第15話 イッソスの戦い前夜

 開戦以来マケドニアに吹いていた風が急に止まったのはつい先日のことである。

 すなわち、連戦連勝を重ねてきたアレクサンドロス陛下が病に倒れ、その命すら危うい状態にあったのだ。

 誰もがマケドニア軍の勝利が薄氷の上に立つ儚いものであることを自覚せずにはいられなかった。

 王の死の前には百の勝利も何ら恩恵をもたらすものではありえなかったのである。

 破滅の間近なことを知って平静でいられるものは少ない。

 兵士たちには情報は伏せられていたものの、もしも事実が明らかになれば全軍の崩壊となって表れてもおかしくはないというのが現実だった。

「…………この絶望的な状況でレオンナトスはどうしてそんなに落ち着いているのかな?」

 あっるええええええええええええええええええ??




 マケドニア軍がペルシャの中枢へ足を踏み入れるために絶対に突破しなくてはならない関門がある。

 世に言うキリキアの門である。

 世界史に名高いイッソスの戦いの舞台は、このキリキア門を通り抜けた先にあると言えばわかるだろうか。

 シリアの豊かな穀倉地帯をマケドニアの手中に収めるためには、なんとしても突破しなくてはならない関門だったのである。

 しかしタウロス山脈をうねるように狭い峠道が延々と続くこの地は守るに易く攻めるに難い、ペルシャでも有数の要害であり、現にペルシャ帝国の誰もがこの地の難攻不落を疑ってはいなかった。

 …………確かにその気持ちはわからなくもない。

 数の優位を生かせない地形であるうえに、ペルシャ軍は高所にある利を生かして常にマケドニア軍の動向を把握することができる。

 さらに左右からの挟撃はし放題であり、弓戦となればやはり高所にある地形的優位がモノを言う。

 そんな地獄のような峠道が数十キロも続くとなれば嫌気もさそうというものだ。

 正直どれだけ犠牲が出るか、考えただけでも頭が痛い。

 真っ当な人間なら、迂回するか敵を調略しようと考えるだろう。

 だが残念なことに我らが主君はあらゆる意味で真っ当な人間とは対極にあるお人だった。

「勇者の誉れを尊ぶ者よ!アレスの祝福が欲しくば我に続け!!」

 そう叫んだかと思うと愛馬を駆り先頭に立って駆け出したのは誰あろう我らがアレクサンドロス陛下であった。

 陛下マヂ自重wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww!!

 雨のように左右から矢が降り注ぐが、何故かただの一本もアレクサンドロスに傷ひとつつけることができない。

 ……………ように見えるが現実にはヘタイロイの数人が王の身代わりとなって矢に貫かれ、ヘファイスティオンやクレイトスといった王の側近たちがやっきになって迫り来る矢を打ち落としていた。

