第11話 ハリカルナッソス攻防戦

 ハリカルナッソスの城壁からマケドニア軍を見下ろすメムノンの表情には、まるで子どものようないたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

 結局強固な守備を目の前にして、マケドニア軍はハリカルナッソスの短期攻略をあきらめ、長期持久の構えを取らざるを得なかった。

 結果として宿営地の整備や攻城兵器の調達、水や食料の補給といった問題が、有形無形の楔となってマケドニア軍を疲弊させていくことは確実だったのである。

 もちろんメムノンもただ漠然とマケドニア軍の疲弊を待つ気はない。

 つい先日にも、包囲が完成する前のマケドニア軍の出鼻をくじくべく逆にこちらから先制の攻撃を仕掛けてもいた。

 守備側の思わぬ逆撃に動揺したマケドニア軍は、三百人近い損害を出しており、今後の逆撃に備えるために、より一層防備に気を使わねばならぬはずであった。

 攻めているのはマケドニアのように見えて真実はそうではないのだ。

 頑なに守りを固めたメムノンこそが、その実マケドニア軍を追い詰めていた。

「安心しろ、坊や。ハリカルナッソスはくれてやる。………だから思う存分はりきってくれ」

 メムノンにとってハリカルナッソスは自らが防備に手をかけた重要な拠点ではあるが、決して死守すべき都市ではない。

 むしろマケドニア軍の疲弊を誘うための囮に過ぎないというのが本音であった。

 そのためにはハリカルナッソスの市民にどれほど犠牲が出ようとも知ったことではなかった。

 ダレイオス王が堂々たる軍備を整える時間を稼ぎ、かつマケドニア軍を行くことも退くことも叶わぬ蟻地獄へと誘うことこそがメムノンの戦略構想の要なのである。

 士気高く、きびきびと包囲網を敷くマケドニア軍ではあるが、兵が強いだけでは決して超えられぬ壁がこの世にはあるのだ。

「始めようか、滅びの宴を」

 もちろん滅びるのがマケドニア側であることをメムノンは露ほどにも疑ってはいなかった。


 ペルディッカス配下の重装歩兵のなかにカントスとアリアネスという兵士がいる。

 彼らは隊の中でも指折りの勇者であったのだが、同郷の出身で年も近いことから事あるごとに比較されており、いつしか二人には熾烈な対抗意識が芽生えていたのだった。

 この日も酒を飲み同僚と語らうなかで、果たしていずれの武功が勝っているかという話題になり、互いの優位性を主張して譲らぬ二人は長年の宿怨に明確な決着をつけるためにある無謀な決断を下した。

