第24話 最悪の出会い

 最前線の兵士たちに理性と知性を期待することは現代の先進国正規軍でもないかぎり難しい。

 その先進国ですら実戦の最中には様々な蛮行に手を染めることは珍しくないのである。

 現代よりも遥かに死が身近にあった古代においてそれを兵士に期待するのは非常に困難なことと言わざるをえなかった。

 もとよりヘラス傭兵に対するマケドニアの待遇は決してよいものとはいえなかった。

 フィリッポス二世がつくり上げたマケドニア軍の軍事組織に比べヘラス傭兵の練度はそれほど高いものではない。

 ゆえに戦いの最前線はとうてい任せられなかったし、また指揮統制上の問題から都市の占領維持といった非戦闘地域を任せることも出来なかった。

 当然彼らはマケドニア軍から給金を受け取ることはできても、それ以上に旨みのある略奪や暴行を働く機会を与えられずにいたのである。

 戦いのもっとも大きな部分を占める動機を奪われて彼らが暴発するのも無理からぬところなのであった。

「すげえ………こんなぜいたくな場所見たことねえぜ………」

「もう一生遊んで暮らせるぞ……」

「女どもも上玉ばかりだ」

 敵国を略奪し、女子供を奴隷にすることはこの時代では一般常識近いもので特にこの傭兵たちが非道というわけではない。

 現にマケドニア軍も一部では略奪を兵たちに許可していた。

 むしろ略奪をある程度抑止しただけでもアレクサンドロスの判断は当時としては異常なものだ。

 単位面積あたりの人を養える収穫量が貧弱であった中世にいたるまで、占領した地域を維持していくためにはある程度人を間引きするのは当然の措置でもあった。

 それでなくともヘラスを代表するポリスであるアテネは数多くの奴隷を格安の労働力とすることによって少数である自由市民の生活を維持していた。

 彼らにとって異国の人間は厳密な意味においての人間ではないのであった。

 しかしペルシャ世界においてはヘラスとはいささか見識が異なる。

 広大な領土に相応しくペルシャは異民族に寛容であり、よくその自治を保障した。

 従属と一定の義務を果たすかぎり異民族であろうとも鷹揚に受け入れるその大きさこそがペルシャが世界帝国である所以でもあったのだ。

 もちろんそんなペルシャの常識がヘラスの兵士たちに通用するはずもなかったのだが。

 離宮に乱入したヘラス傭兵に対抗すべき兵力はすでに失われていた。

 戦える兵士という兵士はダレイオスが連れて行ってしまっており、残されたのは老人と女子供のみ。

 この状況では反抗する手段など何一つ残されていないに等しい。

「おおっ!こいつはすげえ女だ!」

 傭兵の一人が一人の女に吸い寄せられるようにして叫んだ。

 象牙のような肌に黒曜石の瞳、それだけでも十分以上の美女ということができるだろうがその女は存在感そのものが常とは違った。

 肉感的な美しさでいえば彼女にそれほどの魅力はないかもしれない。

 しかし人が時として虹や夕焼けの美しさに瞠目するように、人知を超えた何かを感じさせる雰囲気が彼女にはあった。

 万金にも換えがたい宝を掌中に収めんと無造作に手を伸ばす男の手を女は全く躊躇することなく弾き飛ばした。

「下賎な手で私に触れようとするでないわ、蛮族が」

 一瞬自分が何をされたか理解できなかった男であるが、数瞬のうちに自分が侮辱されたことを知ると羞恥に顔を赤黒く染めた。

 無力なはずのペルシャの女に侮辱されて男のプライドは深く傷ついていた。

 いつだって略奪される者たちは見下されるものであるはずだった。

 泣いてすがる彼らを情け容赦なく蹂躙し、犯し、殺し、売り飛ばしてきた。

 こんな侮りを受けることは一度たりともなかった。

 ありえぬはずの出来事が男から冷静な判断力を奪いつつあった。

「ただじゃ殺さねえ………自分から死にたくなるほどじっくりいたぶって………おっ?」

 小柄な女の影に隠れるようにして長身の女が身を縮めているのが男の目に止まった。

 こちらも見目良い美女と呼んでよい女であった。

「………姉か妹か、まあ運がなかったと思うんだな………」

「お前がな」

「…………ん?」

 もうひとりの女に目を奪われていた男が最後に目にしたのは、凝った彫刻に彩られた極彩色の天井であった。

 ……………なんで天井が見えるんだ…………?

