第14話 マケドニア王国の闇
「父上にお話があります」
サルディスで占領地の慰撫にあたっていたパルメニオンのもとに、息子フィロータスが訪れたのは月も高い深夜になってのことであった。
憔悴の色も露わなフィロータスの様子にパルメニオンは、その事実が示すものをある程度予測することができた。
フィロータスが秘密裏に何を探っているかということについて、当然パルメニオンも無関心というわけにはいかなかったからだ。
ある意味においてパルメニオンがその秘密にむける関心はフィロータス以上とも言える。
なぜならそれは、今は亡き先王フリッポス二世の暗殺の真相に関わるものだったからである。
「………暗殺の数日前、国母様はパウサニアスを親しく招き、そこで復仇を称える唄を吟じております」
「その噂は聞いている。だがパウサニアスが死んだ今それを証言できるものがいるか?」
パルメニオンは顔を顰めて首を振った。
暗殺の当初から国母オリンピュアスを疑う声は決して少なくはなかった。
フィリッポス二世とエウリュディケとの間に男子が誕生した場合、アレクサンドロスの母であると言う一点においてかろうじて宮中に権力を維持していたオリンピュアスは最悪故地エペイロスに追放されても不思議ではない。
夫婦の愛情がとうの昔に冷め切っていることは、宮廷内に詳しいものなら誰でも知っている当たり前の事実だったのである。
だからこそ暗殺時には様々な憶測と噂がマケドニア全土を駆け巡った。
フィロータスの言うオリンピュアスが宴に乗じてパウサニアスに暗殺をそそのかしたというのもそうした噂のひとつであった。
「…………その場に居合わせた女官はわずかの例外を除き不慮の死を遂げております。私がようやく真実を聞き出せたのはエペイロスから国母様に付き従っていた古参女官のひとりです」
調べが進むうちに数々の疑惑が浮上していった。
フィリッポス二世の寵愛を失ったパウサニアスがなぜかオリンピュアスに招かれていたこと。
真相を探ろうにも、当日の目撃者たちが次々と病死や事故死という不慮の死を遂げていったこと。
かろうじてエペイロス王国からオリンピュアスに付けられた側近たちだけが、そうした不幸を免れていた。
そこに人為的な意思が存在するのは火を見るよりも明らかだった。
「いったいどうやって聞き出した?あの神憑りどもは結束が固かったはずだが…………」
オリンピュアスの側近にはひとつの共通点がある。
すべての人間がデュオニュソス教の熱心な信者であるということだ。
激情に身をゆだねることを是とする彼らは現実主義者のフィリッポス二世とその腹心たちにはあまりに相性の悪い存在だった。
オリンピュアスが類稀な美貌であったことを差し引いても、フィリッポスとオリンピュアスが一時は仲の良い夫婦であったということは奇跡に近い確率といえるだろう。
もっともそれには他の側室がなかなか世継ぎを懐妊しないという問題もあったのだが。
「確かに結束は固いようですが身内には逆に甘いようですな。エペイロスのほうに手を回して身内に聞き出させたら実に呆気ないものでしたよ」
そう言ってフィロータスは皮肉気に口の端を吊り上げた。
やはりフィリッポス二世暗殺の主犯はオリンピュアスだったのだ。
あとはさらに証言を固め大逆に相応しい報いを受けさせてやる。
先王の死以来、フィロータスがそれを夢見ぬ日はなかったのだから。
「おそらく陛下には通じぬぞ」
パルメニオンのしわがれた声にフィロータスが目を剥いた。
内心ではうすうす感じ取りながらも、なんとか否定したい事実であったのだ。
アレクサンドロスにはフィリッポス二世の暗殺を奇貨として王に即位したことを天佑と捉えている節がある。
そして偉大な父フィリッポスを自らの名声に対する障害と認識していることが、言葉の節々から受け取れるのである。
さらにアレクサンドロスとオリンピュアスは非常に似通った気質の持ち主で、お互いを特別な絆で結ばれた神聖な親子だと考えていた。
フリィッポス二世の生前、母オリンピュアスと一度はエペイロス王国へ亡命したことを見ても二人の絆は明らかなのだ。
「しかし………それでは………陛下の無念が………っ!」
無意識のうちにフィリッポスを陛下と呼んでしまうところにフィロータスの心情が現れていると言えるだろう。
王として、為政者としていまだ彼を超える存在をフィロータスは知らなかった。
アレクサンドロスでさえ、王としての才は遠くフィリッポスに及ばない。
学友としてアレクサンドロスを慕う気持ちはあれど、こればかりは自分に嘘をつけないのだ。
「まだ動く時は早い………フィロータスよ、その件はわしに預けておけ」
パルメニオンは無力感に打ちひしがれる息子の肩を優しく抱いた。
激発してよいのならばパルメニオン自身がとうに激発している。