 すなわち、ハリカルナッソスの高台に連なった市壁に攻撃を仕掛け互いの手柄を競うことにしたのである。

「おいおい、いったいどこの酔っ払いだ?」

 気が狂ったようになって、たった二人で壁にとりつく様子を見たハリカルナッソスの守備兵は笑った。

 明らかに無謀を通り越して狂気の沙汰であったからだ。

 しかし頭上から雨あられと浴びせられた矢をいともあっさりと切り払われるとそう笑ってばかりもいられない。

 たかが二人の兵士に好き放題をされていては士気に関わるからであった。

「あのお調子者たちを生かして帰すな」

 カントスとアリアネスを討ち取るべく門を開いて数十人のペルシャ兵が出戦した。

 それでもなかなか二人を討ち取ることができない。競争しあっているかに見えた二人の連携は抜群であり、互いの死角を庇いあって多数の敵に容易に隙を見せなかった。

 ペルシャ兵の只中に飛び込むことで頭上からの矢の攻撃を無効化すると、槍を斬り、剣をふるって縦横無尽に敵を翻弄する二人はまるで戦神の申し子であるかのようだ。

 一時たりとも立ち止まらず、常に機先を制して主導権を握らせない。

 理想的な少数が多数を制するための術策というべきだった。

 これほどの奮戦を見せつけられて同僚たちの意気があがらぬはずもない。

 ペルディッカス指揮下の重装歩兵たちは勇戦する戦友を救い出さんがために我先にと雄叫びを上げて突貫した。

 ペルシャ側も押し返すにしろ退かせるにしろ出戦した兵士を見捨てるわけにいかず第二陣が出戦する。

 期せずして両者は無秩序な乱戦に突入しようとしていた。

「いったい誰があのような勝手な真似を許したか!」

 本陣で激昂するのは誰あろうパルメニオンその人である。

 しかしその怒りは全く正当なものだ。

 組み立て中の投石器は四台中一台しか完成していないうえに、宿営地や防御陣地を含めた攻囲網はいまだ未完の状態にある。

 しかもつい先日には逆撃を受けて少なからぬ損害を蒙ったばかりで、工作部隊と連携した野戦陣地を整備中でもある。

 そんなところで勝手に暴走されては作戦そのものの鼎の軽重を問われるであろう。

 まして、先鋒を務める予定からはずされたペルディッカスの部隊の仕業ともなれば怒らぬほうがどうかしていた。

 カントスとアリアネスの暴走などというのは所詮体のよい言い訳にすぎない。

 失われた先鋒の名誉を奪い返すため、暴走に見せかけて戦端を開いたということは、ペルディッカスに事態を収拾する意志が全くないことでも明らかだったのだ。

「………お待ちください、パルメニオン閣下」

 しかしオレにとってこの展開は予想どおりのものだった。

 出戦を出来る限り遅らせて攻囲の準備にいそしんできたのはこの機会を待っていたからだ。

 ペルディッカス配下の兵士が暴走することは史実にも明記されていたし、人伝に密かにペルディッカスを煽ってもいたのだからこれで何もなかったらそのほうが困ってしまう。

 少なくともアレクサンドロス東征記においてハリカルナッソスの先鋒がレオンナトスでないことは確かなのだから。

「敵は明らかに虚を衝かれております。おそらく準備不足のまま強攻してくることを予想していなかったのでしょう。既に見張り塔が二つも切り倒されていることを考えてもここは戦機を捉え戦果を拡張すべきでありましょう」

 なんとも言えずペルディッカスが微妙な表情をした。

 独断専行で手柄を奪ったことにオレが全く拘らなかったので、逆に良心がとがめたらしい。

 虚栄心が強く他人の成功を妬む傾向にあるとはいえ、根っこの部分では人のよい、というか単純な男なのである。

「レオンナトスの言や良し。ペルディッカスよ、このまま市壁を突破して見せよ」

 アレクサンドロスの判断は明快だった。

 もとより戦機に躊躇するということはアレクサンドロスの本質に反するのだ。

「御意」

 事の成り行きに憮然としつつも、パルメニオンもこの判断に逆らうわけにはいかなかった。

 現実にマケドニア軍はペルシャ軍を圧倒しており、パルメニオンの目から見ても今がハリカルナッソスを短期に陥とすには絶好の好機だったからだ。

 そして感情に流されず好機を読み取り、あっさり先鋒の名誉を手放したレオンナトスの冷徹な判断力は恐るべきものに思われた。

 おそらく自分ですらここまで虚心になることはできまい。

 …………ペルディッカスのような背伸びしたがる餓鬼など比べるのも愚かしい。せめてこの期に戦功を立ててくれればと思っていたのだが。

 もしも全てを見通す神がその言葉を聞いていたら迷わずパルメニオンを諭したであろう。

 それは明らかな誤解である、と。


 乱戦は終始マケドニア軍が圧倒していた。

 それに伴って市壁の一部が土台から破壊されつつある。

 高台に位置していたために市壁の高さがその他の場所より低く設計されていることがその大きな要因であった。

 もっともメムノンもそうした弱みを座視していたわけではない。

 櫓を五つも立てて防御力を強化していたはずなのだが、乱戦のなかでは初期の防御力を発揮することが出来ず今では五基中三基までがマケドニア軍によって引き倒されてしまっていた。

