第3話 軍議

 グラニコス川夜戦―――

 アレクサンドロスの東征において、初めて本格的なアケメネス朝ペルシャとの戦闘が開始されたことで有名な戦いである。

 この戦いにいたるまで、マケドニアはペルシャに対抗する正当な挑戦者としてその資格を認められてはいなかった。

 あまりにも国力が隔絶しすぎていたために、まるで獅子に吠え掛かる犬のようにペルシャ側には受け取られていたのだ。

 その高慢が近い将来ペルシャの命運を左右することになるということに、このときまだ誰も気づくものはいなかった。

 いや、実は一人だけ、臥竜が天に昇る前に討つべきであることを正確に洞察しているものがいる。

 ペルシャ側のギリシャ人傭兵部隊の隊長メムノンその人である。

 彼は焦土戦術と拠点防御を併用することでマケドニア軍は容易く撃退できるということを主張していた。

 彼がもしも戦略的な指導権を有していたならば、アレクサンドロスの東征はこのグラニコス川の戦いで早くも頓挫していた可能性が高い。

 実のところアレクサンドロスはこの東征のために王室の領地はもちろん、種々の特権や宝まで売り払ってようやく軍資金を調達していた。

 もしも初期の段階で東征が失敗した場合、王権の弱体化と経済的疲弊から二度と立ち直れぬどころか、まかり間違えばマケドニアが滅亡してしまう可能性すらあったのである。

 それを見抜いて一時的な焦土戦術を提案したメムノンの才幹はいくら評価しても評価しすぎということはないだろう。

 ともあれ、今のところは史実どおりにマケドニア軍が主導権を握ったまま、グラニコス川の戦いは幕を上げようとしていた。

 と、思いきや

「グラニコス川の急流を押し渡れば隊列が崩れいたずらに敵の集中を許すばかりにございます。明朝の夜明けを待って歩兵数の優位を生かすべきでありましょう」

 パルメニオンのこの一声によって軍議の行方は俄然夜戦から払暁戦へと舵を切ろうとしていた。

 何この展開?もしかしてオレが遅刻したせいっすか?なんか初日からいきなり歴史が変わりそうなんですけど………もしかしてこれがバタフライ効果とか?

 風が吹けば桶屋がもうかるというアレですか?オレマジで涙目。

「あのヘレスポントスがちんけな流れと呼んだグラニコス川ごときに我がマケドニアが停滞を余儀なくされるなどあってはならぬことではないかパルメニオン。余の勇猛を持ってなる兵士たちもいたずらに時を浪費しようとは思わぬだろう」

 逸る激情を抑えきれないアレクサンドロスにペルディッカスもここぞとばかりに同調した。

「誠に陛下のおっしゃるとおりにございます。あのペルシャの鼻持ちならん連中が、果たして口ほどに勇敢なものかを試す絶好の機会になりましょう」

「戦のなんたるかも知らぬ小僧が己の秤で敵を推し量るでないわ、ペルディッカス!」

 パルメニオンの一喝にペルディッカスは顔を赤黒くして激昂したが、口に出しては何も言い返すことが出来なかった。

 否、言いたいことはあるのだろうが、パルメニオンの眼光を前にして言えるわけがない。

 端的に言えば役者が違うのだ。パルメニオンがひとにらみしただけでペルディッカスは己の格の低さを否応なく自覚させられてしまっていた。

 アレクサンドロスに己自身を投影しているペルディッカスにとってこれに勝る恥辱はないだろう。

 しかしパルメニオンとペルディッカスの間に横たわる経験と実績の差はたとえアレクサンドロスであろうとも否定は出来ぬ事実であるのであった。

 マケドニア軍中でパルメニオンに匹敵する戦歴と識見の持ち主となれば、それはアンティゴノスをおいて他にはいるまい。

「しかしパルメニオン、今ここで躊躇してペルシャ人どもが勇気を盛り返しマケドニアと戦う自信を取り戻すことあらばなんとする。奴らの臆病風がゆえないものではないのだと思い出させてやるためにも、奴らが我らの到着に怯えている今、この勢いを叩きつけることこそ戦機を捉えたものではないか?」

 アレクサンドロスはなおも夜戦の方針をあきらめきれぬようであった。

 もともと隠忍自重は彼の資質ではない。むしろ彼の本性は臨機応変と速戦即決にこそある。

 ここで安全策をよしとするはずがなかった。

「よきかな、まさに勇者の言でございます。しかしながら王の言とは思われませぬ。亡き先王フィリッポス二世陛下のお言葉を今一度思い起こしくださいませ。王とは兵を慈しみ国を保つことこそが本義。勝ちやすきに勝つことをどうかご賢察あってお選びいただきたい」

