第18話 逆襲
「さえない顔だな、レオンナトス」
そういって豪快に笑い飛ばしている身長二メートルに達しようかという巨人が、その大きな手のひらで容赦なくオレの背中を叩いた。
ズシンと身体の芯にまで衝撃が突き抜けるかのようだ。
もう少し手加減しろっての。
それにさえないは余計だ。
「あいにくの体調でね、今日の手柄は君に譲るよプトレマイオス」
「手柄は譲られるものではないだろう?」
そういってまたプトレマイオスはガハハ……と大口を開けて笑った。
アレクサンドロスの側近のなかでもペルディッカスと並んで年長組に位置し、仲間の求心的な役割を果たしてきたプトレマイオスは意外にも明朗闊達で人好きのする男であった。
巨体と大きな鷲鼻におおらかな笑みがなんともよく似合っている。
瞳も大きくどんぐり眼が実におかしな愛嬌に富んでいた。
決してヘファイスティオンのような美形ではないが、どちらに好感を抱くかといわれれば同性なら一も二もなくプトレマイオスをあげるであろう。
後年ディアドコイ戦争においてあのアンティゴノスに匹敵する権謀術数を駆使する陰謀家の姿とも思われなかった。
「死にたくなければオレの後ろから離れるなよ、レオンナトス。陛下の守りはオレに任せておけ」
さすが後代の知将なだけあってプトレマイオスはオレやエウメネスの苦労を理解してくれる数少ない武将の一人であった。
パルメニオンとプトレマイオスの協力がなければいかにエウメネスの有能をもってしても、ここまで大過なく補給を維持できたものかは疑わしい。
計算能力に長け、理屈を素直に受け入れることができるプトレマイオスはマケドニアにあって稀有な将帥と言えた。
何かにつけて厭味なヘファイスティオンには本気でプトレマイオスのつめの垢でも煎じて飲ませたい。
性格は豪放磊落だが、頭の回転が速く知識と理論で感情を制御する術を知っている。
プトレマイオスはひとことで言うならやはり王の器として生まれついた男というべきなのかもしれなかった。
「………そろそろ戻ったほうがよさそうですよ」
エウメネスが声を潜めるようにして呟いた。
沈着冷静なエウメネスにして震えるような高揚を抑えることができない。
マケドニアとペルシャの命運を賭けたこの戦いは、歴史上の転換点として永久に語り継がれるであろう。
歴史の証人になれる機会はあっても、歴史の担い手となれる人間はそう多いものではないのだ。
小柄な部類に入ろうかという体躯が距離をへだててもはっきりと確認する事が出来る。
英雄たる者だけが発散することができる存在感ゆえのものであった。
槍を天にむかって突き上げながらアレクサンドロスは配下の兵士に親しく声をかけて回っていた。
「おお、アラクトール、カイロネイアの勇者よ。再び余とともに勝利の美酒を酌み交わそうぞ!」
「お任せください陛下、テーバイの神聖隊に比べればペルシャの有象無象どもなど手もなくひねってみせましょう!」
「たのもしきかな勇者の言よ。聞けマケドニアの誇る兵士たちよ、勇者の栄光と魂はみなと共にあり!」
――――――歓声
割れんばかりの歓声がマケドニアの陣中に満ちた。
今この瞬間にペルシャを恐れ敗北に恐怖するものはただのひとりもマケドニア軍に見ることはできなくなった。
恐るべきは英雄の感染力であった。
「勝利の栄光とともにありたいものは余に続け!」
ブケファラスの巨体が引き絞られた矢のごとくペルシャ軍左翼のただなかへ猛然と突進を開始した。
プトレマイオスやヘファイスティオンもまけじと王の後に続いていく。
