやらパルメニオンはペルシャ側の四分の一以下の兵力で戦線を維持していたらしい。
マケドニア最強の宿将の手腕はやはり尋常なものではありえなかった。
「なぜだ………なぜそれほどの腕を持ちながらあのような若僧のために………!」
アミュンタスは喉から搾り出すようにそう独語せずにはいられなかった。
アレクサンドロスの即位を決定づけたのはアレクサンドロスの天才ではなく、パルメニオンの支持によるものなのはマケドニア宮廷では常識である。
母大后オリンピュアスはマケドニア宮廷では嫌われ者に等しかったし、エウリュディケが身ごもった子供が男児である可能性もあった。
さらにはフィリッポス二世の先王であるアミュンタス三世の遺児に政権を返上すべきだとする勢力すら存在した状況であっのだ。
しかもフィリッポスの暗殺の首謀者はオリンピュアスではないか、という噂が流れたこともあってアレクサンドロスを推戴することに心理的抵抗を感じる貴族も少なくなかったのである。
だからこそ軍部に絶大な発言力を持つパルメニオンが全面的にアレクサンドロスの支持に回ったことは大きかった。
もしパルメニオンが他の王族をかついで反旗を翻せば王国は泥沼の内戦に突入せざるをえなかったであろう。
もちろんパルメニオンもそれを警戒したからこそ早期にアレクサンドロス支持を表明したのであるが。
「あの小僧は君主の器ではない!ただの力を持った餓鬼にすぎん!それがわからぬお前ではあるまいに!」
アレクサンドロスは自らの英雄願望のゆえに容易く国を危うくし国民を殺す。
そして自らを超える英雄の誕生を決して許すことはありえない。
苦労はともにすることができるが楽をともにすることはできない、一皮剥けば嫉妬と承認欲求にまみれた子供でしかないのだ。
とうてい生涯の忠誠を誓う相手にはなりえなかった。
………だからオレはあのとき小僧を見限ったのだ。まだペルシャのほうがましに思えたからな。
かつてフィリッポスに仕えた老臣達はいずれはアレクサンドロスの側近たちにとって変わられ冷遇を余儀なくされるであろう。
それはパルメニオンにもわかっているはずだった。
父を否定し、父を凌駕しようというアレクサンドロスにとってフィリッポスの治世に慣れた旧臣はもはや邪魔でしかない。
今のところ立場が保障されているパルメニオンやアンティパトロス、アンティゴノスといえども将来的には全く安泰というわけではないのである。
それでもなお、あの小僧に尽くすべき理由があるというのか。
それほどまでにお前の中でフィリッポスとの約束は大きなものなのか。
愚かな―――あの小僧は近い将来亡き陛下の愛したマケドニアを滅ぼすぞ、戦いの勝利と敗北とにかかわらず。
一瞬の追憶と感傷に囚われていたアミュンタスだが、歴戦の将らしく手早く応急措置をとることを忘れはしなかった。
「サルビアデス、大隊を率いてあの別働隊の足を止めろ。一線は予備と交替して後方で再編だ。急げ!」
確かに押し戻されはしたがそれも致命的なものではない。
抽出した腹心に別働隊の跳梁を阻止させ動揺した戦列を補強すれば、結果的にペルシャ側の勝利は動くものではなかった。
パルメニオンの勇戦も隠し玉も、失血死を先延ばしにした以上の効果をあげることはできないのだ。
………もっともそれは、戦場をアミュンタスの目の前に限ればの話にすぎない。
イッソスで最も美しく煌びやかな戦場の華は、アミュンタスを離れること10スタディオンほどのところで、今まさに大輪の花を咲かせようとしていたのである。
「進め進め!アレスの加護はあの敵の向こうにあるぞ!」
アレクサンドロスの愛馬であるブケファラスはその見事な巨躯に相応しい速度をもってペルシャ陣へと突き進んでいた。
慌てたのはヘファイスティオンをはじめとする王の側近たちである。
ほとんど悲鳴をあげんばかりになって愛馬を鞭打ち、王に離されまいと追いすがる光景はいっそ滑稽というべきものであった。
おいおい、いい加減自重しろよ……………。