 そのあまりのいい様にオレは目を剥いた。

 明らかに臣下の分限を越えた物言いである。

 オレが考える以上にアレクサンドロスの王権は決して磐石なものではないようであった。

 即位に際して軍権を代表してアレクサンドロス支持を表明したパルメニオンに対する借り分が予想を超えて大きいということだろうか。

 臣下の身でありながら、君主に王者のあり方を説くその姿は古代中国の宰相、呂不緯や伍子しょの姿を彷彿とさせる。

 確かにアレクサンドロスは即位以前からその地位は不安定なものであり、即位した今でも権力基盤が磐石とは言いがたいのだ。

 また、アレクサンドロス陣中の高官の大半は、先代のフィリッポス二世に見出され登用されたものばかりであり、その点から言っても正面きってパルメニオンに対する反論することは難しかった。

 しかしそうした理はどうあれヘファイスティオンはパルメニオンの言を黙って見すごすことはできないようであった。

「陛下に対し何たる不遜な物言いであろうか!身の程をわきまえられよパルメニオン殿!」

 ……ヘファイスティオンの言葉が大王の事跡を知るオレにとってはごく自然なものに感じられたが、意外にも賛意を表すものは一人もいなかった。

 それが彼自身の人望のなさ故なのか、それとも彼の言葉そのものが受け取りがたいものなのかはわからないが。

「身の程をわきまえるのは貴様だ、ヘファイスティオン! 軍議をなんと心得る。軍議とは議論を尽くす場であり、臣下は陛下に対し諫言をためらってはならない。それは最終的に陛下の道を誤らせ国家と民を誤らせる基となるからだ。貴様も忠臣たるを志すなら陛下に阿るのではなく、死を賭して陛下に諫言奉ることをこそ尊ぶがよい。このパルメニオン、諫言をするからにはいつでも陛下に剣を賜る覚悟は出来ておるわ!」

 パルメニオンの圧倒的な矜持の前に、粛として声を発するものはいない。

 感情では納得できないながらも、さすがのヘファイスティオンもこれには対する言葉がなかった。

 軍議の行方はもはや完全にパルメニオンの主導で決したかに思えた。

 ふと違和感が脊髄を駆け抜ける。

 人は思い込みによって身体にないはずのものをあると知覚させることが出来る。

 想像妊娠などはその最たるものであろう。

 意識下に存在する帰還のためのスイッチへの感覚もそれに近い。決して実体があるものではないが、確かに存在を知覚することができる、と言ったものだ。

 その存在が今オレの中で急速に揺らぎ始めていた。

 今まで鮮明に写っていた視界が涙で急ににじんだような………あったはずのものが急に目に写らなくなってしまったような……そんな手ごたえのない不安にオレは全身を震わせた。

 これはもしかして平行世界に世界が移ろうとしてるのではないか?

 グラニコス川の夜戦が夜戦でなくなってしまったら、そりゃいくら歴史には修正力があると言っても修正は効くまいからな。

 ……ってなんじゃそりゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!

「ちょ、ちょっとお待ちいただきたい!」

 そういって口を挟んだのはほとんど反射的な生存本能のなせるわざであった。

 ギロリ、と擬音が聞こえそうなほどの迫力でパルメニオンの視線が向けられて思わずちびりそうになる。

 ……いや、ごめんなさい本当は少しちびりました。ってかおっさん本気で殺気こめるってどうよ?

「………確かに明朝満を持して戦端を開けば犠牲は少ないものとなるやもしれません………」

 だが、そうさせてはならない理由がオレにはある。

 たとえ残酷に思われようがオレにとってそれだけは譲れぬところだ。

 だからこそ詭弁であってもなんとかこの場の流れを変えなくてはならなかった。

「されどペルシャ軍は兵と兵の戦に勝つこと以上に我らの王陛下の命を目標にして参るものと判断せざるをえません。なんとなればたとえ戦の勝敗がどうなろうとも、陛下を失ったマケドニア軍がさらに東へと進むことはありえぬことだからです」

 アレクサンドロスにはいまだ嫡子がいない。

 異母弟アリスダイオスは知的障害者であり王位に向かぬことは周知の事実である。

 もしも今国王という重心を失ったならばマケドニアは後継者を争う戦乱の巷となるだろう。それは後年の後継者戦争を見ても明らかなのだ。

 現状アレクサンドロス以外に適当な後継者がいないというのはマケドニアにとって致命的な弱点といってもよいのだった。

「陛下が戦場に出られるにあたり夜戦となればペルシャ軍も陛下を見定めるに難儀することは必定。ここは陛下のお命の安全を優先することが長期的には国家のためと存じますがいかが?」

