第2話 邂逅

 知らない空だ。

 吸い込まれそうに蒼く高い空を見上げていたオレは、気がついたら地面の上に寝転がっていた。

「何か気になるものでも見えるのかい?」

 いつの間にかオレの隣で女性的で目もくらむような美貌の優男がなんとも不思議そうな視線をオレに向けている。

 お前…………誰?

 記憶の糸を手繰るとなんの障害もなく一人の男の名が脳裏に浮かび上がる。

 彼の名はエウメネス、国王陛下の筆頭書記官を務める男だ。

 はい……?エウメネス?っておいおいあのカルディアのエウメネスかよ?

 カルディアのエウメネス

 マケドニア王家最後の守護者にして悲劇の名将

 英雄伝中の人物の登場に思わず歴史好きの血が疼いた。

 それにしても黒く艶やかな髪を後ろで束ねて微笑んだその美しさはとうてい生半の美姫では及びもつかないほどだ。

 涼やかな黒曜石の瞳、すっきりと整った鼻梁、赤く小さな唇の形すら艶かしく感じられる。

 あのエウメネスがまさかこんな女みたいな容姿をしてるとは思わなかったよ!

 ん………?ところでオレは何か重要なことを忘れてはいないか?

 確か過去では自立して行動はできないはずじゃなかったっけ?

 ………確か99.9999999%の適合率が必要で彗星が激突する確率より低いとかなんとか………

 念のため右腕をゆっくりと上下させ、頬を力をこめて摘まんでみる。

 痛い……… 

 あ、ありえねえええええええええええ!!

 戻る!すぐ戻る!今戻る!瞬時にして戻る!この際出世とか言ってられるかあああああ!!

 …………現在この回線はお客様の都合により使われて…………プチッ

 あっさりとリンク断絶。

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!

「え~と……レオンナトス、何があったのかわからないけど、そう気を落とさずに………」

 こめかみから一筋の汗を流してドン引きしているエウメネスを気遣う余裕もなかった。

 まさかこんな時代に島流しにされる日がこようとは………!

 メムノン学部長!あなたを犯人です!

「ああエウメネス、こんなところにいたのですか!王がお呼びですよ」

「ああ、すまないねヒエロニュモス。レオンナトス、なにかあったらいつでも相談にのるよ?」

 名残惜しげにその場をあとにするエウメネスに思わず一瞬洗いざらいぶちまけたくなったが、かろうじて自制が間に合った。

 それをしたら完全に戻るすべが失われてしまうことに気づいたからだ。

 オレは必死になって学部長のレクチャーの内容を思い出す。

 戻るときには意思の力でスイッチを押す。

 ………手ごたえはあるが反応はない。うぐっ――いかん、クールになれ。

 万が一帰還できないようなことになったら……最後の手段として歴史を改変せず天寿を全うするのを待て………だったか?

 現状ではそれだけがオレを未来へと帰還させてくれる希望だ。

 確かレオンナトスは後継者戦争の最中にアンティパトロスを救援にいって戦死してるんだよな……それまで待てってのかよ。

「あのう……………」

 遠慮がちな声を感じて振り向けば、小動物的ないじめてオーラを発しているいかにも善良そうな青年がオレに視線を向けていた。

「なんだい…………?」

「よろしいのですか?レオンナトス様、そろそろ軍議になろうかと存じますが…………」

 ここで再び記憶を解析する。

 …………しまったあああああ!オレも軍議に召集されてた途中だったじゃねえか!

「ありがとうヒエロニュモス!このお礼はいずれまた!」

 内心の動揺に身を任せる余裕もなく、オレは王の天幕へと走り出した。

 急がなくてはならない。なにより歴史を変えてはせっかく唯一の帰還の道が閉ざされてしまうのだ。

 史実を変えぬよう細心の注意を払って行動しなくてはならなかった。

 ブカレスト大学四年生ヴラド・エラト・ハウレーンはこの古代ギリシャ世界で朽ち果てる気はさらさらないのだから。



「遅いぞレオンナトス」


 大王の第一声は叱責の言葉だった。

 すでに天幕の中にはマケドニアが世界に誇る知将勇将がズラリと顔を並べていたのである。

 当たり前だがオレが一番最後であったらしい。

 エウメネスが王の背後で苦笑いを浮かべているのが見えた。

 おいおい、わかってたなら一緒に連れて行ってくれよ!