同じく近習の一人として王の守りにつかなくてはならないオレやエウメネスにとっては拷問に等しい難行である。
もとより体調がすぐれないうえに、オレもエウメネスも実際のところ乗馬に長けているとは言い難いのだ。
王に追いすがるヘタイロイについていくだけでも精一杯の有様なのは如何ともしがたい。
しかしそんな無謀が結果的に成功のもとになってしまうのがアレクサンドロスという男であった。
風のような速度で突進する王を目の前にして、ペルシャ重装歩兵はまず驚愕し、そして次に怯えた。
まともな思考ではありえない行動だったからだ。
これが狂人ならば納得もできたかもしれないが、相手は大ペルシャに幾度となく苦渋を飲ませてきた蛮人の王であった。
当然一見無謀な蛮勇には、それを裏打ちするだけの強さが秘められているはずと思われたのである。
アレクサンドロス個人の思惑は別として、指揮官先頭とそれに必死で追いすがる騎兵という組み合わせは完全にペルシャ軍の予想を覆す速さでも接近を可能とした。
それは通常の軍の侵攻スピードというものを明らかに逸脱した速度であった。
ヘタイロイの大部分はもはや王に追いつくことだけに傾注しており、敵と戦うことなど思考のどこかに置き忘れてしまっている。
恐れも計算もなくただ馬を駆り立てることのみに全力を投じた騎兵部隊の突進圧力は、本格的な歩兵戦闘の経験のないペルシャ重装歩兵カルダケスにはとうてい耐えうるものではなかった。
ヘラス発祥の密集歩兵というものは、一人一人が自立した武装農民でありまた選挙権者でもある非常に高い士気と連帯性を有していた。
マケドニアは専制国家ではあるが、自立した市民に歩兵のバックボーンを担わせていることは変わりない。
だがペルシャ軍にとって残念なことに、民衆の自立性と国家への帰属性においてペルシャはヘラス世界に大きく劣っていた。
行政組織や経済力においてペルシャはヘラスを遥かに上回っていたから、これは一長一短でどちらがよいとも言えぬ類のものであるが、少なくともこの戦場においてペルシャ軍に歩兵の優位性をもたらさなかったことは確実であった。
「止まるな!ダレイオスの命を奪い取るまで歩みを止めてはならぬ!」
怒涛の勢いでペルシャ重装歩兵を突破したアレクサンドロスは大きく開かれた無人の沃野の先に、世界でもっとも強大な王の中の王ダレイオスの姿を認めた。
あまりにもあっけなくアレクサンドロスの突破を許したカルダケスの不甲斐なさにダレイオスは地団太を踏む思いであった。
長年ヘラス密集歩兵に苦い思いをさせられてきた教訓をもとに、ようやくペルシャ世界で編成された新たな密集歩兵であったにもかかわらず、その実力は非常につたないものでしかなかったらしい。
「せっかく死地に飛び込んできてくれたのだ…………トラメトロン、奴を生かして帰すな」
それでもダレイオスは微塵も取り乱してはいなかった。
信頼すべき不死隊(アタナトイ)の指揮官は短く「御意」とだけ答えて配下に指示を出すべく天幕を飛び出していった。
そう、結果は何も変わりはしない。
本陣の後方にはなお三万の辺境兵が無聊を囲っており、さらに自分には無傷の最精鋭部隊不死隊(アタナトイ)がいる。
カルダケスも戦線に大穴をあけられたとはいえその大部分は損害らしい損害を受けてもいなかった。
アレクサンドロスの退路を断ち、重囲におくには十分な状況であったのだ。
「小僧………本陣に手が届けば余に勝てるとでも思ったか」
絶対的に兵数に劣るマケドニア軍が逆転の一手としてダレイオス個人を狙ってくることは十分に予想できた。
だからこそダレイオスは、前線を突破された場合の次善の手段として、マケドニア軍を内部に引き入れて包囲殲滅する手立てを既に整えていたのである。
アレクサンドロスに食い破られたはずのカルダケスは指揮系統を再編し、隊伍を整えて早くもマケドニア軍の退路を遮断しつつあった。
勘違いをしてもらっては困る。罠に落ちたのは貴様のほうだ、アレクサンドロス――――!!