「………蛮勇も時宜さえ得られればなかなかに侮れぬものだな」

 さすがのメムノンもこんな単純な力押しは想定していなかった。

 マケドニア軍といえば密集歩兵や重装騎兵のシステマチックな野戦能力が真っ先に思い浮かぶが、バリスタや投石器といった攻城兵器の機械化もまた他国を圧倒するものである。

 当然そうした兵器を有効に活用した無駄のない攻城戦をするものとばかり思い込んでいたのだが、いつの世にも想定外の事態は起こるものなのだ。

「さらに兵を繰り出してもうしばらく時を稼げ」

 メムノンは兵の逐次投入という兵理学上の失策を犯してでも時間を稼ぎ出すことを優先することに決めた。

 最初からある程度の兵の喪失は織り込み済みであり、足りなくなれば容赦なくハリカルナッソスの市民を徴集するつもりでいる。

 最悪の場合乱戦を維持するために投じた兵力は全滅してしてしまっても構わなかった。

「オロントバテス、予備を起こして待機してくれ。オレなら今このときに全面攻勢に討って出るだろうからな」

「任せてくれ。第二線の構築も急がせよう」

 乱戦がこじ開けようとしている一穴は確かに急所であるが、だからこそ防御を集中させぬために為すべきことがある。

 戦いの勢いがマケドニアにある以上、今マケドニアが後先を考えず全面攻勢に出た場合、凌ぎきる自信はメムノンにもないのだ。

 万が一突破を許した場合、メムノンは都市に火を放ってゲリラ戦を展開するつもりでいた。

 出来うる限りの損害をマケドニア軍に強要したうえで海から脱出する予定だが、この場合長年手塩にかけてきた子飼いの傭兵の大半を失う可能性が高い。

 なんとか戦線を保たせたいというのがメムノンの偽らざる本音であった。



「………レオンナトスならハリカルナッソスをどう攻める?」

 活気付く前線とは裏腹に、すっかり取り残されてしまった感のある本営では、なぜかオレはエウメネスと留守を預かっていた。

 どいつもこいつも前線に出撃したがったので消去法でオレが予備を預かることになったのだ。

 手柄を立てさせたくないアレクサンドロスの意向なのか、フィロータスもオレたちと同じく留守を申し付けられている。

 手柄をあげる機会を逃したフィロータスは残念かもしれないが、オレ的には最高のシチュエーションであった。

 ……………隣で嫌らしい笑みを浮かべている悪魔さえいなければ。

「どうせメムノンは危なくなれば海から逃げるんだし、無理をする必要はないんじゃないか?投石器を四台集中すれば城壁なんかいくらも保たないんだからガンガン投石して、補修しようとする連中は片っ端からバリスタや弓で狙い討ちにすればいい。湾口に近い場所に突破点を作れれば言うことはないな。逃げ道を心配しながら戦うのは辛かろうよ」

「………まあ確かにそうなんだけど、そう断言できちゃう武人はマケドニア広しといえどレオンナトスだけじゃあないかな?」

 どうやらまた何かおかしなことを言ってしまったらしい。

 いったいどこが間違ったのだろう?レオンナトスが直情的だったとはいえ、軍人としてそれほど的はずれなことを言ったつもりはないのだが。

「………レオンナトスは手柄を立てたいとは思わないのかい?」

 二人の会話を聞くとはなしに聞いてしまったらしいフィロータスが口を挟んだ。

 指揮官先頭がこの時代の基本スタイルであり、雄敵と雌雄を決することこそ一番の武人の誉れである。

 実際マケドニアの名のある指揮官は皆戦いのなかで敵将を自ら討ち取った経験を持っていた。

 しかしレオンナトスのいう遠距離射撃戦ではそうした機会を得ることは難しい。

 確かに危険は少ないだろうが、ともすれば敵はろくに戦うこともしないままに海へと逃げ出すだろう。

 それでは手柄が立てられないではないか。

「そう、レオンナトスのいう戦法ではレオンナトスという個人が手柄を立てられる可能性は限りなく小さいんだ。まるでハリカルナッソスさえ陥ちれば武将の手柄などどうでもいいと言っているように聞こえるんだよ」

 エウメネスの言葉に我が意を得たりと言わんばかりにフィロータスがうんうん、と頷いている。

 ………これはしくじったな。まだ国家に対する忠誠が手柄に対する褒美とイコールであった時代だということを忘れていた。

 マケドニア王国さえ勝利するならば地位も名誉もいらないなどと言えばそれは異端であると言わざるを得まい。

「今ここで精鋭を失えば来るべきダレイオス王との戦いをも失いかねない。より大きな勝利と手柄を得るために小さな勝利と手柄を捨てることが必要なこともある。そういうことさ」

 柄にもなく格好をつけて適当なことを言ったのは結果的に大失敗だった。

 フィロータスが感激に顔を紅潮させ、エウメネスがより一層の好奇心を瞳に宿して、ヌラリとした真っ赤な舌で唇を舐めまわしているのに気づいたときにはもう遅かった。

 ヒエロニュモスによれば、エウメネスが自分の唇を舐めるのは興奮したときの昔からの癖であるらしい。

 明日からさらにおもちゃにされるであろうことを確信したオレは、絶望とともに不貞寝を決め込むことにしたのであった。

 レオンナトスが自らの運命を呪って不貞寝しているころ、遂に市壁を突破したマケドニア重装歩兵は思わぬ光景に愕然として立ちすくんでいた。

 崩壊した壁の先を半円状に新たに築かれた壁が塞いでしまっていたのである。

 これまで費やしてきた時間と犠牲を全て無駄にしてしまう事態であった。

 この戦の当初から、メムノンは攻城兵器が発達したマケドニア軍を相手にすれば、たちまち城壁が破壊されるであろうことをよく承知していた。

 ならば補修すればよい。もしも補修が適わなければ新たに造ればよいのだ。

 そのための資材は十分すぎるほどに準備されていた。

 しかもハリカルナッソスという都市に立て篭もるメムノンにとって壁を積み上げる人的資源には事欠かくことはない。

 さすがのマケドニア軍も、ようやく突破したと思われた壁の向こうに新たな壁が出現してなお士気を維持することは難しかった。

 これまで味方に流れていた戦の勢いが急速に失われていくのを敏感に察したアレクサンドロスは一端兵を退き新たな機会を求めることを決意した。

 ここにハリカルナッソスを短期に攻略する見込みは完全に失われ、戦の行方はメムノンの目論見どおりに進もうとしていたのである。

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