第12話 お前は誰だ?
ハリカルナッソスの乾いた風に曝されながら、投石器による破壊とそれを妨害するための小競り合いがさらに数ヶ月の間続いた。
繰り返される消耗の中でマケドニアは千人以上の兵を、ペルシャ側は三千人以上の兵を失っていた。
ただ異なっているのはマケドニア兵が遠く本国を離れた精鋭中の精鋭であるのに対し、ペルシャ側は傭兵と市民兵の雑兵が大半であったということである。
お互いに決め手を欠いた攻防戦だが、資材と城壁の耐久力が限界に達しようとした時点でメムノンは全くためらわずに都市の各所に火を放って撤退を決断していた。
すでに計画どおりの時間は稼いでいたし、この先の戦いを見据えたうえで、これ以上ハリカルナッソスを維持するメリットは失われていたからだ。
今こうしてようやくハリカルナッソスに入城できたこともまた、メムノンの手の平のうえの出来事にすぎないことをエウメネスは暗い思いとともに確信していた。
街は焼かれ、奪うべき食料も物資もなく、肝心のギリシャ傭兵部隊の主力は艦隊とともに逃げ出している。
それどころか市民の間に紛れ込んだ傭兵たちが各所で不正規戦を展開しており、その被害もバカにならないものにのぼっていた。
ハリカルナッソス陥落とは名ばかりで事実上のマケドニア軍の敗北であることは補給に携わるエウメネスが誰よりもよくわかっていたのだった。
残念なことにその思いを共有してくれた人間はマケドニア軍内にいくらもいなかったのではあるが。
「さて、ここは急いでアリンダのアダに物資を供出してもらおうかな?」
「ちょっと待て、そこで何故オレを見る?」
「………ペルディッカスの兵士に金を握らせて焚きつけた男がいたそうなんだけど、今度陛下に聞いてもいいかなあ?」
「全力でお手伝いさせていただきます!」
どうしてこの男はこういう情報が早いのだろうか。
悪魔に握られている弱みがどんどん増えていく現実に、オレは涙をこらえることしか出来なかった。
…………泣くな………泣いたら悪魔が喜ぶだけや!顔で笑って心で泣くんや!
*************
ハリカルナッソスを捨てた後のメムノンの働きは見事の一語に尽きるであろう。
ペルシャ艦隊を縦横に操り、マケドニアの海上連絡線を寸断したばかりかキオス島を手始めに、既にレスボス島をもその大半を支配下へと置こうとしていた。
大陸側の港湾が次々とマケドニア軍に占領されているということもあるが、レスボス島を占拠する理由は、ただ策源根拠地を得るだけにとどまらない。
来るべきヘラス反攻作戦の根拠地にすることが本命なのである。
「それにしても陛下の側近たちは何をやっているのでしょうな。今ならばマケドニア軍は弱体化しておりますし、我が軍と挟撃すれば勝利は容易いでしょうに」
オロントバテスが憤慨したように言うのも無理はない。
マケドニアの侵攻からすでに半年近い時間が経過しているにもかかわらず、本国政府のしたことはメムノンを小アジアの総司令官に任命して艦隊の指揮権を与えただけにすぎないのである。
その気になれば四・五万程度の軍を緊急に動員することは容易かったはずだ。
なんといっても大ペルシャの動員力は十万を超えるのだから。
全ては事なかれ主義の官僚と大国ゆえの慢心のさせるわざとしか言いようがなかった。
「…………どうやら本国でもオレは嫌われ者らしいな」
自嘲するようにメムノンは嗤った。
所詮は外国人傭兵の哀しさである。
メムノンの計画ではハリカルナッソスで持久している間に兵を整える時間を稼ぎ、ダレイオス王の親征に呼応してマケドニア軍を挟撃するはずだった。
王の王たるダレイオスの親征ともなれば、その兵力が五万を下回ることはありえない。
今はマケドニア軍に尻尾を振っている地方豪族たちも、王の親征にはとても心穏やかではいられないだろう。
勝ち馬に乗り続けることが哀しい小領主の宿命なのだから。
現在のマケドニア軍は、ペルシャから離反した小アジアの小領主に補給の大部分を頼っているが、果たしてダレイオス王の軍が間近に迫って尚マケドニア軍に変わらぬ協力をとることが出来るかはおおいに疑問であるとメムノンは考えていた。
小領主からの補給が途絶えれば、マケドニア軍はたちまち飢える。
飢えたマケドニア軍が略奪に走るにしろ補給に戦力を分割するにしろ、何もわざわざ積極的に打って出る必要はペルシャ軍にはない。