 当然オレも例外ではない。

 ……というかさっきから至近弾が何発も目の前を通り過ぎてて生きた心地がしません。マジで。

 しかしそうした部下の奮闘を勘案したとしても十分に奇跡と表現するに相応しい光景だった。

 アレクサンドロス率いる軽騎兵部隊が高低さをものともせずペルシャ軍陣地を蹂躙し、さらに軽歩兵部隊も弓と投槍を振るって突入を開始している。

 まるで冗談のような展開にオレも苦笑を禁じえない。

 このときペルシャの太守アルサメスが焦土作戦を行うためにキリキア門に貼りつけていた戦力をタルソスまで引き上げさせていたということも望外の幸運だった。

 もしも全兵力が出揃っていたら、さすがの陛下でもこうまで一方的に蹂躙できたかどうか。

 常軌を明らかに逸したマケドニア軍の士気の高さに、完全に意気阻喪したペルシャ軍はあまりにもあっけなくキリキアの門を開いたのであった。

 いったいどれだけの幸運が作用すればこんな大勝利が得られるものか、凡人のオレには想像もつかない。

 ただ戦場におけるアレクサンドロスの神懸り的な強さはマケドニア兵士に深い感銘と感動を与えずにはおかなかった。

 神に対する信仰にも似た、無条件の信頼がアレクサンドロスに寄せられるようになったのは、今、正にこのときからであるのかもしれなかった。

 だが戦場にあっては無類の強運を発揮するアレクサンドロスも、平素にあっては決して幸運な人物とはいえない。

 むしろつりあいでもとるかのように時折不運が襲い掛かっているとさえ言えるだろう。

 タルソスでの事件はそうした不運のほんのひとつにすぎなかった。

 ………凱歌を挙げてタルソスの街に入城したアレクサンドロスはその晩、勝利の余韻と酒にしたたか酔っていたという。

 火照った身体を冷ますためにアレクサンドロスは思いつくままにキュドノス川へと身を躍らせた。

 ところが、キュドノス川で水浴びして火照った身体を冷ましたのはいいが、冷やしすぎたために風をこじらせアレクサンドロスは危篤状態へと陥ったのである。

 タウロス山中を水源とする清冽で冷たいキュドノス川の水はたちまちのうちにアレクサンドロスの体温を奪い去ってしまったのだ。

 こんな馬鹿なことで大切な専制君主を失おうとしているマケドニア王国軍こそいい面の皮であった。

 しかも宮廷医師のほとんどがさじを投げるという深刻な病状である。

 ただ一人、アカルナニア人のフィリッポスだけが治療が可能であることを主張していたが、彼はアレクサンドロスの評価は高いもののマケドニア宮廷人にはそれほど信用されていなかったので