「これはかなりやばいんじゃないのか?」
「………こうなってはもう陛下の底力を信じるほかはないよ」
カルダケスを突破したときは素直に感心していたオレとエウメネスも、その後の不死隊の重厚な布陣や辺境兵の機動、さらにはカルダケスが退路を断ちに動き始めたのを見ては楽観してばかりいるわけにはいかなかった。
断言するが史実どおりにダレイオスが逃亡してくれなければマケドニア軍は九分九厘まで全滅を免れないだろう。
先頭で嬉々としてヘファイスティオンとともに無双を繰り広げているアレクサンドロスはこの事実を知っているのだろうか?
…………おそらくは知っているのだろう。
そのうえで自らが勝利することを信じて疑っていないのだ。
アレクサンドロスとはそういう男であった。
今日も相変わらずアレクサンドロスの傍は地獄である。
敵の攻撃が集中しているのだからそれも当然のことなのだが、なぜかアレクサンドロスには致命的な攻撃が通らず護衛の者達だけがその命を散らしていく。
もはやこれには理不尽をとおりこして呆れるほかはない。
若きヘタイロイがその身を張って守るだけではさすがのアレクサンドロスもいずれは死を免れないであろうが、それ以上に王の傍には三人の強力な盾が存在した。
すなわちマケドニアの誇るヘファイスティオンとクレイトスとプトレマイオスであった。
アレクサンドロスとともに獅子奮迅の勢いで剣を振るう三人は、まさにペルシャ軍にとってこの悪しき世界に具現した死の暴風にほかならなかったのである。
不死隊はペルシャ軍中にあって王の王を守護する最精鋭部隊の名に恥じぬ戦いぶりを見せつけていた。
全体としてマケドニア軍の勢いに押されていることは否めないが、もともと数に勝るうえ援軍を期待できる現状においてはそれは致命的な要素にはなりえない。
あと数刻耐えることが出来ればマケドニア軍の敗北は必至である。
満足そうにダレイオスは頷きを繰りかえした。
………あと少しで右翼の決着もつくだろう。パルメニオンの率いる左翼を崩されてはマケドニア軍も士気を維持できまい。
すでにダレイオスの見るところマケドニア軍の敗北は確定していた。
確かにアレクサンドロス率いる騎兵部隊の攻撃力は当初の予想を上回る激しいものであった。
だがそう易々と敗れるほど不死隊の練度と結束力は甘いものではない。
また騎兵は突破力には優れているが、実際に与えられる損害はそれほど大きなものではないのは戦理に照らして明らかだ。
ゆえに、その衝力が失われるまえに不死隊を突破して余の前に辿り着けなければマケドニア軍は終わる。
薄い嗤い声がダレイオスの口から無意識に漏れ出した。
己の無力さに絶望しろ、アレクサンドロス。
そして己の身の程を知れ。
そもそもマケドニアのごとき蛮族が大ペルシャを征服しようなどと考えられること自体がペルシャにとって言葉に言い表せぬほどの恥辱であった。
海を見てこれを飲み干そうと考える人間はいない。
敵対しようなどと考え付くことすら許さない広大無比の大きさこそが大ペルシャの基なのである。
そのためには海を飲み干そうなどと考える愚か者は血の一滴も残さず抹殺しないわけにはいかなかった。
巨大な堤防が蟻の一穴から崩壊するように、そんな不遜な考えを抱けるものはそれ自体が帝国にとっての災いにほかならないのだ。
「お避けください、陛下!」
「うぬっ!」
不死隊とヘタイロイの戦闘が開始されてからすでに半刻、マケドニア軍の衝力は明らかに鈍り始めていた。
集中力を一瞬乱したアレクサンドロスの隙をついて突き出された名も無き兵士の槍は、あやまたずアレクサンドロスの太ももを貫いていた。
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