空前の高揚に包まれたマケドニア重装騎兵の激流のなかに、オレもエウメネスもたちまち飲み込まれようとしていた。
マケドニア軍とペルシャ軍との間には干上がったピナロス川が横たわっている。
その高低さは最大で3メートル以上に達しており、比較的高低差のない川筋には逆茂木が並べられマケドニアの接近を阻むはずであった。
しかしアレクサンドロスに率いられたマケドニア騎兵の一団はペルシャ軍の予想を遥かに上回る速さで接敵し、射撃戦によって漸減するとうペルシャ軍の構想は戦いの初手から挫折を余儀なくされようとしていた。
「蛮人め!」
はき捨てるようにダレイオスは呟く。
アレクサンドロスの蛮勇はダレイオスの見るところ恐れというものを知らないただの愚か者の所業にすぎなかった。
王という国家の象徴は戦の行方そのものを握っていると言ってよい。
それが堅牢な防御陣地にわざわざ先陣を切って挑みかかるなど、これを愚行と言わずしてなんと呼べはよいのだろうか。
しかし愚行であるだけにペルシャ軍が意表をつかれていることもまた事実であった。
それがダレイオスには腹立たしい。
騎兵は陣地戦にはむかない。
また騎兵の衝力は密集歩兵の防御力を上回ることはできない。
これまでペルシャが経験した数々の戦いの戦訓はそれを如実に表している。
だからこそダレイオスは地形防御力に拠って後の先をとってマケドニア軍を包囲殲滅するつもりでいた。
誤算があったとすれば、それはペルシャ軍でヘラス歩兵の影響を受け新たに編成されたペルシャ重装歩兵カルダケスが初期の力を発揮できそうにない
ということであった。
言葉に表せばそれだけのことだが、そのことが戦況にもたらす影響はあまりにも甚大である。
「――――なんだと!?」
ダレイオスは悪夢でも見るような思いであった。
マケドニア騎兵に数倍する重装歩兵(カルダケス)が、ほとんど抵抗らしい抵抗もできぬままにアレクサンドロスの突破を許したのだ――――。
同じころアレクサンドロスと歩調を合わせるようにしてマケドニア軍左翼もペルシャ軍右翼と戦闘に突入していた。
こちらはさすがにアレクサンドロスのように鎧袖一触というわけにはいかない。
アレクサンドロスの主敵がペルシャ重装歩兵であったのに対し、パルメニオンの前面に展開していたのはアミュンタス率いる精鋭ヘラス傭兵とペルシャでも最精鋭の騎兵部隊であったからだ。
「陛下の勇戦を貶めるような真似をするものは斬る!」
パルメニオンの割れ鐘のような声が戦場に響き渡る。
巨躯であるパルメニオンの雄叫びは万を超える兵の怒号のなかにもかかわらず 確かにマケドニア兵士のもとへと届いていた。
血で血を洗う激戦はまだ始まったばかりであった。
ペルディッカスは続出する被害に戦々恐々としていた。
アミュンタスはマケドニア軍左翼を半包囲するようにしてマケドニア軍を押し戻しており、アレクサンドロスの突出によってがら空きなった右翼に圧力をかけ始めていたからである。
すでにプトレマイオス(ディアドコイのプトレマイオスとは別人)をはじめとして名のある武将たちに戦死者が出始めており、敵の攻勢を支えることができるのも時間の問題のように思われたのだ。
―――だが総予備として待機を命じられたペルディッカスに戦線投入の指示はない。
このままではなんら戦いに貢献することもないままに敗軍に飲み込まれてしまうのではないか?
ペルディッカスは最悪の予想に身を震わせながらパルメニオンの将旗をにらみつけることしかできなかった。
―――――やりおるわ、アミュンタスめ!