 相変わらず厳しい目で睨み続けるパルメニオンのプレッシャーに膝が笑い始めるのはご愛嬌だろう。

 言うべきことは言った。………とりあえず今は自分を褒めたい。

「渡河の際に隊列が崩れるのは昼間であっても避けられませぬ。陛下を守るためにもここは夜戦もやむを得ぬかところではありませぬかな?」

 オレの意見に賛同を表明してくれたのはクレイトスだった。

 身長二メートルに達するその存在感でオレに代わってパルメニオンに対抗してくれるのはありがたい。

 だってこれ以上の説得とか普通に無理だし、ペルディッカスみたいにでら怒鳴られたらきっと何かが漏れます。

 ふん、とパルメニオンが鼻を鳴らした。

 しかしその表情からは決して自説を否定された怒りのようなものは伺えない。

 むしろ存外に機嫌が良さそうに感じられるほどであった。

 先ほどまでとは百八十度違った感心の色を露にしてパルメニオンはオレに視線を合わせた。

「なるほどレオンナトスの言にも一理ある。ならばその言に相応しい行動によって陛下を守り参らせよ」

「……必ずや、このレオンナトスの一命にかえても」

 そう答えるほかに道はなかった。

 まあ、この世界から無事に戻るためにもアレクサンドロスに死なれては困るのも事実だ。

 どうせオレが頑張らなくてもクレイトスが守ってくれるはずだしな!

「よろしい、では左翼の指揮はパルメニオンに任せる。フィロータスとヘタイロイの者どもは余とともに右翼にあれ。アミュンタスとソクラテスもだ。

ニカノル、ペルデッカス、クラテロス、コイノスらは中央にあって両軍を補佐せよ。余はただの勝利は望まぬ。大勝利を、更なる大勝利を諸兄らに期待する。以上だ」

 そう言ってアレクサンドロスが軍議の終了を宣すると諸将は慌しく自らの率いる兵団へと引き返した。

 さきほどアレクサンドロスが宣した陣ぶれどおりに兵を再配置して夜戦に間に合わせるためには一刻の猶予もないからであった。

 陣ぶれに名のなかったオレとクレイトスとヘファイスティオンはアレクサンドロスの直衛に当たる。

 余計なことを言ったばかりにどうやらいらぬ期待をされてしまったようだった。

 そのことがヘファイスティオンにとっては心底面白くないらしい。

「貴公らしからぬ言であったが……遅刻も何かの役に立つこともあるということか」

 ええ~とそれは意訳するならば、遅刻して動転してたんで、たまたまあんないつものオレらしからぬ台詞が出たんだろう……と。

 てめえ、喧嘩売ってんのか!

「いやあ、本当に今日のレオンナトスは人が変わったようだねえ……」

 ヘファイスティオンと入れ替わるようにエウメネスが現れる。

 どうやらこの忙しいのにわざわざオレを追って天幕から走ってきたらしかった。

 くつくつといかにもおかしげに笑っているが、その目は少しも笑っているようには見えない。

 ……というかはっきりと疑われています。

 ワタシナニモアヤシクナイデスヨ?ホントデスヨ?

「そんなに韜晦しなくてもいいのに………」

 いやいや正体がばれるかばれないかは、はっきりと死活問題ですので!

「お、オレだってちゃんと成長するんだヨ?そりゃあ見識も智謀もエウメネスにはまだまだ及ばないけど」

「ほら、それだよそれ」

 おかしくてたまらないといった表情で目に涙さえ浮かべてエウメネスは笑った。

「王家の血すら入っている大貴族である君が、所詮異国人である私に自分を卑下してみせるなんてことはありえないんだ。そもそもマケドニア人自体がそうした謙譲の心に欠ける傾向にあるからね」

 言われてみればマケドニア人は良くも悪くも感情というものに素直な傾向にあるような気がする。ましてボンボンであったレオンナトスの言動を思い起こしてみれば………。

 根拠のない自信に満ち溢れていました!

「……事実は事実として受け入れることは尊いノデス。オレは今日それに気づいたノデスヨ?」

 怪しいカタコト口調になるあまりに頭の悪いオレの言い訳に苦しそうに腹を押さえながら、エウメネスは今度こそ本当に心の底からの笑みを浮かべた。

 思わず現在の危機を忘れて見ほれてしまうほどの微笑だった。

 片時も緩むことのなかった瞳が、何故か今は歓喜の色に輝いていた。

「………そうだね。君とは仲良くなれそうだよ、レオンナトス」

 いったい何が彼の琴線に触れたのかはわからない。

 しかし彼の言葉に嘘はないと、直感がそう告げていた。

「こちらこそよろしく頼むよ、エウメネス………」



 それがオレとエウメネスの付き合いの始まりだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る