ダレイオス王の軍勢が接近したというその事実だけで、占領地の治安は急速に悪化することは確実だった。
あとは有利な土地で、有利な時に、有利な体勢で雌雄を決するだけでよい。
先んじて戦いに打って出なくてはならないのは、追い詰められたマケドニア軍の方なのである。
ただそれだけの自明の理であるはずのことが、プライドや嫉妬から実行できないというのがやるせない現実というものであった。
メムノンの献策どおりに戦争が推移した場合、ペルシャの軍人は面目を失うと考えるものはことのほか多いのである。
また、王の王であるダレイオス王自らが出陣することなどあってはならないと考えるものも少なからずいた。
早急な援軍の望みが薄いことは、メムノン自身が誰よりもよく知っていた。
すなわち、メムノンは次善の策を講ずる必要に迫られていたのだ。
「まあ、それでも勝てぬというわけでもないさ」
必勝の策を封じられたにもかかわらず、メムノンはいささかも気落ちした様子はない。
むしろ愉快でたまらないといった様子で嗤っている。
それが虚勢でないということに、オロントバテスは感嘆を禁じえなかった。
小アジアのペルシャ艦隊司令官であるメムノンは、何もただマケドニアの海上補給線を襲わせていただけではない。
完全に手中に収めた制海権を利してヘラスの各ポリスに積極的な政治工作を行っていたのだ。
なかでもスパルタ王はマケドニア王のヘラス支配、すなわちコリントス同盟体制を決してよしとしてはいなかったので、戦況次第ではペルシャ側に寝返ることを約束してきていた。
もともとペロポネソス戦争においてスパルタはアテネに対抗するためにペルシャ王と手を組んだ実績がある。
ペルシャにとって味方に引き入れるには十分な理由がある勢力なのであった。
「…………全く、貴方にかかってはアレクサンドロスも小僧同然ですな」
メムノンの最終的な目標はレスボス島を根拠地として遠征軍を編成して、ヘラスへ逆侵攻することにある。
それがわずか一万に満たぬ兵力であろうとも、スパルタや、その同盟国の軍勢が呼応してマケドニアに反旗を翻した場合、留守を預かるアンティパトロスには
とうてい手に負えないことは明らかだった。
そもそもアンティパトロスは優秀な行政官ではあるが、戦術家としての能力は凡庸の域を出ない。
本国に残されたマケドニアの戦力は、東征軍に比較するべくもないほど弱体化しているのだからなおさらである。
さらにおそるべきは、たとえその事実を認識していたとしても、それを防ぐ有効な手段がない、ということだった。
海軍力で絶対的な差をつけられているマケドニア軍にはペルシャ艦隊の機動を阻止する術はなく、またヘラスを武力で制圧するだけの兵力も既に東征軍に引き抜かれている。
アレクサンドロスとしては早急にダレイオス王と雌雄を決して戦の帰趨を決めたいところだろうが、ダレイオスが出陣するのは最短でも年明けになるだろう。
八方塞がりとはこのことであった。
「戦いはオデュッセイアのように劇的には出来ていないんだよ、坊や」
戦術家としても戦略家としてもおよそ彼に及ぶ者がオロントバテスにも思いつかない。
まさにメムノンこそは神がペルシャに与えた世界最強の傭兵であった。
***************
マケドニア兵の一部は本国へと帰還を果たし、パルメニオンはサルディスを基点に小アジアの支配を固め、アレクサンドロスは南下して各都市をさらなる支配下に組み込みつつあった。
地図上だけを見ればマケドニアが支配領域を広げペルシャ侵略を順調に推し進めているように思えるかもしれない。
だがその実情は全く異なる。
アレクサンドロスの急速な進撃に補給を追いつかせるのは至難の技だったし、メムノンの軍もダレイオスの軍も無視して軍を分割しているマケドニア軍は、ともすればいつ全滅の危機に陥ってもおかしくない立場にいた。
パルメニオンは当然のことながら軍の分割には消極的であり、アレクサンドロスにも小アジアの基盤を固めメムノンに備えることを諫言していたのだが、とうとうアレクサンドロスに聞き入られることはなかった。
エウメネスはともすれば滞りがちな補給を整理するために東奔西走を余儀なくされている。
…………ところでそこにオレもつき合わされるのはもはや仕様なのだろうか?