それが出来ないのは現在マケドニア王国が未曾有の国難に直面しているからであり、死んだフィリッポスが何よりもマケドニア王国の行く末を大切に思っていたからだ。
国王が国の守護者たることを誰よりもよく知っていたかけがえのない君主であった。
「…………父上は陛下をどうお考えですか?」
フィロータスの問いにパルメニオンは瞑目する。
この陛下とは言うまでもなくアレクサンドロスのことである。
アレクサンドロスがオリンピュアスを擁護した場合、あるいはアレクサンドロス自身が暗殺に関わっていた場合にどうするべきかをフィロータスは問うているのだ。
「……………あの男は天に愛されておる…………」
パルメニオンの口調は苦い。
王としてはいささか物足りないアレクサンドロスだが、戦場においては神がひいきしたかのような天運に恵まれていた。
その天運こそが戦場における最強の切り札であることを歴戦の将であるパルメニオンは知っている。
運のない武将はどれほど策をめぐらし勇を誇ろうとも結局は敗北するし、運のある武将は才が凡庸であろうとも遂には勝つ。
それが冷厳な戦場の運命というものなのであった。
そして兵士をたちまち熱狂させるカリスマ性はあのフィリッポスにもなかったものだ。
武将として当代随一というべきものを、確かにアレクサンドロスは持っているのである。
だからといってその才能がマケドニアを益するかどうかはわからない。
特に博打としか言いようのない対ペルシャ戦争中の今は、たった一度の敗北が十の勝利をやすやすと覆してしまうだろう。
天運は決して永続するものではありえない。むしろ永続しないがゆえに天運は天から与えられるのである。
才あるがゆえにマケドニアを滅亡へと追いやる可能性も、決して低いものではないのであった。
「……今はただその天運の行く先を見守るのみ。そしてあの方が愛したマケドニア王国にとって陛下が障害となるならば、この老体の身命を賭して陛下を排除する。陛下がマケドニアにとって無くてはならないならば、たとえどれほどの憤怒を抱き、涙を飲もうともこれを守る。それがフィリッポス二世陛下の腹心たる我が覚悟じゃ」
フィリッポスの死後アレクサンドロスが即位しなければマケドニア王国は支柱を失って内乱に突入していたであろう。
今もまたアレクサンドロスの生命なくば強大なペルシャに飲み込まれることは避けられまい。
マケドニアを守るためにはまずアレクサンドロスを守らねばならない情勢に変わりはないのである。
だからこそパルメニオンと軍部は結束してアレクサンドロスの支持を続けてきた。
しかし明確にマケドニアの利益とアレクサンドロスの利益とが敵対するようなことがあれば、パルメニオンは躊躇なくアレクサンドロスに剣を向けるつもりでいた。
何も好き好んでエペイロスの物狂いの血をひくアレクサンドロスを支持してきたわけではないのだ。
たとえ内乱になろうとも、マケドニアという国が消えてしまうよりよいという場合もある。
「もしも時がいたればわしも躊躇せぬ。しかし今はこの件は胸にしまって自重しろフィロータス。妙な隔意を持ってはならぬぞ」
フィロータスはミエザの学校でアレクサンドロスとともに机を並べた仲だ。
少年期をともに過ごした連帯感というものは、成長し大人になっても存外に大きい。
パルメニオンの軍に対する影響力を削ぎたいにもかかわらずフィロータスがいまだアレクサンドロスに重用されているのも、そうした過去と無縁ではあるまい。
しかしそうした思い出を背景とした連帯感は、ふとしたきっかけで反転するものでもある。
無条件の信頼が無条件の憎悪となるのも珍しいことではないのだ。
フィロータスがアレクサンドロスに不信感や隔意を悟られてはその反転を誘発しかねなかった。
「…………新たな情報が入ればまた…………」
承知していると言いたげにフィロータスは軽く手を振ると、頭を下げてパルメニオンの天幕を後にしていった。
そして静寂が戻った天幕に小さく吐き出すような声が響く。
「…………あのくされ巫女め………っ!」
主君にして親友でもあったフィリッポスの死について、パルメニオンの怒りがフィロータスのそれを下回ることなどありえないことだった。
他の誰よりも呪詛を叫び、オリンピュアスを殺しにいきたいのはパルメニオン本人に他ならなかったのである。
マケドニアの首都ベラはひとまず小アジアの戦いから帰還した若者たちを迎えて戦勝の喜びに酔っていた。
アレクサンドロスが兵の一部を故郷へ返したのは、功績をあげた兵に対する褒美であり、国民に対する勝利のアピールであった。
勝利を喧伝することなしに新たな兵士を徴募することは難しい。
しかしダレイオス王との決戦を前に、できる限り多くの兵を揃えたいというのがアレクサンドロスの偽らざる本音なのである。