 王の意識が戻らぬうちは彼に治療を任せるという選択肢はありえなかった。

「このまま陛下の意識が戻らなければ撤退ということも考えなくてはなるまい…………」

 既にマケドニア軍の幕僚たちはアレクサンドロス亡き後をめぐって水面下で熾烈な争いを開始しつつあった。

 本国への帰還を主張し始めたのはペルディッカス・フィロータス・メレアグロスといった王の側近の中でも前線指揮官的な実務派の将校たちである。

 彼らの思惑はそれぞれだが、少なくともこれ以上小アジアに留まり続けるのは危険だ、という見解では一致していた。

 さらになんといってもアレクサンドロスには息子はおろか妃すらいない。

 現在のところ最有力の後継者はアレクサンドロスの異母弟にあたるアリダイオスだが、深刻な言語障害を患っている彼には重臣の補佐なしに政務をとることは不可能である。

 すなわち、アリダイオスの後見人を務める者こそ明日のマケドニアを支配できる可能性があるということなのだ。

 だからこそ野心家たちは一刻も早くマケドニア本国に帰りたくて仕方がなかった。

 現在本国を統率しているのはマケドニアの宰相とも言える行政官のアンティパトロスと、フィリッポス二世以来の老雄アンティゴノスである。

 この東征からはずされ、いわば貧乏くじを引かされたはずの彼らにあごで使われるなどということは悪夢以外の何物でもない。

 アレクサンドロスという支配者がいなければもはや彼らを支配すべきものは自ら以外にはいないのだった。

「陛下の大業をなんと心得る!陛下が本復なされたときに、いったいなんと言って申し開きするつもりだ!」

 逆にアレクサンドロス亡き後を模索すること事態が冒涜であると考えるものもいた。

 もちろんその筆頭はヘファイスティオンである。

 ヘファイスティオンほど顕著ではないが、クレイトスも同じような意見を持っているように思われた。

 天命を受けたアレクサンドロスがこんなところで命を落とすはずがない。

 そう信じているからこそ、側近たちが将来に向かって右往左往することが裏切りのように思えてしょうがないのである。

 とはいえさすがに趨勢は帰国派へと傾きつつあった。

 アレクサンドロスはもう三日も意識が戻っておらず、点滴による栄養補給もできない古代にあってこれ以上の昏睡は死を意味していたからだ。

 帰国派の将校たちにとって、ヘファイスティオンはつらい現実からただ目を背けているだけにしか見えなかった。

「陛下がお気づきになられました!!」

 アレクサンドロスの天運はやはり規格外なものであった。

 まさに帰国が決定されようとした瞬間、全てを覆す報告が天幕へ飛び込んできたのである。

「余は何日眠っていたか?」

 アレクサンドロスの声にまだ覇気があることにヘファイスティオンは涙さえ浮かべて答えた。

「三日にございます、陛下」

 高熱による疲労と昏睡による消耗はアレクサンドロスをもってしても無視しえぬほど大きなものであった。

 仮にアレクサンドロスが本調子であれば、帰国を提案した側近たちを叱責し、たちまち騎乗して進軍を開始したであろう。

 たとえ英雄であろうとも、病は気を弱らせるものなのである。

 だからといってアレクサンドロスは自分の回復を全く疑ってはいなかった。

 英雄には英雄に相応しい死に場所というものがある。

 このタルソスが英雄たるアレクサンドロスに相応しい死に場所であるはずがなかったのだ。

「…………フィリッポスを呼べ」

 信頼する侍医を呼ぶよう命じたにもかかわらず、側近たちの反応が鈍いことにアレクサンドロスは気づいた。

 考えてみれば今この場にフィリッポスがいないこと自体が不自然である。

「…………どうした?フィリッポスはおらぬのか?」

 苦いものでも飲んだような表情でアレクサンドロスに答えたのはペルディッカスである。

 王にもっとも信頼を受けていた主治医が王のもとを離れるにはもちろんそれ相応の理由があるのであった。

「実はパルメニオン殿からかような書状が届いておりまして……………」

 ペルディッカスから手渡された書状を一瞥したアレクサンドロスは顔色を変えて獅子吼した。

「フィリッポスは医師である前に我が友である。友を疑うことは我をも疑うことと思え!ただちにフィリッポスを呼ぶのだ」

 パルメニオンの書状には、フィリッポスがダレイオス王に買収されてアレクサンドロスを毒害せんとの情報を聞き込んだので注意されたし、との文が連ねてあったのである。

 ペルディッカスにしろヘファイスティオンにしろ、そうした情報があってなお王の治療を異国人に任せようとする勇気は持ち合わせていなかったのであった。

 結果的に見ればその逡巡は巨大な損失となってアレクサンドロスを苦しめていたことになる。

「陛下、御前に」

 あわただしく現れたフィリッポスの肩をアレクサンドロスは親しく抱いた。

「余の主治医は貴殿にしか務まらぬ。………友である貴殿以外にどうして我が命を託せようか」

 アレクサンドロスは決して猜疑心や嫉心と縁がなかったわけではない。

 むしろそれらは旺盛であり、彼が心を開ける人間は通常の人間より遥かに少ないと言ってもいいだろう。

 しかし友に対して誠実であることを英雄たるの条件として彼が認識していることもまた、紛れもない事実なのだった。

 アレクサンドロスの立ち振る舞いはまさに英雄にしか発することのできぬ威厳に満ちており、ヘファイスティオンなどは感動のあまり滂沱の涙をこぼしている。

 多かれ少なかれそうした感動を天幕にいる誰もが味わっていた。

 だからこそ、側近の一人が忌々しそうに唇を噛んだことを誰も気づくことが出来ずにいたのだ。




「………どうも考えの足らない羽虫がおるようだな」

 男は腹に据えかねるといった様子で頭を振ると、報告に来た密偵の一人を下がらせた。

 自他ともに認める策士である男にとって、今回の陰謀はあまりに拙劣なものでありすぎた。これは男の計画にとって甚だ都合が悪い。

 今アレクサンドロスが倒れればマケドニアはまたヘラスの一強国に逆戻りである。

 それでも一向に構わない世界の狭い男が今回の陰謀の首謀者であるに違いなかった。

「アンティパトロスも息子の躾を誤ったか………あれほど行政家の手腕を持ちながらままならぬものよ」

 そう言って男は片目を閉じる。

 もう片方の目は永遠に失われていた。

 長身の男が瞑目して思索に身をゆだねている様子はなんとも絵になる情景であった。

「王が死ぬのはペルシャを滅ぼしてからであるべきではないか………」

 薄く男が嗤う。

 アレクサンドロスという戦場の天才は、大ペルシャを完全に打ち破ることだろう。

 それは自分には不可能なことだった。

 だが男はそれをいささかも恥とは思わない。

 自分に不可能なら他の人間にさせれば良いだけであり、結局のところ最終的な果実を奪うものだけが勝利者であるはずだった。

 男の見るところ、アレクサンドロスという人間は戦場で討ち取ることは不可能でも、戦場から離れた場所においては年頃の乙女のようにひ弱い存在であるように思われたのである。

「カッサンドロスに刺客を差し向けておけ。襲うフリだけでよいから決して殺すな」

 隣の部屋から一人の気配が消えていなくなるのを確認して、男は満足そうに頷いた。

 これでしばらくの間、カッサンドロスは疑心暗鬼に捉われて身動きがとれまい。

 いささか想定外の事態であったが、概ね男の計画に特に致命的な障害が生じたとは言えなかった。

「そろそろ陛下の病状も回復するだろうて………そうなれば次は…………」

 ダレイオス王自ら率いるペルシャ軍本隊との激突。

 歴史の潮流を変える戦いが目前に迫っているはずであった。

 ここでダレイオスを完膚なきまでに打ち破れば、ひとまずアレクサンドロスの使命は終わる。

 余人は知らず男だけがそれを知っていた。

 男の名はアンティゴノス。

 行政家にして軍政家であり、戦術指揮官であり、一流の謀略家でもある。

 簡単な表現をするならば、マケドニア王国内でもっとも前王フィリッポス二世に近い男であった。


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