 それが男の最後の思考となった。

 歴戦の傭兵たちは見ていた。

 女が目にも止まれらぬ速さで踏み込んだかと思うと、男の右手をとり後方へ無造作に放り投げたのだ。

 それも同時に剣を奪って後頭部を痛打して気を失う男の止めまでさす神速ぶりであった。

 女が尋常ではない武勇を身に着けていることは誰の目にも明らかだった。

「……女はおとなしく好きにされるとでも思ったの………?」

 弱者からなんの危険もなく奪いつくせると考えていた男たちは、裏切られたかのような理不尽な思いを抱きながら次々に抜剣した。

 ――――殺さなければならない。

 殺すには惜しい女だが生かして捕らえるにはあまりに危険な女であることを男たちの全てが認めていた。



 エウメネスは焦りの色を隠そうともせず離宮への道を急いでいた。

 これがスパルタやエペイロスのような従来どおりの王が相手であればここまでエウメネスが焦ることはなかったであろう。

 しかしエウメネスはアレクサンドロスの欲求が女や金や領土といった形あるものにはないことを知り尽くしている。

 王は強きものを敵とすることを喜び、弱きものをいとおしむことを美徳としていた。

 まして奪っては去るスキタイのような騎馬民族ならばいざしらず、今後ペルシャ領を支配していくためにはペルシャ貴族たちの力が絶対に必要であった。

 ここでヘラス傭兵に欲しいままにされるということは、最悪マケドニア・ヘラス連合軍の分裂とペルシャ貴族の徹底抗戦を呼び込む可能性すらあったのである。

 それでなくともアレクサンドロスは捕虜にしたヘラス傭兵たちを故国の抗議にもかかわらず虐殺して不評を買っていた。

 こんな話が耳に入れば味方であるヘラス傭兵も虐殺されかねない。

 あくまでここで内々に処理してしまう必要があった。

「間に合ってくれ………!」

「痛い痛い痛いっ!!急いでるのはわかったからそんな強くオレの腕を引っ張らないで、頼むから!」

 というか怪我人のオレを引っ張っていく理由がわからん!