うなぎのぼりに上昇カーブを描いていく被害状況にも、パルメニオンはまだ冷静さを失わずにいた。
先ほどからいったん退いて態勢を整えるべきだ、とペルディッカスから意見具申がきているが片腹痛い。
劣勢のマケドニア軍左翼にあって唯一の武器は最高潮に達した味方の士気だ。
それを下げるようなまねができる筈がなかった。
アミュンタス率いるヘラス傭兵部隊とマケドニア軍の決定的な差はそこである。
傭兵はプロフェッショナルではあるが、与えられた命令以上の士気を保つことはできない。
だからこそアミュンタスもアレクサンドロスのように後先を考えない損害を度外視した突撃を行うことができずにいるのだ。
逆にマケドニア軍は熾烈な味方の損害にも士気を失うことはない。
もっともそれにも限界があることをパルメニオンもよく承知していたのではあるが。
「戦列を乱すな!マケドニアの強さを見せ付けるのは今ぞ!」
パルメニオンは自らも槍をとって敵の戦列の隙間を縫って騎兵による襲撃を繰り返した。
歩兵の前に自分の姿を見せることによって戦意を失わせないためだ。
また騎兵による擾乱はアミュンタスの攻勢に対する遅滞防御の一環でもある。
当然それをアミュンタスも承知していたが、これに対する有効な手段を打ち出せずにいたのである。
「さすがはマケドニアの宿将、半包囲されながらここまで戦列を維持するとはな…………」
それがどれだけ困難なことか、有能な戦術指揮官であるアミュンタスは承知していた。
もともと密集歩兵というものは正面以外に対する防御力が非常にもろい。
マケドニア歩兵はヘラス歩兵よりも密度が薄く自由度が高いが、それでも密集歩兵であることの宿命からは逃れられないはずであった。
それをギリギリで支えているのはパルメニオンの柔軟な指揮と絶妙な予備による穴埋めの成果である。
ほんの数瞬でも予備の投入が遅れれば戦列の崩壊は免れない。
「だが、それもここまでだな」
数に勝るペルシャ軍右翼は軽装歩兵による一団を編成し迂回突破を試みようとしていた。
その数三千、とうていわずかな予備で繕うことのできるものではない。
前線の歩兵に対する圧力を強めながらアミュンタスは勝利を確信していた。
テッサリア騎兵はペルシャ騎兵との乱戦に巻き込まれ対応する力は残されていないし、圧倒的少数であるマケドニア軍にそれほど大きな予備が残っているとも思えなかった。
「一気に走り抜けて背後を確保しろ。それで戦は終わりだ」
確かに軽装歩兵が三千も背後に回ることができたならば戦いはそこで終わってしまうだろう。
問題はそれが実現するか、しなかった場合にどうするかということなのだが甘い未来に酔うアミュンタスはそれに想像をめぐらす余裕はなかった。
「ペルディッカスよ、出番だ。逆撃して反時計周りに敵の左翼を衝け」
パルメニオンの伝令を受け取ったペルディッカスはパルメニオンの洞察の深さに驚愕していた。
あの戦いの始まった瞬間にこれあるを予期していたということか。
攻勢においてはアレクサンドロスのような天才性はないが、防御戦術に関してはアレクサンドロスさえ上回るかもしれぬ。
マケドニア最強の宿将は健在であった。
「敵はこちらに対応する力がないものと油断している。全速で接近して一気に屠り去るぞ」
――――オレが相手方の指揮官でも油断するだろうな……
薄い歩兵の戦列を味方の士気と、本営の護衛を予備にして耐え忍ぶ。
そんな博打のような真似をするなど誰が予想するだろうか。
マケドニアにおいてパルメニオンの存在は王の次に大きなものだ。
それがほぼ数人の護衛を残して残りの歩兵戦力の全てを予備にしてしまうとは。
また倍以上のペルシャの大軍を相手に従来の三分の二程度の薄い戦列を編成するなど、自分には決して真似のできぬ用兵であった。
――――だからこそ報酬は大きい。
もはや敵などいないと思っているのだろう。
ペルシャ軍の軽装歩兵が速度だけを重視してわき目もふらずに走ってくるのが見える。
もとより盾も持たぬ軽装の者達だ。
この速度を捕捉し打ち払うのは至難の技に違いなかった。
……あらかじめ備えているのでなければ。
「横撃して蹴散らすぞ。槍を構えろ」
ペルディッカス率いるマケドニア重装歩兵千名が突出したペルシャ軽装歩兵の側面を衝き、これを壊滅させたのはそれからまもなくのことであった。
ペルシャ軍にとって最悪なことに、彼らは軽装歩兵が壊滅したことを知らず、そのルートを逆走して新たな手柄に燃えるマケドニアの若き戦術指揮官が迫っていることに気づけずにいたのである。
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