「面目しだいもございませぬ」

 諸将に頭を下げあてがわれた席に着座する。

 あまりにも想定外の急展開にいまだ脳が追いついていなかったが、歴史好きの本能がかくも豪華な顔ぶれを見逃すことはありえなかった。

 正面で諸将を睥睨している若者があのアレクサンドロス三世である。

 世界史上初めての世界帝国を建設したとされる男だ。

 当年とって二十二歳、その鳶色の瞳から発散される眼光と覇気はさすが大王と呼ばれるに相応しいものだった。

 しかし思っていたよりも体躯は小さくその肌はいささか病的な白さが際立っているようにも感じられる。

 もちろん鍛えあげられたその身体は十分に水準以上であることもまた間違いないのだが。

 収まりの悪い茶金の髪に卵型の綺麗な顔立ちは母親のオリンピュアスの血の影響であろうか、いかにも繊細な印象を禁じえない。

 それでもなお、間違いなく稀代の英雄たるそのカリスマ性は離れていてもなお疑うべくもなかった。

 臆病なオレにはとうてい正面から瞳を正視することすらかなわない。

 そのアレクサンドロス三世の左側に座するのが歴戦の宿将パルメニオンであった。

 フィリポス二世のもとで武勲を重ねたその手腕は綺羅星のごときアレクサンドロス配下の諸将を見渡しても右に出るものがいない。

 良くも悪くも手堅く、粘り強く、戦理に決して逆らわない愚直なまでの合理主義が身上で、しばしば直感とプライドを優先させるアレクサンドロスとは好対照をなしていた。

 いまだ世界帝国の実力を有していないマケドニアにあってパルメニオンの手腕はどれだけ賞賛されても賞賛されすぎるということはないだろう。

 後代の歴史書ではとかくアレクサンドロスの引き立て役に目される男だが、その実力は決してアレクサンドロスに引けをとるものではない。

 意志の強そうな太い眉にギョロリと大きく丸い目玉と軍人髭、容貌魁偉な如何にも武人らしい人相をしている。

 既にこの時代の平均寿命を上回る六十近い年であろうに、おそらくはいまだ一線級の個人的武勇も失ってはいないに違いないかった。

 個人的に絶対に敵にまわしたくない相手だ。

 そしてパルメニオンとは反対にアレクサンドロスの右側に座するのがヘファイスティオンである。

 アレクサンドロスの親友にして恋人であったという噂も名高い男だ。

 高い身長に均整のとれた頑強な肢体に恵まれ、大理石の彫像のように彫りの深い男性的魅力に満ちたその容貌はまさに美丈夫と呼ぶに相応しい。

 ダレイオス王の母親がマケドニア王と見誤ったという伝説もあながち無理な話とも思えなかった。

 だが黄金率のマスク、軍神アレスの肢体を持ち国王の寵愛を一身に受ける彼だが、決定的な何かが欠けているようにも感じられる。

 それは後年彼が病死することをオレが知っているせいなのかもしれないが………なんというか少しも怖くないのだ。

 どうも遅刻したオレに気を悪くしているようでさっきからしきりとオレを睨んでいるのだが、敵に回してもそれほど恐ろしい気がしない。

 パルメニオンの凶暴な威圧感とは比べるのも馬鹿らしくなるほどであった。

 むしろ有能な武将に入ると記憶していたのだが……やはりアレクサンドロスあっての彼ということか。

 そして中央のアレクサンドロス三世からやや引き下がる形でエウメネスが控えている。

 王の発言を記録し、またその指揮命令を整備して全軍の有機性を維持するのが彼の役目であった。

 国王の書記官という彼の立場は現代風に言うならば遠征軍の参謀長に類するものだ。

 異国人でありながらも国王の補佐官としてアレクサンドロスに与えられた信頼は他の者の追随を許さない。

 ヘファイスティオンとの不和が後世に伝えられるが、アレクサンドロスがその死に至るまでエウメネスを右腕として重宝し続けたことを考えても彼の有能さがわかろうというものである。

 現在は政治経済兵站と多岐に渡って辣腕を揮う彼だが、その真価は以外にも軍才にこそあった。

 少なくともオレの知るかぎり、もし同一条件で戦争をさせたら後継者戦争中最強であろうことは疑いない。

 だからこそ柔和な美しい女顔で微笑を湛えるエウメネスがたまらなく恐ろしく感じられた。

 パルメニオンとはまた違った意味で絶対に敵対したくない相手であった。

………化け物の巣窟か、ここは………!

 この三人ほどは目立たぬとはいえ、後に控える者達も異彩を放つという点においては決して引けはとらない。

 パルメニオンの息子でありマケドニア重騎兵ヘタイロイの指揮官でもあるフィロータスは父に似て重厚な武人の気を纏っている。

 顔立ちは育ちがよさそうで父に似ず見た目もいいが、気質は間違いなく父親のそれを受け継いでいるように感じられた。

 後に帝国摂政として一時は後継者の頂点に立つペルディッカスも、まるでアレクサンドロスの小型版のような覇気とカリスマに恵まれている。

 おそらくは意識してアレクサンドロスを模倣しているのに違いなかった。

 クレイトスは身長が二メートルには達しようという巨人であり、その武威は素手でも獅子と戦えそうに感じられるほどだ。

 武威という点ではクラテロスの方も負けてはいない。

 マケドニアの国粋主義者としても名高い彼は丸太のように丸くぶ厚い筋肉を身体の前面にも後面にも満遍なく纏っていた。

 身長は小さく手足も決して長いとはいえないが、筋肉の鎧に覆われたその威容はまるで人の形をした鉄塊のような印象を与えずにはおかなかった。

 アミュンタスやソクラテス、メレアグロスといった面々もまた歴戦の戦士らしい一筋縄ではいかぬ者ばかりである。

 それに比べレオンナトスはいかにも平凡な男であった。

 オレの中に残されたレオンナトスの記憶をたぐって見てもそれは明らかだ。

 武芸の点ではクラテロスやクレイトスには及ぶべくもなく、政略という点ではアンティゴノスやプトレマイオスに遥かに及ばない。

 戦術指揮官としてもエウメネスはもちろんのことフィロータスはおろかペルディッカスにすら及ばないのだからその凡庸さが知れようというものだ。

 アレクサンドロスとミエザで学業をともにしたいわゆる大王の友人の中でも最も彼が出世が遅れているのは故ないことではなかった。

 なるほどこれでは熾烈な後継者戦争にいち早く脱落するのも無理はない。

 血筋が王家に連なるものでなければそもそも後継者に名を連ねることすらなかったであろう。


「さて、皆に集まってもらったわけはほかでもない」


 アレクサンドロスの静かだが強い意志の篭められた声音に、オレは夢想を断ち切られた。


「余は今夜のうちに全軍を以ってグラニコス川を押し渡るべきであると考えている」

………思い出した。

 今はまさに大王東征の始まりともいうべき、グラニコス川夜戦を目前に控えた歴史的瞬間なのだということを。



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