「おう!エウメネス。相変わらず綺麗な面してるな。重畳重畳」
ハリカルナッソスの南に位置するミュンドスで積み下ろし中の現場で巨人に見紛いそうな大男がこちらを向いて手を振っていた。
身長はおよそ百九十センチほど。彫りの深い目鼻立ちの整った伊達男でもう六十に手が届くはずなのに、見た目にはとても五十を超えているようには見えない。
赤銅色に焼けた肌の色と、隆々とした筋肉と引き締まった身体は、男が歴戦の武人であることを雄弁に物語っていた。
鷲のように鋭い眼光と隻眼にかけられた刺繍入りの眼帯が、男の精悍さに艶やかさを加え、その際立った存在感は人目をひくことおびただしい。
なんとも絵になる男というほかはないだろう。
「アンティゴノス……!貴方が来てくれたのですか………!!」
エウメネスの顔色が喜色に輝いた。
このところ憂愁の色が強くなりつつあった表情が、ようやく愁眉を開いたようだ。
「がっはっは!………どうやらこの老体も知恵を絞らねばならんようじゃないか、ええ?」
アンティゴノスの言葉にエウメネスはゆっくりと頷いた。
マケドニア軍広しといえども謀将と呼んでよいのはおそらくアンティゴノスとエウメネスの二人だけだ。
パルメニオンやペルディッカスなどの諸将は野戦指揮官としては一流でも帷幄で策をめぐらすことにかけては素人も同然なのである。
もちろんこうした件に関してアレクサンドロスは全くと言ってよいほど当てにならない。
「………ことは王国の存亡にかかわります」
もはや尋常な手段でメムノンの鬼謀を止めることは不可能であるとエウメネスは考えていた。
レスボス島最後の拠点ミュティレネが陥落するまでもはやそれほどの時はない。
このまま無策に時が過ぎればマケドニア王国は戦に一度も敗れぬままに滅亡の道をたどるであろう。
たとえそれが至難だとわかっていても、限られたわずかな時間で戦局を覆す妙策を是が非にもひねり出さなくてはならなかったのである。
マケドニアを代表する宿将でありながら、アンティゴノスとエウメネスが赴いた先はごく普通の民家のひとつであった。
何の変哲もないだけに目立たない場所である。だが一般人に溶け込んではいるが複数の護衛が張り付いていることは気配でわかった。
どえらい機密事項が語られそうな雰囲気にクルリと背を向けたオレの首を後ろも見ずにエウメネスが掴む。
「どこにいくつもりですか?貴方も参加するのですよ、レオンナトス」
「いったいどこまで人使い荒いんだよ!」
オレが憑依してからの経緯を知らないアンティゴノスは呆れたように頭を振った。
「……しばらく会わぬ間にずいぶん仲がよくなったものだな」
「そりゃないだろ!?オレが一方的に虐待されてるだけじゃないか!」
おっさんいい年して目がおかしいいんじゃないのか?
一方的に利用する関係は断じて友情とは認めませんよ!?
「知らんかったのか?この男には気に入った人間をいじめる性質の悪い癖があるのだ。ヒエロニュモスを見ればわかるだろう?」
「そいつはいったいどこのハードSだ!?」
そんな歪んだ友情は断固としてお断りさせていただきたい!
ツンデレか?ツンデレなのかエウメネス?ならばとっととデレ期に入ることを要求する!
いや、それはそれでどうかと思わなくもないが。
「まあ、それはともかく情報が欲しいな。もちろんメムノンの動向は把握しているのだろうな、マケドニアの耳殿」
オレの悲憤を華麗にスルーしつつアンティゴノスが放った言葉は聞き捨てならない意味を含んでいた。
ペルシャ王国には王の耳と呼ばれる諜報機関があるということはオレも聞き及んでいる。
名前から察するにエウメネスがそのマケドニア版の元締めだということだろうか。
確かに立場上そうした組織を管理するには向いているのかもしれないが、いったいこいつは一人で何役の役目をこなしているのだろう?
「いやいや私は彼から報告を受けているだけですからね。………もうそろそろ来る時間なのですが」
その秀麗な顔に透徹な笑みを浮かべながら、エウメネスがそう言うのと玄関の扉が開かれるのは同時であった。
「………遅くなりました」
絶妙なタイミングでやってきた商人風のいでたちの温厚そうな男を、オレはよく知っていた。
詐欺にあったら真っ先に騙されそうな純朴な丸い顔立ちを忘れようはずもない。
内心ではソウルブラザーとさえ思っていた男なのだ。
「マケドニアの耳って………お前のことなのか!?ヒエロニュモス!」
「いやあ………ばれてしまいましたか。くっくっくっ………」
お前キャラ変わりすぎだろ?!
ってか今までエウメネスにいろいろと告げ口してたのお前かよ!?
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