第10話 最強の傭兵
ミレトスをめぐる攻防はほどなくマケドニア軍の勝利に終わった。
予想よりも早くミレトスが陥落したわけは、湾口を封鎖されたためにペルシャ艦隊がミレトスに直接支援を届けることができなかったためだ。
ということはハリカルナッソスのように城壁の内側に港を有する都市での苦戦は既に決まったようなものである。
海上補給線を断つことが出来ない以上、ハリカルナッソスは兵糧攻めでは落ちないだろう。
地道で陰惨な攻城戦が展開されることは請け合いというわけだ。
しかもあのメムノンが兵を率いているとなれば、できれば金輪際近づきたくもない。
ペルディッカスをはじめとした武断派の面々が張り切っているのでうまいこと影に隠れてやりすごそうとオレは都合のよいことを考えていた。
そういえばミレトスの陥落に伴ってアレクサンドロスはマケドニア艦隊を全面的に解散させてしまっている。
ペルシャ艦隊との戦で全く役に立たなかったことがその理由だった。
また、艦隊を維持していくことに財政的負担が耐えられなそうであることも大きい。
実際にはたとえ艦隊戦のような全面対決には使えなくとも、シーレーンの維持や私掠行為などある程度の艦隊は存在するだけでも十分な価値があるのだが、本質的に陸の将であるアレクサンドロスはそこまで想像をめぐらすことはできなかったのだろう。
「まあ、ペルシャ艦隊に痛い目を見ればすぐ思い直すだろうさ」
「………本当に見違えるほど頭が回るようになったね、レオンナトス。でも人を見る目は今一歩かな」
どうやらおちおち独り言も言えないらしい。
悪魔的な笑みを浮かべたエウメネスがまるで美味しい獲物を目の前にした獣のように、真っ赤な舌で下唇を舐め挙げていた。
なるほど、やはり綺麗な薔薇には棘があるのだな。
ついさっきまで艦隊の解散や、今後の作戦計画の詰めでアレクサンドロスやパルメニオンの間に立って四苦八苦していたはずなのに、いったいこいつはどこでオレを監視しているのだろう。
「ヒエロニュモスに聞いたらすぐ教えてくれたよ」
「あっさり売られた!?」
ヒエロニュモスよ、どうやら君とは友の在り方についてみっちりと討論する必要がありそうだね。
特に自己犠牲による友誼の発露などというのは非常に興味深いと思うのだが………。
具体的にいうと生贄はお前一人で十分だってこった!
「しかし随分早く抜けられたもんだな。パルメニオン閣下がもう少し食い下がるもんだと思ってたんだが………」
例によってパルメニオンはアレクサンドロスの艦隊解散には真っ向から反対している。
そしてその考えは完全に正しい。
結局そう遠くない日に、ペルシャ艦隊にフリーハンドを許すことの愚を悟ったアレクサンドロスは再びマケドニア艦隊を再編することになるのだから。
「陛下をあまり甘く見ないことだねレオンナトス。艦隊が必要なことぐらい陛下も十分わかっておられる。問題は艦隊を率いてきたのが誰か、ということさ」
どうも碌でもないことを聞いた気がする。
つまりは何か?艦隊の募集と教練に当ったのがパルメニオンの息子ニカノルであることが問題だと。
今後の対ペルシャ戦略においてこれ以上パルメニオンの軍における影響力が増大するのを避けたというわけなのか?
「パルメニオン閣下はそのことを………」
「ほんの少し匂わせただけですぐ察してくれたよ。この件について陛下が譲歩する可能性のないこともね」
幸い艦隊の解散はまだマケドニアにとって致命傷とまではならない。
早晩再編することが決まっているのならば尚更だ。
それでも決断するパルメニオンの胸中は断腸の思いであっただろう。純粋にマケドニア王国の将来を案じる股肱の臣パルメニオンにはこのオレですら同情を禁じえない。
これが王国の繁栄を第一に考えるフィリッポス二世であれば、パルメニオンもこんな摩擦を起こさずに済んだのだろうが、アレクサンドロスの望むのは王国の繁栄以上に自らの名声と好奇心であるのは明らかである。
そのすれ違いが遂には老将に悲劇をもたらすことをオレは史実として知っている。
「先日の鷲の一件以来、君もパルメニオン派と思われてるから気をつけたほうがいいよ」
「なんですとぉぉぉぉ!!」
今明かされる驚愕の新事実!!
何その勘違い?だいたいオレはパルメニオンとろくに会話を交わしたこともないですよ?
それにグラニコス夜戦でもちゃんとパルメニオンに反対したじゃん!