「すいませんレオンナトス様………」

 悪そうにはしていても決して助けようとはしないヒエロニュモスが二人の後に続いていく。

 そうだよな、結局のところお前はエウメネスの味方だよな、ヒエロニュモス。


 グイッ


「ぎょわああああああああああ!」


 激痛のあまり絶叫するオレをなおも省みぬまま、エウメネスはついに離宮の巨大な広間の扉に到着した。




 女が不意に身を沈めたかと思うと男の脛が飛んでいた。

 そのまま床を転がるようにしてさらに三人の男が脛を飛ばされ戦闘不能に陥る。

 予想外の女の剣技に驚くまもなく、伸び上がるようにして振るわれた女の剣がまた一人の男の頚動脈を切断した。

 おそろしくすばやく躊躇いのない瞬息の剣であった。

「くそっ、みんなこっちに集まれ!」

 認めたくはないが目の前の女は個別にかかっていては返り討ちにあう危険性が高い化け物である。

 おそらく膂力は平均的な女性を大きく超えるものではない。

 だが神速の速度と理想的な脱力に支えられたしなやかさは天性のものというほかはなかった。

 降りかかる火の粉に近づきたくはなかった兵士たちも、ここにいたっては協力して女を排除したくてはならないことを理解していた。

「………お前たちは後ろの女を取り押さえろ」

 兵士たちは二手に分かれて女に迫る。

 姉か妹かはわからないが、女の背後に庇われた女が目の前の化け物の親族であることは間違いない。

 たとえいかなる手を使ってもこの美しくもおぞましいバルバロイを殲滅しなくてはならなかった。

 わずかに女が形のよい眉を顰めるのを男たちは見逃さなかった。

 やはり家族は女にとって有効な切り札になりえそうであった。

「………姉さま、どうかご存分に」

 しかし男たちの期待は意外な形で裏切られた。

 恐怖に肩口を目に見えて震わせている女が、それでも決然として死体から剣を取り上げたのだ。

 気弱そうに見えても芯の部分では妹は姉と同じ血が流れていることを証明した。

 辱めを受けて生き延びるより名誉ある死を選ぶのがペルシャ王家の血を引く自分たちの勤めであるはずであった。

「ちっ………せっかくのお宝を………」

 このうえは姉妹そろって殺すより法がない。

 なんとも惜しい話であると男たちは考えていた。

 姉妹以外にも着飾った女たちはまだ数十人が残されていたがやはりこの姉妹は別格であったからだ。

 同量の金にも換え難い価値が姉妹にある可能性すらあった。

 もちろん現実にダレイオスの血縁でもあるペルシャでも有数の大貴族の一員である二人には間違いなくそれ以上の価値があったのであるが。

「ぎょわあああああああああああっ!!」

 その場の雰囲気には似つかわしくないまぬけな悲鳴が響いたのはそのときだった。




 扉が開かれると同時に入ってきた男はもちろんペルシャ側の人間であるはずもないことを女は正確に判断していた。

 しかしなんとも場違いな面々であることは間違いなかった。

 一人はまるで病み上がりのように蒼白な美丈夫である。

 もしも宮廷にあればその美しさで王すら虜に出来たかもしれないと思うほどだ。

 もう一人は凡庸を絵に描いたような目立たぬ男でとうてい武に通じているとも思われぬ。

 最後の一人にいたっては右手を添え木で固定しているところから見てもおそらくは利き腕を骨折しており戦力として全く期待できない。

 どうしてこんな三人が乱入してきたものか意図をつかみかねるところである。

 もっともそんな思考とは別に女の身体は闖入者が生んだ隙を見逃さず包囲の一角へ踊りかかっていた。

 豹のようなしなやかさで女がまた一人のヘラス傭兵を血煙のしぶきに沈める。

 エウメネスは予想外の事態に思わず息を呑んだ。

 六人の兵士が物言わぬ骸となって倒れているが見たところ武装しているのは二人の美女がいるのみである。

 おそらくは今兵士を一刀のもとに倒した女が一人で倒したものであろう。

 おかげでいまだ貴族たちに被害が出ていないのは幸いだが………。

「双方剣を引けっ!」

 エウメネスはあえて剣を振るい続ける女を止めることを選択した。

 ヘラス傭兵にはこのために用意した切り札がある。

 まずは目の前の女を止めなくてはならなかった。

 膂力ではエウメネスはクレイトスやヘファイスティオン、クラテロスといった武人たちに遠く及ばない。

 神速と天性こそがエウメネスをして文官でありながら一流の武人たらしめていた。

 まさに二人の剣は同質のものであったのだ。

 ただエウメネスが男性であり、そして実戦経験に大きな差があることがそのまま二人の実力の差となった。

 痛いほどの痺れを女に残して女の剣が飛ぶ。

 空中に放り出された剣はゆっくりと放物線を描いて遠く広間の反対側で高い金属音を響かせた。

 厄介な女が武器を失ったことで兵士たちの間に歓声が沸く。

 しかしそれもエウメネスが口を開くまでのことだった。

「ペルシャの貴人にいっさい手出しはならぬ。すみやかに本営に帰陣せよ!」

 莫大な宝を横から掠め取ろうとしか思えぬエウメネスの言葉にたちまちヘラス傭兵たちから殺気があがる。

 相手は所詮三人にすぎない。

 ここで殺して闇に葬り去ることも決して不可能ではないのだ。

「アレクサンドロス陛下は貴人たちを保護するため王家の血族であるレオンナトス様を当地に派遣なされた。それでもなおがんじえぬというなら死を覚悟するのだな」

 ヘラス傭兵たちが慌ててレオンナトスを凝視する。

 まさかそんな大物が現れるとは予想していなかったからである。

 レオンナトスといえばマケドニアに併合されたリュンケスティス王家の王子であり、先代のフィリッポス二世はこのリュンケスティス王家出身の女性を母としていた。

 あまりマケドニア軍中で意識されないため忘れがちではあるが、レオンナトスはマケドニア国内でも有数の大貴族なのである。

 さすがに王族を殺して無事でいられると考えるほどヘラス傭兵たちも無謀ではなかった。

「ってオレの出番これだけかよ…………」

 というか下手したら殺されてただろ、常識的に考えて…………。

「辛抱ですよ、レオンナトス様………お願いですから泣かないでください」

「泣いてないやいっ!」

「ご安心ください。陛下の命により貴方方の安全はわれらマケドニア王国軍が保障いたします」

 獣の皮をかぶった蛮族どもになぶり殺しにされことを覚悟していたペルシャ貴族たちはこのアレクサンドロスの処置に思わず歓声をあげた。

 文化的な歴史の裏づけのないマケドニアに対する偏見はまだまだペルシャ宮廷に根強いものがあったのである。

 ほとんどの者たちが死か奴隷の身に落とされることを覚悟していただけにその安堵は大きかった。

「なかなかにマケドニアにも話のわかる男がいるではないか」

 怖じる気配もなくそう言い放ったのは先刻の女丈夫であった。

 エウメネスに剣を弾かれたときにはさすがに死を覚悟したようであったが、それでおとなしくなるほど殊勝な人間ではないらしかった。

「まあ私は気にしませんが、もう少し命を大事にしたほうがよろしいかと思いますよ」

 エウメネスは苦笑を禁じえない。

 目の前の女性がおそるべき手練であることはわかっているが、小柄で大きな黒曜石の瞳をした外見は十代後半に見えなくもない。

 そう考えるとなんとも微笑ましい気持ちにさせられてしまうのだ。

「死は誰にも等しく訪れるものだ。命を大事にするとは己の節を曲げずに生を全うするということよ。もしも私が節を曲げることがあるとすれば……それは愛しい男のためだけじゃ」

 しかし女の答えは微笑ましいどころのものではなかった。

 なんのてらいも逡巡もなく言い切った彼女の言葉にエウメネスは打ちのめされたと言ってもいい。

 なぜなら彼は己の節を曲げることで現実に対応してきたからだった。

 エウメネスは女の中に王と同質の死生観のようなものを幻視した。

「貴女にそう言わせるほどの男はさぞ立派な御方なのでしょうね………」

 心のそこからエウメネスはそう思っていた。

 彼女にそこまで想われるのは一個の男としてこのうえもなく名誉で価値があることではないか。

 ――運命の輪は回る。

 それが呪いにせよ祝福にせよ、動き出した運命は試練の舞台に役者を乗せようとしていた。

 もう誰も運命の舞台から降りることはかなわない。

 死が運命の役を分かつまで。



「何、そなたもマケドニア軍のものであれば聞いたことがあろうよ…………ミテュレネで病死したペルシャの将メムノンがわが夫じゃ」

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