「………毒蛇を無事に退治したとのこと、まことに重畳に存じます」
そういってオリンピュアスは目の前の男にたおやかな笑みを浮かべて見せた。
陽気で話術巧みな男は、厳格で融通の利かないアンティパトロスなどより遥かに親しみやすかったのである。
「全く母太后様の託宣のおかげでございますとも。それに私などよりも今回はエウメネスやレオンナトスが骨を折ってくれまして…………」
謙遜して見せつつも、如才なく手に入れてきた香水をオリンピュアスに贈る男の正体はアンティゴノスであった。
フィリッポス二世の宿将であるアンティゴンスとオリンピュアスの付き合いは古い。
パルメニオンやアンティパトロスといった宿将たちがオリンピュアスの不興を買っているのとは裏腹に、アンティゴノスとオリンピュアスの関係は良好だ。
人の心理を操ることを得意とする謀将アンティゴノスにとって、オリンピュアスのお守りなどそれほど難しいことではないのである。
「書記官殿はともかくレオンナトス殿………ですか?」
思いがけぬ人物の名を聞いてオリンピュアスは興をそそられたようであった。
「あれはなかなか底の知れぬ男になっておりますなあ………信じられないことですが今までがすべて演技ではなかったかと思えるほどで」
確かにレオンナトスの変貌はアンティゴノスにとっても新鮮な驚きであった。
プライドが高く目立ちたがり屋であった餓鬼臭さが失せ、驚くほど思考が柔軟なものになっている。
あれはむしろ異国人であるエウメネスのそれに近い。
レオンナトスは王家の血すら引いている男であることを考えればどれだけ破格のことかわかるだろう。
…………それにエウメネスに普通に殴られていたしな……ありえないだろ常識的に考えて………
いずれにせよあの二人からは今後目を離せないようだ。
マケドニア軍広しといえども自分の想定の枠に収まらぬのは王を除けばあの二人だけなのだから。
「それはそうと母太后様、いささか身内に甘うございますぞ。羽虫が一匹エペイロスから紛れ込みましたようで」
アンティゴノスが言外にあらわしている言葉をオリンピュアスは正確に洞察した。
「そういえば先日コウデリムの親族が訪ねて参りましたが………」
「その男はパルメニオン一派の間諜にございます」
オリンピュアスの顔色が変わった。
オリンピュアスの母国であるエペイロスの人間までは警戒をしていなかったためであった。
「………礼を言いますアンティゴノス殿。これからもよしなに………」
「私は母太后様の味方にございます。どうぞお心安らかになさいませ、早めに消してしまえば災いにはなりますまい」
どうせパルメニオンには告発する勇気はあるまい。
あの男は有能だが物事を難しく考えすぎる悪癖がある。
割り切って果断に行動してしまえば後はなるようになるものを………もっともなるようにしかならないとも言えるのだが。
少なくとも今パルメニオンやフィロータスに胡乱な気を起こさせるわけにはいかない。
アンティゴノスにとって確かにフィリッポス二世は得がたい主君であったが、この世に存在しないものに対する忠誠などアンティゴノスは持ち合わせていなかったのである。
「また移動したのか?戦好きにもほどがあるだろ常識的に考えて………」
エウメネスとともにアレクサンドロスの本隊へ補給の手はずを整えていたオレは思わず天を仰いだ。
アレクサンドロスの転戦スピードに補給が追いつけない。
情報が入ってようやく手配がつきそうになると移動しているの繰り返しである。
こうなるとあらかじめ侵攻先を予想していないと補給を届けることは不可能だろう。
「いいことを言うねレオンナトス。それじゃ陛下の侵攻先をひとつ予想しておいてくれ」
「お前オレを殺す気か!ていうかむしろオレがお前を殺してやるわ!」
睡眠時間を削って手配を進めてきたところに無理難題を押し付けられてさすがのオレもキレた。
こんなことを続けていたら冗談ではなく死んでしまう。
そんな殺人的な作業量なのだ。
「へえ…………君が隠している秘密をまた尋問して欲しいのかな………くすっ?」
「私が悪うございました、へへぇぇ………」
メムノンの一件以来エウメネスのオレを見る目は厳しさを増す一方である。
連日にわたる拷問のようなエウメネスの尋問を耐え切った自分の精神力をほめたい、ほめちぎりたい。
いくらなんでも憑依の件がバレたら帰還が不可能になるのは確実だ。
しばらくはおとなしくしておかんと…………。
「もうじきマケドニアから新規の募兵隊がくるから装備品の準備もお願いするね!」
「うううっ……おありがとうございますぅぅぅぅぅぅぅ!!」
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