「どうもパルメニオン閣下が君をずいぶんと評価していて、ハリカルナッソスでも先鋒に君を推薦したのが原因らしいね。おかげでもともと先鋒の予定だったペルディッカスがえらくご立腹だよ」
パルメニオンまじ自重おおおおおおおおおおおおおお!!!
どうやら大筋はともかく細部の歴史はもはや取り返しもつかぬほどに変わってしまっているらしい。
しかもパルメニオン一党に目されるということは将来的に死亡フラグが立ちかねなかった。
いったいオレのどこに目をつけたもんだか………。
「くっくっくっ………人気者は大変だねえ………それはともかく、これからサルディスからの補給を手伝ってもらうよ?持つべきものはやはり友達だね」
ニヤリング
悪魔だ!悪魔がここにいます!マイガーッ!
*******************
メムノンの守備するハリカルナッソスは、いまや一個の堅牢な城塞と化していた。
死角を無くし、ほころびを強化し、弱点を補強したハリカルナッソスにこれといった攻略法はない。
ただただ時間と犠牲を大きくするばかりの正攻法による攻囲しかマケドニア軍には選択肢はないのである。
「それにしてもまさか艦隊を解散するとは……所詮坊やは坊やということか」
メムノンの戦略方針は都市持久によるマケドニア軍の消耗とシーパワーを最大限に活用した逆包囲を基本としていた。
マケドニア軍にとって小アジアの地は本国マケドニアのように統治しやすい土地ではない。
海上補給線を失ったマケドニア軍が軍を維持していくためには地上の補給線を利用するほかはないのだが、異郷の地で補給線を維持することと、補給物資を調達することはどんな軍隊でも至難の技なのだ。
あからさまな収奪に走れば占領地域の信を失うし、かといって味方を飢えさせていては士気が維持できない。
兵力的には圧倒的に不利な状況にあるマケドニア軍にとって、兵の士気と練度の低下は死活問題になりかねなかった。
もちろん補給線の警備に兵力を割く余裕もない。それを行うには占領した領域があまりに広すぎるのである。
正面からは相手にならぬペルシャ軍の三分の一ほどの戦力とはいえマケドニア軍にも海軍力があれば多少の海上補給の維持は出来たであろう。
いかにペルシャ海軍が四百隻の大軍を誇ろうといえども、地中海沿岸をくまなく見張るには少なすぎる。
ましてマケドニア海軍が通商破壊に転じた場合、少なからぬ戦力を護衛にも割り割かねばならぬはずであった。
「まさかそんなこともわからぬ道化とも思えんが………案外海軍内で裏切りでも出たか?」
アレクサンドロスの政権基盤が決して磐石なものではないことをメムノンは知っている。
アッタロスを初めとするアレクサンドロス即位に伴う粛清で、既に数多くのマケドニア貴族がペルシャ側に亡命していたし、その後もアンティオコスの子アミュンタスやアッラバイオスの子ネオプトレモスなどの重臣級の亡命者が相次いでいるからだ。
メムノンの口の端が不自然な角度に釣りあがった。
確かにマケドニア軍の精強さはこの世界の中でも飛びぬけている。
フィリッポス二世が手塩にかけた重装歩兵と重騎兵の絶妙に連携した戦術機動力は一朝一夕に追いつけるものではない。
特に歩兵の防御力に欠けるペルシャ軍では三倍の兵力があってなお苦戦は免れないだろう。
だが、それも全ては野戦に限ってのことだ。
攻城戦に関する限りマケドニアとペルシャに明確な差は存在しないと言ってよい。
マケドニア軍は諸外国に比しても投石器や攻城塔など工作力に力を注いでいるが、やはり堅固な城塞との戦闘では即効性に欠けると言わざるを得ない。
兵力、資金、物資の全てにおいてペルシャ王国とは比べるべくもないマケドニア軍にとって、時間は敵以外の何者でもなかった。
それでなくとも緒戦の戦果に満足してしまっている貴族もマケドニア軍には少なからず存在するのだ。
「初めからついていた国力の差はそう簡単には埋まらん。坊やの教師はそう教えてはくれなかったのか?」
「まあ、教師の言うことを真面目に聞くような人間なら大ペルシャに喧嘩を売ろうとは思わぬでしょうよ」
そういってメムノンに微笑んで見せたのはカリア地方の太守であるオロントバテスである。
中肉中背であるメムノンよりも頭ひとつは図抜けた長身であり、戦意に満ち溢れながら篤実そうな風貌を持つ期待の青年であった。
ペルシャ貴族にありながらギリシャ人であるメムノンに実に気さくに接してくれる、メムノンにとっては得がたい盟友でもある。
もともと才覚を買われて前太守の婿養子に入った男であり、出自の身分がそれほど高くないことも彼の気さくさの理由であろう。
だからこそ彼の有能さは確実なものであり、メムノンと秘密を共有するに足る有用な人物なのであった。
今のところメムノンの最終的な大戦略を知る者は実にこのオロントバテス一人である。
ハリカルナッソスそのものが、結局のところ巨大な囮にすぎず、いずれ放棄することを前提にしているなどということを末端にまで知られるわけにはいかないのだ。
囮は囮らしく、最後まで死戦してもらわなくてはならないのだから。
「ならば我らが教えてやらねばなるまいな。はねっかえりの小僧には身体に言うことを聞かせるのが一番の躾なのだから」
「なるほど左様にございますな。これほど貴重な教えを享受するのですから、授業料はいささか高くつくでしょうが」
メムノンとオロントバテスは顔を見合わせて不敵に笑いあった。
アレクサンドロスなど恐れるにはあたらない。
勝つための術策は既に万全であり、それを打ち破る手段が、マケドニアにないことは二人にとって自明の理であったのである。
*******************
マケドニア王国の留守を預かるのはフィリッポス二世からの老臣アンティパトロスである。
アレクサンドロスが彼に求めていることは、東征軍の補給策源地としての支援と、隙あらば刃向かおうとするヘラス世界を大過なく治めることだ。
スパルタ王国が相変わらず水面下で蠢動しているとはいえ、戦力のほとんどを東征軍に引き抜かれ、空洞化したマケドニア本国を全く動揺させることなくヘラス世界に君臨させ続けていることが、彼の行政官としての有能さを表していた。
とはいえ東征軍が敗れれば、たちまちこの平穏は打ち破られるのも確かなことであった。
「グラニコス川での戦勝を祝して民に酒を振舞え」
ペルシャとの戦いに不安を感じている者たちにとって緒戦の勝利は大きい。
実のところこの勝利によってマケドニアが抱える危機はいささかの軽減されてはいないのだが、少なくとも心理的にペルシャ王国は決して手の届かぬ存在ではなくなった。
戦費の増大は今後さらに国民生活に重くのしかかってくることが明白な以上、ここで勝利を徹底的に喧伝し、将来の見返りに期待させるのことも、アンティパトロスにとって必要不可欠な政治的術策なのであった。
「アンティパトロス様、母大后様より使者が参っております」
「……………またか」
老練な政治家であるアンティパトロスではあるが、このところのオリンピュアス母大后の介入には頭を悩ませざるを得なかった。
先代フィリッポス二世が存命していたときには全く政治に関わろうとはしなかったオリンピュアスが、神託と称してこのところ何かと口を挟みたがるのである。
オリンピュアスがデュオニュソス神の巫女であることはもとより承知とはいえ、現実の政治を神託に左右されるわけにはいかないのだ。
これは亡きフィリッポス二世から引き継がれた政治家としての良心であった。
「仕方あるまい。通せ」
アレクサンドロスの母への傾倒を知っているだけに、使者に対して無碍な対応は出来なかった。
下手に不興を買って万が一にも自分がマケドニアの留守居役をはずされるようなことがあればそれはマケドニアの破滅と同義である。
長年の実績によって培われた信頼と安心感を諸外国に見せ付けるだけの重みのある人材が、もうマケドニアには残されていないからだ。
有能な若者は育ちつつあるものの、外交関係ではやはり経験と人脈がものを言う。
ましてマケドニアの政治をオリンピュアスのような激情家が握るようなことがあれば、ヘラスはこぞってマケドニアに反旗を翻すだろう。
「母大后様の御神託を申し渡します」
内心は苦りきりながらもアンティパトロスは恭しく頭を下げて使者の言葉を受けた。
「毒蛇に気をつけよ。されど毒蛇を殺すものは英雄の剣にはあらず。毒には毒をもって征すべし、と」
「しかと、お伝え申し上げる」
くだらない。
その気になればなんとでも受け取れる予言だ。
フィリッポス陛下ならばこんな怪しい妄言は一笑に付してしまわれるのだが……それもせんないことか。
まずはアレクサンドロス陛下に使者を立てなければならない。
どうとでも解釈が可能な予言だが、伝えずに責任を追及されるのだけは避けなくてはならなかった。
あとは盟友パルメニオンたちが無謀な真似に及ばぬよう陛下の手綱をとってくれることに期待するほかないだろう。
…………パウサニアスのあの凶行を予言できぬ神託などにいったいなんの意味があろうか!
ほとんど露ほどにも神託を信じぬアンティパトロスの姿勢は政治家として完全に正しい。
しかしこの時代、神託が政治に影響を及ぼさぬ国家のほうが遥かに少ないのも確かなことであった。。
それも全ては一代の偉人フィリッポス二世の薫陶の為せるわざだったのであろう。
どこまでもアンティパトロスもパルメニオンも現実主義の徒であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます